The Words for You ミスタは自分の目を疑った。
テーブルや椅子が倒されていない。脚も折れていない。灰皿も無けりゃマリファナも酒瓶も無い。ダッドがミスタの頭をよく打ち付けている煉瓦のカタマリも無い。どう贔屓目に見ても肉の詰まったズタ袋にしか見えないダッドは、戸惑うミスタの手を優しく引いた。昨日までいつものダッドだったのに、おかしい。気持ち悪い。
ミスタは元々血色の悪い顔をさらに青くさせて、ひとつしかない椅子に怖々浅く腰掛けた。椅子に座るのは初めてだった。ママが生きてた頃、ミスタがほんのくにゃくにゃの赤ちゃんだった頃はいつもママに抱かれていたし、ママがジャンキーに殺されてからはダッドはミスタを自分の子どもどころかそもそも人間だとすら思っていなかったので、椅子に座る・食器を使うなどの人間的な/文明的な行為は許されていなかった。(その所為で足に変なクセがついてしまってうまく閉じられない)だから足が地面につかないのが落ち着かなくて、真新しい青い痣のあるコメカミに汗をかきながら、不安そうに細っこい両足を絡めていた。テーブルの端のまるい煙草の焦げ跡が、ダッドの肉に埋もれた小さい黄金虫みたいな目のようだった。
ダッドはミスタの汚れた顔を綺麗とはいえない服の裾で拭い、ヤニで黒ずんでバラバラの歯の隙間から臭い息を漏らして粘っこく笑った。太い芋虫みたいな指が頰や額を這って、ミスタは口の中に溜まった唾を呑み込むタイミングが掴めずダッドのたるんだ顎の下に膿んだできものを見つめた。
「きれいだなあ、お前。母親に似て」
ダッドからママについて「イカれたビッチ」とか「ビョーキ持ちのメス」とか以外のセリフを聞いたのは初めてだった。ミスタはダッドがママをレイプして生まれた子どもだった。ダッドの口から「きれい」という音が出てきたのは初めてだった。「きれい」ってなんだ。なんてゆったらいいんだろ。
この12年間(ミスタは12歳だった。本人は知らないが)、ミスタが発してきた言葉は「ママ」「ごめんなさい」「許してください」「もうしません」だけだった。「おはよう」も「おやすみ」も無い。「ありがとう」「好きだよ」なんてもちろん言ったことも言われたこともない。ここで生きるのにそんな言葉は必要なかった。
スラムの中でも最下層のこの場所では路傍に立っているだけでありとあらゆる種類の犯罪が見られるし、そうしていると自分ももれなく死ぬ。たまに「自分で死ぬ勇気が無いから殺されにきた」なんてイカれた人間が外から来るが、身包み剥がされて生きたまま解体されて使えるパーツを売られて残りは野良犬のエサが関の山だ。他のスラムでそういうことをするのはスラムに土地勘のある外のヤツらだが、ここはそうじゃない。みんながみんな貧しくて、みんながみんな犯罪者だ。殴るやつと殴られるやつが順繰りに巡っているだけの場所だ。真っ当に死にたいなら近づくべきじゃない。
ほとんど板を立てかけただけの扉から、知らない男が馴染みの店に入るような気安さで入ってくる。ミスタの背丈より大きい黒い犬が首輪もつけずに男の周りをグルグル回っていた。ダッドはやに下がった顔で揉み手してミスタをその男の前に押し出した。男は不潔な子どもにちょっと鼻に皺を寄せて、ミスタの顔をジロジロ見回した。犬の湿った鼻が手のひらに押し付けられ、ミスタはドッ!と心臓に冷や汗をかいた。
スラムでいちばん怖いのは犬だ。食べ物を奪るから大抵デカいし、そのくせ飢えているから凶暴だし、虫もビョーキも全部持ってくる。長い生温かい舌がベロリと指の間を舐めて、気絶しそうになりながら杭を打たれたように突っ立っていた。
「少々痩せすぎですが…顔立ちは整っていますね」
「いくらになりましょうか…?」
男はミスタを上から下まで見て、顎をさすりながら言った。ダッドが身を乗り出して期待に満ちた顔で小さく訊く。
