不滅のあなたに捧ぐ前髪の長いおじさんが、駅前に置いてあるピアノを指先で触れていた。
白い鍵盤を押して音を確かめているらしい。
日曜日の昼間、そこそこある人出の中で市民に解放されているピアノを弾く人がたまに居る。
「ねこふんじゃった」から
どこかで聞いたことがある曲、
自作の曲を披露するミュージシャン、様々だ。
タンタン、と何回か鍵盤を叩いてからおじさんは椅子に座った。
四角いピアノのペダルを踏んでいる。
どうやら経験者らしかった。
長い指を鍵盤の上にかざす。
フッと一息吐き、彼の指が鍵盤の上を滑り始めた。
(ああ、聞いたことがある曲だ)
中学の音楽の授業で聞いた事がある。
ああ、何だったっけ。
悲しい旋律だった。
低い音階のメロディが続く。
左手が三つの和音を、右手が主旋律を奏でている。
ピアノの周りにはいつの間にか人垣ができていて、僕の他にも観客がその行く末を見守っていた。
「ねえ、月光だったかしらね、ベートーベンの」
思い出した、ピアノソナタ、月光。
日曜日の昼間から改札前は悲しみに包まれた。
──彼が弾く月光には悲しみだけでなく何か情念のようなものを感じた。
「叶わない恋に敗れてもなお貴女を思い続けます」
そんな一節を教師が口にしていた気がする。
今、彼は「彼」になりきって演奏している。
おそらくは、多分。
時間にして15分。
鍵盤の上を移動していた長い指が動きを止めた。
その場にいた全員が最後の余韻に浸っていたところで──
恐ろしく早い「ねこふんじゃった」がその指から奏でられ、ジャン!と鳴ったピアノで目を覚まされた。
「月光」の後に照れ隠しみたいな「ねこふんじゃった」だなんて。
「──ご清聴ありがとうございました」
ニヤリと口元を上げ振り返る彼は、奏でるメロディの印象とは異なる悪人面をしていた。正義の味方のライバルみたいな顔だ。
「おい少年、お前さんだよ、ピアノ習う気はねえか?」
肩掛けバックの中から出てきたポストカード大のチラシには「真田ピアノ教室」と。
「見学だけでもいいぞ、来てくれよ、な!」
何故か観客の中から見いだされてしまった僕は、買い物袋の中にポストカードを押し込まれた。マンションの一室と思われる住所、Wordで一生懸命作ったらしいポストカードの中では燕尾服を着ていた。
あのおじさん──真田っていうんだ。へぇ。
少年が彼の元に通い始め、国内コンクールを総ナメにするのはまだ先の話。