カーテンの僅かな隙間から差し込む朝日に目が眩んで、モクマは穏やかな微睡みから目を覚ました。
夜のうちにずれてしまったらしい枕を手探りで見つけ出し、頭の下に敷き直す。未だ隣で眠り続けるチェズレイを起こさないよう、努めて静かに、身体を横へと向き直った。
世界じゅうで大暴れ――とまではいかずとも、それなりに裏社会を騒がせ、その名を轟かせつつある新進気鋭の犯罪組織、ニコルズ・ファミリーのドン。それが現在、相棒を表す端的な肩書となっていた。
けれど、こうして毒気のない顔ですやすやと眠っている姿を見ているうちに、そんな裏社会での姿は忘れてしまいそうだった。
ミカグラのみならず世界中の警察機構を騒がせた例の大事件ののち、モクマがチェズレイとの『約束』の再確認とバディ継続を決めてから、気付けば一年が経っていた。そして最近、新たな約束をチェズレイと交わし、その結果として肩を並べて眠るようになってからは、更にひと月が経過しようとしている。
これまでの、お世辞にもまっとうとは言い難い人生で、夜半を他人と過ごし肌を重ねた回数こそ数知れないが、すっかり根付いた忍びとしての性で、そのまま眠ってしまうことは、これまでただの一度もなかった。だから、似たような状況である今のシチュエーションで、自分が熟睡できるのだと知ったのは、本当につい最近のことだった。
「……毒されてるなあ、俺も」
けれど、その毒は振り払うにはあまりにも甘美の味をしていた。毎朝、起きるたびに大切な誰かが側にいること。その息遣いが間近にあること。それらに言いようのない安らぎを覚えていることは、否定しようのない事実だった。だからといって、忍びとして生きること、モクマの人生において至上の命題であったそれは、今も失われていない。
聞き逃してしまいそうなほど淡い寝言を漏らしながら、未だ夢の世界にいるチェズレイはモクマの方へ寝返りを打った。
普段は左右に撫で付けられている長い前髪が、はらりと頬をずり落ちて、チェズレイの鼻先を掠める。もくまさん、眠気に蕩け切ったあどけない声が、ほとんど意識もないままに己を呼ぶ。
じわじわと湧いてくる気恥ずかしさに、なんとなく身の置きどころがなくなって、つま先をシーツのあいだでふらふらと泳がせていたら、寝返りによってほど近くまで寄っていた男の脛を、ふいに蹴飛ばしてしまった。
それほど力が入っていなかったとはいえ、微睡を邪魔されたチェズレイは、眉間に深いしわをつくりながら、もごもごと何かをつぶやいた。モクマへの抗議だろうか。その表情がむずがる子供のようで可愛くて、ついに堪えきれず笑みが漏れた。
押し込めようとすればするほど、喉の奥からはくつくつと笑みが零れ落ちる。そうしているうちにとうとう、夢の世界からひきあげられてしまったらしいチェズレイが、目を覚ましてしまった。花開くように、美しい藤の瞳が、ぼんやりと揺れながらも真っ直ぐにモクマを捉える。
「あー、おはよう……?」
少しだけ気まずい。へらへらといつも通りの笑みを浮かべて挨拶を返す。
「ごめんな、起こしちゃった?」
「いえ、それは、べつに……」
これもまた、共寝をするようになって知ったことなのだが。チェズレイは存外、朝に弱かった。もちろん、一度しっかり目が覚めてしまえば以降はモクマよりよほどしゃっきりと動き出すのだが、その切り替えのかかりが悪いと言うわけだ。そんなわけでチェズレイは今日も変わらず、可愛らしい寝惚けた様子を、無防備なままでモクマにさらしている。
「おはよう、ございます……モクマさん……」
手探りで伸びてきた指先が、枕のあたりで所在なく待っていたモクマの左手を捕まえた。普段は純白の手袋に覆い隠され、ピアノを奏でる時くらいしかお目に掛からない、むき出しのままのすらりと長いチェズレイの指。
掴んだ手の存在を、かたちを確かめるように、何度も握っては絶えず絡めてくる。そうしているうちに、さすがのチェズレイも段々と目が覚めてきたようで、微睡の色に染まりきっていた靄が次第に霧散して、ゆっくりと醒めていく。