「そうですね…。2万ポンドといったところでしょうか」
ダッドは砂粒みたいな目をギラッと輝かせて、奇妙な笑顔を浮かべてミスタを振り返った。ミスタは何がなんだかわからないまま硬直してただダラダラ汗を流していた。
「よかったなあ、お前にも価値があるんだとよ…」
「…………」
「あんなキチガイのプッシーから生まれた畜生のお前でも役に立つ日がくるんだな、嬉しいぜ」
「かちがある」「やくにたつ」「うれしい」は多分、良い言葉なんだろう。
ミスタはこれまで“悪い言葉”しか知らなかったから、初めて聞くそれをそう判断して壊れた水飲み鳥のように夢中でコクコク頷いた。
カシャンと軽い音がして首と手足に細い鎖がつけられた。首の鎖の先を犬が咥え、車に乗せられてミスタは生まれて初めてスラムから出た。後ろを振り返ってもダッドはいなかった。
犬に鎖を引かれながらミスタは照明の切れかかった狭い通路を裸足で歩いた。左右に並んだ檻が壁代わりになっていて、大小様々な生き物が人間も動物も入り乱れて押し込められている。さらにその奥の小部屋に連れて行かれ、中にいた3人の女にポイと引き渡された。男は「少しでもマシな見た目にしろ」とだけ言って犬を引き連れて去って行った。
女たちはそれぞれ人差し指、薬指、親指が欠けた手でミスタの垢の積もった髪や身体を洗い、上等の服に着替えさせる。ミスタは今までずっと生まれてすぐにママが少女を13人殺した自称神父に頼んで行った洗礼式のガウンを着ていた。赤ん坊のときは足をすっぽり覆うほど長かったガウンは、膝がすっかり見えるほど小さくなって元々白かったことが信じられないくらい土や血や糞尿で汚れていたが、他に着るものが無かったのだからしょうがない。初めて感じるツルツルとした手触りが慣れなくて、小さく足踏みをしながら腕を強くさすった。
またポイと部屋から出されたミスタはやけにニコニコした老人に手足に先程より重厚な枷をつけられ、手を引く老人の後を黙って着いて行った。老人は細やかに「きみは幸運だ」「たくさん“飼って”らっしゃる方に買われれば友達もできる」とニコニコ話しかけたが、ミスタにはそれが良いことなのかわからなかった。それより左右の檻から聞こえる獣の唸り声が怖くて、擦り傷のビッシリある足の横筋の入った爪をジッと見下ろしていた。
しばらくすると床にポッカリとまるい穴が空いた場所に出た。天井から太い鎖に繋がった鳥籠のような巨大な・美しい鉄の檻がぶら下がっている。房飾りのついた毒々しい赤色の布がかけられていた。穴から下に降ろす仕組みになっているようだ。
老人はニコニコとミスタを中に入れ「何があっても目を逸らしてはいけないよ。クソガキ」と言ってレバーを下げた。ギイイ…と金属の擦れる不協和音が脳味噌を締め上げ、鳥籠はグラグラと不安定に揺れる。しかしミスタは、俯くことすらせずに目がカラカラに乾いてもジッと前を向いていた。舞台の床スレスレで鳥籠の下降は止まり、ミスタを連れてきた男が高らかに木槌を打つ音がする。
「これが本日最後の商品になります。世にも稀なる美少年!愛玩用にも“試し打ち”にもよし!一切の芸を仕込んでおりませんのでお客様のお好みに合わせて作り替えることができます。では100万ポンドから!」
布が取り払われ、カッ!と差した眩しいスポットライトの光に瞼が痙攣する。心臓が鼓膜のすぐ近くで鳴っているように大きく聞こえた。何十、何百もの目やオペラグラスがミスタを見ていた。闇オークションの客がバラバラと札を上げ、高い声で金額を吊り上げてゆく。ミスタはその度に体温が上がってゆくのを感じた。「かちがある」んだ。おれにも。
「D4列のマダム110万ポンド!2階R7列のご令息125万ポンド!おっとB1列の奥様200万ポンド!!…アーッ3階N5列の紳士が270万ポンドです!他にはいらっしゃいませんか?270です!……では、270万ポンドで…」
「600」
