新月の日、バスルームで アイクはフ、と顔を上げて、スラックスの尻ポケットからスマホを取り出した。 ロック画面に表示された2時17分の文字を見て、若干乾燥した唇の隙間から小さく息を漏らす。首を一周回せば、ゴキゴキと痛い音がした。何度か強く目を閉じたり開いたりして、眉間を人差し指と親指で押さえながら、疲れた顔で爪先から5cmのところに転がる死体を見下ろした。
小太りの男の死体の鳩尾のあたりには刃物で刺されたような傷跡からジワジワ血が滲んでおり、黄ばんだTシャツは汗でじっとりと肉に張り付いていた。バスタブとトイレと小さな洗面台と洗濯機に圧迫されたバスルームはただでさえ手狭なのに、さらにスペースを取られては身動きができない。15分ほど前まではまだ少し生きていた男が暴れた衝撃で落ちたシャンプーをラックに戻して、バスルームの換気扇を回した。ヴゥンとファンが低く動き出し、鉄錆びた臭いが幾分マシになる。
額を小指でちょっと掻いたアイクは、左手に提げた大ぶりのナタをブラブラ揺らした。 死体の色褪せたジーンズのポケットから安いライターを見つけ、洗濯機の上に置きっぱなしになっていた湿気った煙草を咥えて火をつけた。細くたなびく煙は換気扇に吸われて行き、換気扇の駆動音とナタの刃先がゴツゴツタイルに当たる音だけがバスルームの壁によく響いた。3口吸っただけのまだ長い煙草を 死体のポッカリ開いた口に突っ込み、チラリと見えたヤニで汚れた金歯に柳眉を顰める。
首を切り離すときに顔を見たくなかったので、磨かれたタイルの上にダラリと横たわる死体をひっくり返し、Tシャツを剥ぎ取った。 毛むくじゃらの背中には青紫色の死斑が薄らと現れていた。分厚い脂肪に覆われたうなじに何度か刃先を当ててアタリをつけ、無感情に刃の背を足で踏みつけてゴキゴキと首に沈めていく。 人間の頚椎というのは存外固く、随分骨が折れた。 しばらく格闘し、ようやっと胴体から離れた首はゴロンと転がって、伸びてほつれて脂ぎった髪から潰れた鼻先を覗かせた。少々雑な断面から思ったより多くの血が流れ出し、手と革靴を汚した。
アイクは小さく「Shit」と呟いて、革靴を手を使わずに脱いでバスタブに放り投げた。可愛いあくびをひとつして、死体の左の肩口に刃先を置いたとき、腹の虫がキュルキュル鳴いた。そういえば、夕食を食べていなかった。
「Ah...umm.....」
誰もいないのに慌ててしゃがみ込んだアイクは立てたナタの柄に顎を乗せて唸り、しばらくしてゆっくり立ち上がった。 服に飛んだ血が乾き始めているのに色の薄い唇を少し曲げて、タイルの血溜まりを爪先立ちになってプルプルしながら避ける。ようやっと洗面台に辿り着いた勢いで焦って蛇口の栓を大きく開いてしまい、ドオッと送った水が袖口を濡らした。水の冷たさに皮膚が突っ張ってピシピシ鳴る。
指先を揉みながらバスルームのドアを背中で閉めて、キッチンに向かう。青白い冷蔵庫の光に目を細めて、コークとエナジードリンクの立ち並ぶ隙間から賞味期限を2日ほど過ぎた食パンを引っ張り出した。キャビアペーストを塗りたくって、牛乳を飲みながらトースターに突っ込む。5分もすれば焼き上がったトーストに立ったまま齧り付いた。慣れた味に自然と口角が上がったが、2枚、3枚食 べ終えても胃の空虚な感じが抜けず、 アイクは眼鏡を外して悲しげに鳩尾の辺りを押さえて、冷蔵庫に背中をつけてズルズル座り込んだ。暗がりでペリドットの瞳がぼうっと光っていた。死体の生気を吸ったような輝きだった。もう何もうつさない空っぽの目に最後に映り込んだバスルームの白い明るさだった。 時刻はちょうど3時。 月の光の死んだ夜のことだった。