「チェズレイ、そろそろ起きるかい?」
「いえ、このまま……あと少しだけ」
そういって、チェズレイは続ける。この行為を、リハビリと称したのは、果たしていったいどちらが先であったか。モクマは逃げないことを、チェズレイは触れることを。お互いが苦手だったものを、受け入れる訓練をしよう、と――。
チェズレイの、ピアニストらしい嫋やかな指は、モクマの節くれだった指の関節をひとつひとつ撫で、荒っぽく整えられた爪をなぞった。するり、と絡まる指のはらが、指のあいだを、手のひらの皺に触れて、もういちど、繋ぐように指同士が絡まる。
少し冷たいチェズレイの肌に、比較的高いモクマの体温がじんわりと溶け出して、やがてどちらのものかわからなくなるくらいに混じり合った。すっかり同じ温度にかわった五指が、いじらしく組まれる。
そのあたりから、モクマは指先から己の心臓にかけての甘い痺れを感じ始めており、内心、まずいなと思いながらも男のするままにさせていた。未だ何も言わないチェズレイの、あまりに明け透けな意図――。
もちろん、ふたりの間にはこれまで一度だって、リハビリ以上の肉体的接触はなかった。それはモクマが無自覚に、けれど明確に引いてきた一線だったし、彼だって敢えてそれを越えようとは、ただの一度もしてこなかった。なのに、どうして今さらになって。
すっかりあたたまったチェズレイの指が、さらに伸びてモクマの手首を捕まえた。これは、いつかの日にもやられたことがある。脈拍で相手の心情を読み取るのは、この男の得意技だった。けれど、今だけはそれを発揮してほしくなかったと思うのは、モクマのわがままだろうか。
「緊張していますね」
「そりゃあ、朝っぱらからこんな風に、熱烈な色男に迫られちゃあねえ……」
茶化しながら――さりげなく距離を取りたくとも、モクマの手を捕らえて離さないチェズレイが、暗にそれを拒む。穏やかな空気が、じわじわと重苦しい雰囲気を纏い始めた。それは、チェズレイの発する不穏であったし、モクマの内面から滲む焦燥でもあった。
このまま、彼が望むように、彼が望むものを与えてはやれたら、どれほど楽だろう。けれど、そうすることはできない。誓って、彼が嫌いだからではない。かつての事件を乗り越えてからのモクマは、むしろチェズレイのことが好きだった。
賢知で、一途で、そのくせ偶に突飛な行動をしでかすから一瞬だって目が離せない、そんな一面を持った、世の誰よりもうつくしい男のことが好きだった。恋情とも、親愛ともつかない、けれど確かに、好意という情をモクマは持っていた。
でも、だからこそ、なのだ。
「……ダメだよ、チェズレイ」
モクマはできる限り優しく、チェズレイの指をひとつひとつはがして、ようやく自由になった手を顔の横で振って見せた。
それは線を越えていると、モクマは青年の手を拒む。自分の未来をこの男にやるのはいい。彼の道に付き従うことは、かつての主が望んだ生き方に適う気がしていたから。
だが、モクマが彼の未来を欲しがることは許されない。たとえチェズレイがそれを望んでいたとしても、絶対に。他でもないモクマ自身が、そう思っていた。呪いのように、強く、固く。
あの里が得たはずの幸福を根こそぎ奪い、土の底に埋めてしまった原因は、己にこそあったはずだからだ。それだけは、何があっても忘れてはならない。もう逃げないと、罪と生きていくと決めたから。
「……お前さんは、分かってくれるだろう?」
ずるい言い方だ。尊重をこそ是とする彼は、こうして明確な線を引けば、それ以上の侵犯を絶対に冒さない。今日のリハビリはおしまい、と言って何か言いたげな目で口を噤み続ける青年から離れる。ほのかに残る甘い空気を意識的に断ち切って、モクマはシーツから身を起こした。ぺたぺたと裸足のまま、窓辺へと足を向ける。陽を遮っていたレースカーテンを勢いよく開くと、その眩しさに目がくらんだ。
「ほら、チェズレイ、良い朝だよ」
白い光の中で、モクマはただ曖昧に微笑む。早朝の微かに冷えた空気が、相棒の熱が未だ残る指先を端からじわりと冷ましていった。