「…………。は?」
「600万ポンドだ。支配人」
正面の3階席のいちばん奥に座っていた男が優雅に立ち上がり、氷のような無表情でそう言った。落札しかけていた紳士が指をさして怒号を飛ばすのを丸切り無視して、もう一度支配人を呼ぶ。支配人は顔を白くさせて汗を拭きながら「600万ポンドでご落札です…」と細い声で宣言した。
男は乾いて痛む目で自分を見上げるミスタの前に屈み込み、真っ直ぐに目を合わせた。スポットライトで逆光になった青白い顔に金色がキラキラと光っている。
「やっと逢えたな」
「……?」
ミスタは戸惑って男の高い鼻梁を見つめた。この男とは初対面のはずだ。こんな身なりの良い金持ちなんてスラムで知り合うはずもない。
何故か悲しげに微笑んだ男はミスタを鳥籠から出して枷を外し、細い身体を片腕で軽々と/シッカリと抱き上げて颯爽と会場を後にした。ミスタは油の切れた機械のように硬直して、男のどこにも触れないように無い筋肉を使って不自然に背筋を伸ばしていたが、男に優しいバリトンで「危ないから掴まりなさい」と言われて、関節を固くしながら恐々男の太い首に手を回した。低めの体温が不思議なことに懐かしいような気がした。
角をひとつ、ふたつ曲がると、冬だというのに花の咲き乱れる美しい庭が突然現れた。薔薇のアーチから延びる白いうねった小径の先には蜂蜜色の煉瓦造りの邸があり、外壁を這う藤や蔓薔薇が暖かい風に揺れている。麗かな日差しが降り注ぎ、蝶がミスタの鼻先を掠めてヒラヒラ飛んでいった。
「今日からここがお前の家だよ」
スラムに太陽は昇らなかった。上を見ても洗濯物か首吊り死体があるばかりで、下を見ても勿論花なんて咲いていなかった。四方八方を剥き出しのコンクリートに囲われていた。だからミスタはその眩しさに・柔らかさに耐え切れずに、縫い付けられたように瞼を閉じて二の腕の内側で顔を隠した。今すぐ逃げ出したいと思った。走って逃げて、あのカタコンベみたいな場所に帰りたい。でもそうしたら…おれの“かち”はきっと無くなる。
男は虐待された動物のように息を潜めているミスタを降ろして、小枝のような指をゆるく握った。
「ここが…俺が嫌なら戻っても良い」
「ッ」
ミスタはハッと目を見開いてブンブン首を横に振った。それはだめだ。この男をひとりにするのは、なんだかとてもいけないことのように思えた。男はそうか。と笑って、手を繋ぎ直してミスタに合わせたチマチマした歩幅で小径を進み、邸の扉をくぐった。
アイボリーの壁紙の貼られた廊下のいちばん奥が居間で、火の燃える暖炉とクッションがいくつも並べられた白いソファが置かれている。ひとりがけのソファを勧められ、ミスタはまた恐々浅く腰掛けた。その様子に男はちょっと眉を上げて「椅子は好きではない?」と訊いた。
ミスタが答えに窮していると、パチンと指を鳴らす音とともに瞬きの間に暖炉もソファも消えて、青々とした畳の敷かれた和室が出現した。男もいつの間にかスーツから着流しに着替えており、開かれた襖の奥には白梅と紅梅が連綿と咲いている。どこからか鶯の鳴く声がした。
ミスタは呆けて口を開けたまま突っ立っていた。ヤクでも打たれて幻覚を見ているのかと思った。バッドトリップにしては風流すぎるけれど。
「驚かせてしまったな。マア座りなさい」
男はカラリと笑ってドッシリあぐらをかき、膝に肘をついた。ミスタはちょっと離れたところにぺったり座って、関節が馴染んだ位置に収まるのに少し安堵した。
「名乗るのを忘れていたな。俺はヴォックス。ヴォックス・アクマ。……名前は?」
ミスタは本当に困った。なんせ名前がない。ママが生きていた頃はあったのかもしれないが、ダッドはずっとミスタをお前とかガキとか呼んでいたから、名前と呼べそうなものはなかったし、それが当たり前だと思っていた。
ヴォックスはちょっと眉根を寄せて、「それなら」と怖がるように言った。
