004_春分(3月21日頃) 春彼岸の最終日、風見は飲み屋街を歩いていた。色とりどりの看板や赤提灯がひしめき合っている。
先ほどまで、三月いっぱいで異動する同僚の送別会が行われていた。送別会といっても、公安という所属の関係で、特に親しかった者数名で行われる小規模な会合である。風見が会場として押さえた店も、向かいに座っていてもそれなりの声量でなければ何を言っているか聞き取れないような、騒がしい場所だった。下手に落ち着いた環境で催すより、喧騒の中に紛れてしまった方が良いだろうと判断したのだ。まあ、職務に係ることはもちろん、個人情報が飛び交うことは無いのだが、雑音は多いに越したことはない。情報交換が目的ではないのだから。
異動する彼は、以前は風見と同じ班の所属であり、風見が自身の班を率いるようになってからも、何度も同じ現場で動きまわっていた。プライベートで仲良くしていたわけではないが、信頼できる人間の一人だった。そんな同僚が異動となっては、彼の栄転を喜びつつ少しは寂しさを感じる。
と、名残惜しさはあるものの、各々、明日も変わらず仕事が待っているため、不必要に長引くこともなく、数時間の一次会のみであっさり解散となったのだった。年度末ということもあって、定時に退庁することが難しくなっていたが、風見自身がセッティングした会だったため、今日ばかりは正規のタイムスケジュールを無理やり全うした。結果、残業続きの普段よりも早い時刻に帰宅できそうだった。風見は、不足していた睡眠を貪ろうか、溜まりに溜まった家事を少しでも片づけようか、考えを巡らせた。
駅へ向かう道すがら、スポーツドリンクでも買おうかとコンビニに立ち寄る。彼岸だからか、寺社や霊園が周辺にあるからか、自動ドアのすぐ横に仏花が何対か陳列されていた。会計を終えた大学生らしき集団とすれ違う。すでに出来上がっているのかやたら声が大きい。仏花とは異なる花束を持った者がいるから、卒業式だったのだろう。若いな、と他人事のように思っていると、誰かが風見の腕を掴んだ。
面倒な奴に絡まれたと思って振り返ると、よく見知った顔があった。
「降谷さん」と言いかけて、若者に絡まれて怪訝そうな顔をしたサラリーマン、という表情をとっさに作った。
黒いキャップを被った上司は、通りすがりに言った。
「そこのコインパーキングに車を停めているんだ」
来いってことか。
ペットボトルが二本入ったビニル袋をぶら下げて歩いていくと、降谷の言う通り、近くのコインパーキングに彼の愛車が駐車されていた。賑わった通りから一本入った道は薄暗く、駐車場が唯一の光源のように思えた。降谷が運転席から降りようとしないので、風見は助手席に乗り込む。ロックは掛かっていなかった。
「で、何のご用でしょうか」
降谷の意図は読めないことが多い。その度に困惑していてはやっていられないので――それでも訳が分からないという表情をしてしまうことは往々にしてあるが――、風見は普段通りの声色で言う。シートベルトを締めた方が良いか、言いながら考えたが、降谷が何もしないので、そのまま会話に専念することにした。
「いや、大したことじゃないんだ。ちょっとした頼みなんだが」
降谷の言う“ちょっとした頼み”が、風見にとっても“ちょっとした”ものだったことはごく僅かだった。運転席から後部座席を振り返り、なにやらごそごそとしている降谷の後頭部を無言で眺める。キャップを外した髪には段差がついていた。
「これなんだけど」
ウィンドウから入る、街灯の明かりの下に、小綺麗な紙袋が目の前に差し出される。中身は紺色の包装紙でラッピングされている。大きすぎず、小さすぎず、何が入っているのか見当がつかない。自分へのプレゼントかと一瞬考えたが、頼み事と言われて自分への贈り物が登場するはずがないと思い直した。そして自分がプレゼントされる事由に心当たりもなかった。
「今日の送別会の主役に渡してくれ」
「ええと、……と言いますと」
思いもよらぬ言葉が出てきたことに、風見は面食らった。降谷が部下に労いの言葉を掛ける姿は見たことがあったが、物品を渡すということがあるのか、と。しかし、よくよく考えてみると風見だって降谷の手料理を振るまわれることがあるのだから、風見以外の部下にも何かしらしていてもおかしくない。
「彼とは直接顔を合わせたことは無いんだが、良い働きをしてくれたから」
その良い働きはいったいどこから見ていたのだろうか、と思案しつつ、紙袋を受け取る。いやに軽い。タオルか? それともネクタイ? と疑問が募る。
「これ、何ですか」
失礼を承知の上で、聞いた。風見がそんなことを聞くとは想像もしなかったのだろう、降谷は目を丸くした。が、「彼の異動先で役立つものだ」とすぐに口元を緩めた。
「降谷さんって、こういうことするんですね」
自分で言っておきながら、「こういうこと」ってなんだと風見は思った。そして、なんとなく棘のある言い方になった気がする。
「プレゼントはカモフラージュなんだけど」
風見の物言いに苦笑しながら、降谷は言った。
「向こうが気づかなければ、どうってことのない情報なんだ。君からってことにして渡せば、君にも恩恵があるだろ」
なるほど、この上司は有用な人材に目を付けつつ、いざという時にはいつでも利用できるように下準備をしているらしい。直接の繋がりは求めないが、彼の手の内に集約できるように。今回は、風見にその片棒を担がせつつ風見にも得があるように手回しまでしている。
「分かりました」
受け取った紙袋を潰さないよう、滑らかな手触りの持ち手をそっと握った。助手席から降りようとドアハンドルに手を掛けたところで、「乗っていくか?」と降谷が言う。
恐れ多いという気持ち半分、なんとなく一人で歩きたい気持ちもあり、丁重に断ると、降谷は特に気に留めることもなくエンジンを掛けた。
白い車体が見えなくなるまで見送ったところで、先ほど購入したスポーツドリンクを二本とも持っていることに気がついた。自分だけ飲み物を持っているのはどうかと思い、上司の分も用意したのだが渡し忘れたのだ。小さくため息をつき、風見は大通りの方に体を向ける。薄暗闇の先に、行き交う車と看板の明かりが見えた。