ラストノート 誰にでも、個人特有の香りというものがあるだろう。
それは例えば柔軟剤やシャンプー、香水などの意図的なものかもしれないし、食べ物や汗や日向の匂いかもしれない。あるいは染み付いた硝煙、インク、マア挙げればキリがないが、いずれにせよ、ヴォックス・アクマにはそれがない。
人形であっても木やゴムや顔料の匂いがするものだというのに、人ならざる異様な美貌のあの男からするのは重たい煙草とか、濃いムスクとか、 高価いワインだとか。時と場所によりけりで毎度知らない香りがするのだ。覚えられるのを拒むように。
そんな彼が、同じ香りを纏っている日がある。 年に一度、その日だけヴォックスは、彼の家にひとつだけある狭い畳敷の部屋に白檀の香を焚き込めて、日が昇っては沈み、また昇るのをただジッと待っている。ミスタは、脇息に凭れもせず修行僧のような固く冷たい顔でシン、と座しているヴォックスにピッタリくっついて、何をするでもなくそこにいるのがいつのまにか習いになっていた。
頼りない燭台の火だけが揺らめく室内に音は無い。
ヴォックスは瞬きひとつせずにその真ン中に背筋を伸ばして胡座をかき、標本匣に留められた蝶のように、…あるいは斬首を待つ罪人のように、 黙って一点を見つめて琥珀色をピカピカ光らせていた。睫毛に炎の影が乗って目尻の紅を濃くする。 その背中に寄りかかっているミスタは、退屈そうに欠伸をして後ろにグ、と体重をかけた。 ヴォックスは無抵抗に頭を揺らし、投げ出されたミスタの手の甲を指で宥めるように撫ぜた。その 慈愛に満ちたような動作さえ絡繰人形染みていて、 ミスタは不機嫌に唇を歪めた。
とっくに日は暮れていて、分厚い緞帳を下ろしたような重たい影が部屋を包み込んでいた。白檀の香は闇がその存在を重くするほどに濃く、噎せ返るまでになって、脳の芯が滲んでゆく。
ふと、ミスタは「こいつの死体からはどんな香りがするんだろ」と思った。職業柄、死体を見ることは一般人より余程多い。きっとそのどれもが発していたような鉄臭い血の臭いや肉の腐る臭い、 かび臭い、埃っぽい臭いなんてしなくって、きっと、白檀の香りがするんだろう。
ゆっくり目を閉じて、広い広い御堂の真ン中に横たわるヴォックスの死体を想像した。五色の天井、床に522本の蓮の花が咲いて、こいつは巨大な荷葉の上の露になって、黄金の目を開くことは二度とない。肉からも骨からも白檀の豊かな芳香がして、きっとおれの痕跡なんざどこにも無いんだろう。もしかしたら肉にも骨にもならず、 静かに静かに、塵になるのかもしれない。 背中の爪痕も、薬指の約束も何もかも残さずに。だっておれは、どうしたってこいつより早く死ぬ。
「癪だな」と思った。こいつの横におれがいたことを、こいつがおれのものだったことを、おれがこいつのものだったことを、誰も覚えていない時が来るんだ。それがどうにも、癇に障る。
ミスタはクッと下瞼を持ち上げて煙草を咥え、 ヴォックスの背中から身体を起こして燭台の火に煙草の先端を突っ込んだ。ジ、と紙の燃える音がして、甘ったるいバニラが肺を満たす。
わざとドスンと勢いつけてまた後ろに倒れ込むように凭れかかった。煙がぼう、と揺れる。ヴォックスは何も言わなかった。ただ無抵抗に頭を揺らして、仇敵でもいるように畳の目を見ている。ミスタはひとつ大きく吸って、ヴォックスのシャープな顎を引っ掴んで無理矢理後ろを向かせた。中途半端に結ばれた唇をこじ開けて、煙を流し込む。舌先に牙が掠って少し血の味がした。
合わさった唇の隙間から漏れ出た煙がふたりの視界を覆う。それが目に染みたのか、ミスタは涙をひとつこぼした。下睫毛に引っかかった雫が紫煙の向こうでキラキラしていた。白檀とバニラのフレーバーが肺の中で混ざり合う。空はもう白んできていた。ア、夜が明ける。
こいつの死体からはどんな香りがするんだろ。 バニラの香りなんて、笑えないけど。
ミスタは唇をくっつけたまま声を出さずに笑った。
「もう寝ようぜ、daddy」
ヴォックスは眠たそうにも、眩しそうにも見える顔でミスタを見て、低く喉を震わせた。口内に漂う煙を呑み下して、笑う。
ヴォックスは、ミスタに煙草をやめて欲しかった。人なんてただでさえ早く死ぬのに、なんだって自ら死に近付くのか。 ヴォックスにはとんと理解ができなかった。…まさか齢四百を数える己がさみしさを盾にみっともなく「俺のことをかわゆく思ってるンなら今すぐその毒を打っ棄ってくれよ」なんて脅かせるわけがなかったし、何より、 煙たいバニラを纏う彼が好きだった。
「…………」
ヴォックスにとって、人は過ぎ去ってゆくものだった。雲や、車窓の景色や、季節と同じで。 楽しいときほど終わりは早くて、愛したひとほど早く死ぬ。それに知らないふりをするには、 ヴォックスはあまりにも長く生きすぎていた。指を切り、骨を噛み、名を刻んでも人は死ぬ。 …千歳を生きろなんて言わないから、どうか、線香の消えるまでで良いから。その思い出だけで生きてゆけるから。そうやって小さな小さな幸せだけで満足できるようにしなければ、この先どんな愛も喜びも死因になってしまうから。そのために、未練がましく和室なんて作って、香なんて焚いている。
本当に、残虐非道な化け物であればよかったのに。
そうしたら、こんな出口のない穴に落ちることなんてなかった。永遠が無いことに繰り返し絶望することなんてなかった。置いて逝く辛さを味わわせることも、なかった。
……俺は、ミスタの死を受け入れられるだろうか。できたとして、それまでどのくらいの時間が必要だろうか。千年後に夜は明けるだ か。
「だでぃ、」
ミスタは泣いちまったんかこいつは、と思って、 黙ってしまったヴォックスをビー玉のような大きな目でジッと見ていた。 ヴォックスがゆるりと顔を上げ、視線が交わって、どうしようもなく「好きだなあ」と思った。
そのままミスタの腕を引いて、ふたりして畳に倒れ込む。 ヴォックスはミスタの煙草と香水の匂いがする肩に高い鼻先を埋めて、くぐもった声でケラケラ笑った。 ミスタはすぐったさに身を捩りながら、ヴォックスの髪をクシャクシャ掻き回してクスクス笑う。このまま死んでも良かった。
嗚呼、自分はこの恋を一生抱えて生きてゆくのだ。強く、美しく、悲しいくらいに愛情深いこのいきものが、一等愛おしかった。
白檀の香りはもう消えていた。