「ミスタ。ミスタは、どうだい」
ヴォックスが提案した名前にミスタは一も二もなく頷いた。それがいいような気がしたし、第一名前があろうがなかろうがどっちだって構いやしないのだ。
かくして、ミスタはミスタになった。
ヴォックスとの生活は至極穏やかだった。
ミスタは清潔な家と光溢れる庭で少しずつ言葉を覚え、文字を学び、邸の周りを走り回れるくらいの体力をつけた。ヴォックスが「世話が出来るなら動物を飼ってもいい」と言ったので、路頭でずぶ濡れで死にかけていた仔犬を拾って、自分の名前からとってミシーと名付けた。同じだと思ったからだ。
最初こそ朝起きて食事があること、シーツの白さ、瑞々しく輝く花々に怯えていたが、殺人やレイプや臓器売買は日常にありふれたものではなくて、人と目を合わせてもよくて、殴られることは義務ではなくて、腕は煙草を消すためにあるのではなくて、子守唄は歌ってもらうもので、犬は怖いものではなくて、朝は来ることを知った。本当に、幸福なのだ。
ミスタはやっとひとりの人間だということを自覚して、悩みも憂いもひとつだって無かった。…ヴォックスが、ミスタを通して“誰か”を見ていることを除いては。
その日は中々寝付けなくて、ヴォックスのベッドでいっしょに寝かしてもらおうと思った。半分寝ているミシーを抱えて隣のヴォックスの寝室に向かったら珍しく扉がキチンと閉まっていなくて、興味本意で細く開いた隙間から中を覗いた。
いやに明るい部屋の中でヴォックスがこちらに背を向けてベッドに腰掛けているのが見えて、声をかけようとしたのだ。けれど、
「“ミスタ”……」
彼らしくない小さな、弱々しい声で呟かれたのは確かに自分の名前だったけれど、絶対にミスタを呼んではいなかった。内臓がスッと冷たくなって、心なしか重さを増した影が絡みつく。全身を氷の手で撫でられているような気分だった。
「お前が死んで…何年になるかももうわからないが……。大丈夫だ。俺はまだお前を覚えているよ。あの子が、いてくれるから…」
壁に貼られている写真を見た。ミスタと同じ顔の、しかしずっと大人の男が、ヴォックスと肩を組んで笑っている。
ミスタは足が爪先から解けてゆくような気がして口を押さえて勢いよく身体を後ろに引き、壁に背中をつけてズルズル座り込んだ。その拍子に舌を出して寝こけていたミシーがパチッと目を覚まして腕から抜け出してしまった。眠たげな鳴き声と足音が静まり返った廊下に響く。ハッとしたときにはもう遅くて、動揺を隠し切れない表情のヴォックスが目の前に立っていた。ヴォックスはぎこちない微笑を浮かべて、殺される寸前の家畜の目をしたミスタの頭を優しく撫でた。
「どうした?怖い夢でも、」
「なっ、んでも、ない。だいじょぶ。ちょっと、水、のみたくて…」
「……。そうか、早く寝るんだよ」
「ウン」
「Good boy. …良い夢を」
ヴォックスはミスタの額にキスをして部屋に戻った。ミスタはそれを確認してから走った。何もわかっていないだろうミシーが無邪気に後ろを追ってきて、抱き上げて階段の下のパントリーの隅に膝を抱えて蹲った。暗くて狭くてヒンヤリしていて、生きていたものの気配がする。あの懐かしい蝿の墓場に少し似ている。ここでミシーだけが生きていた。まるい茶色の瞳を暗がりにキラキラさせて、一心不乱にミスタの手の甲を舐める。
ミスタは「ア」と息だけで呟いてボロボロ泣き出した。嗚咽と涙はミシーのふわふわの毛が吸いとってくれたから、ひとつの痕跡も残さずに静かに静かに泣いた。全部を閉じ込めた不健康でいびつな泣き方だった。
おれはやっぱり人間じゃなかったんだ。
おれはヴォックスが“ミスタ”を忘れないための媒介でしかなかった。……人型の畜生がちょっと優しくされたからって、言葉を覚えたからって、食器を使えるようになったからって、人間になれるわけなかった。ダッドが言った通りだ。
「ふ、ふ、あは」
安心した。
ヴォックスがくれたものが全部おれに向けたものじゃないなら、おれはそれを失うことはないんだ。
「よかったあ……」
ミスタは本当に、心の底から幸福そうに笑ってミシーを抱きしめた。ミシーはミスタの塩辛い頰を舐めて耳をピクピクさせた。ミスタは胸がいっぱいだった。おれは何も失うことはないし、おれには“ミスタ”の代わりという「かちがある」んだと思って。
ミシーを出してやって、自分はもう一度パントリーでまるくなる。心臓の裏側を刺す痛みがなんなのかはわからなかった。
「……タ!…ミスタ!」
「…?」
グラグラと容赦なく身体を揺さぶられる。寝ぼけた脳味噌が左右に振られて少し気持ち悪い。何度か瞬きをして目だけで声のした方を向けば、今にも死にそうなくらい青褪めた顔のヴォックスがミスタを見下ろしていた。声も手も震えていて、瞳孔が開いている。痙攣する琥珀色と目が合って、ミスタは寝起きの掠れた声でヴォックスを呼んだ。
「……どぉしたのさ」
「どうしたって、お前。嗚呼…良かった…」
ヴォックスは湿った声で呟いて、ミスタの冷えた身体をシッカリ抱きしめた。床に寝転がっていたから身体中が微妙に痛む。背中と後頭部にゴツゴツした手の感触を感じながらミスタは薄く目を閉じて声無く笑った。
「死んでるとおもったの」
誰が、とは言わなかった。正確にはどちらが、か。
純粋な疑問のはずだったそれは無意識に黒い棘を生やして、ヴォックスの心臓を突き刺したようだった。ヴォックスは叩かれたみたいに顔を上げて、潤んでいた瞳を急速に干上がらせた。頰を滑った水滴が汗だったのか涙だったのか、ミスタにはわからなかった。ただ、ヴォックスの心の奥底の触れられたくない部分を冒してしまったことはわかった。
「ア、…」
「ごめんなさい」
「え」
「許してください。もうしません」
ここに来る前にミスタに許されていた数少ない言葉たちだった。ここで生きるには必要無かったはずの言葉たちだった。…ミスタは泣いていなかった。泣いた分だけ振り下ろされる拳の、めり込む踵の重みが増すことを知っていたから。ただただ慣れた嵐が過ぎ去るのをジッと待っていた。
ミスタはやっぱり人間だった。
人間だったから、人間として扱われないことが当たり前に苦しくなってしまった。ああ、畜生でいたかった。こんな感情を知ってこの優しいひとを傷つけてしまうくらいなら、おれは畜生のままでいたかった。例えおれを見てくれなくとも、今あるものだけで満足できたらよかった。生きてきて初めて辛いなあと思った。
ヴォックスはそこで、己の過ちに気づいた。
この子はミスタであって、”ミスタ”ではないのだ。魂も、顔貌ですらいっしょでも、決して“ミスタ“と同一の人間ではない。嗚呼、この幼い、寂しい子になんてことをしてしまったのだろうか。ヴォックスの足であればそう広くはない邸の中でミスタを見つけるのに時間がかかったのは、暗くて狭い場所には行かないだろうという思い込みがあったからだ。いつまでも、ミスタを見ようとしていなかった。むしろこの子は、明るい場所を恐れていたのに。
「……すまない」
「ご、めん、なさい」
「俺はヴォックス。ヴォックス・アクマ」
「あ……」
「名前は?」
言葉を、このひとに伝えるべき言葉を、ミスタは必死で探した。最悪だ。畜生でいられなくなっちまう。だって辛くて、苦しくて、痛くて、それ以上に…なんていうんだっけ。そうだ。“愛おしい”。
「……。おれ、は、ミスタ。…はじめまして。ヴォックス」
「嗚呼。初めまして、ミスタ」
すべてを始めからやり直そう。好きな食べ物、嫌いな食べ物、面白かった本、楽しいこと、怖いこと。すべてを伝えよう。何度でもすれ違ってそのたびに出逢おう。もう少し大きくなったら喧嘩もしよう。汚い言葉のストックならたくさんある、嗚呼でもその前にいちばん大切な言葉を。
「愛してるよ、ミスタ」