【若草色】 レモン ベッドを背凭れにして床に並んで座り、机に置かれたお菓子やペットボトルに手を伸ばしながら、些か退屈になってきた昔の映画を観ていた。淡々とではなく、きゃっきゃっとした恋愛ものだが、何で選んでしまったのか、今では覚えがない。五本借りたら一本無料のキャンペーンにつられて借りただけだろう。五条が何の気なしにひょいっと掴んでいた筈だ。そんな中――。
「これ、本当か」
「これって」
「ファーストキスはレモンの味」
視線の先ははテレビのまま顎をしゃくって合図をした五条に、ぷはっと小さな笑い声で夏油が答えた。
「しないでしょ、レモンの味」
「しないんだ」
少し残念そうに声のトーンが落ち、肩越しに振り返った夏油が見たものは、僅かに眉を潜めてテンションが下がった親友の姿だった。
「えっ。したことないの」
「えっ、――傑は、あるんだ」
目に映る表情で察したらしい。むっとして口を尖らせた様子からして、したことがないと言っているようなものだ。その様子に半身を捻って身を屈め、五条の顔を覗き込むように近づけて、声を潜めた。
「悟はするかもしれないよ、レモンの味。してみる」
耳元に吹きこまれるように囁かれた普段より甘く響く声は、声の主に寄り掛かるようにだらけていた五条の背筋を、ぞわりと震えさせた。
「してみるって、相手、いないし」
緊張ゆえか、掠れて震える声を他人事のように聞きながら、こくん、と生唾を飲み込んで、覗き込んでくる漆黒の瞳が、艶やかに濡れて、五条は目が離せなくなった。
「私と」
「はあっっっ、えっ」
混乱し始めた五条をよそに、頬に手を滑らせ小首を傾げた夏油が、内緒話をするように声を潜めたのは、集中して自分の言葉を聞いて貰うためだ。
「私じゃ、イヤかい」
捨てられた子犬のようにさみしげな声の背後では、盛り上がりの場面に差し掛かっており、抱きしめられたヒロインが恥ずかし気に頬を染めながら頷いている。
「イヤ、じゃ、ない、けど」
「おいで、悟」
するりと頬を滑らせた指は、軽く耳朶を弄った後、肩を抱いて身を寄せるように誘う。とくん、と高鳴る心臓と夏油の眼差しに逆らえず、誘われるがまま向き合うように半身を捩ると、するりと腰も抱かれた。
「えっと、すぐる……」
「大丈夫。気になるんでしょ」
「でも」
「私は、悟としてみたいな、キス」
「なんで」
「なんでだと思う」
「んっ」
ふふっと意味あり気に微笑む夏油は機嫌が良さそうで、ひとり、どきどきと早鐘が胸を打つ五条には、細かいことまでは考えられず、じっと夏油の唇を見てしまう。
「悟、目を閉じて」
「え」
「開けたままでもいいけど、どうする」
普段の優等生ぶりからは想像がつかない艶やかな夏油の声に、目の前の親友がかっこよくて、それはそうだ、親友だと思っているのは、夏油だけで、親友以上の想いを抱いている相手に、そんなことを言われたら。傍若無人の五条でも断り切れないし、恥ずかし過ぎて、目なんて開けてはいられない。全身が心臓になったようだった。
きゅっと閉じたついでに、肩にしがみつくように腕を回した。
「ふふ、かぁわいい」
微かに聞こえた声は、気のせいだろうか、かわいいって、俺のこと、か。
うそ。
「悟、大丈夫だから、肩の力、抜いて」
五条の肩を抱いていた腕が、首筋から項に周り、頬をひと撫でして、包み込むように添えられた。
「さとる」
甘く優しい呼び声はマシュマロのようで、目の前に影が差すと、ふわり、と夏油の匂いが強くなり、幾度となく想像した、やわらかくしっとりとした感触を唇で感じ、束の間だけ、触れ合って離れていった。
「すぐ、る――」
上擦った声は自分の声とは思えなくて、焦れば焦るほど、頬に熱が溜まっていくのがわかる。
「さとる」
嬉しそうに名を呼ばれて、おそるおそるといった様子で、固く閉じていた瞼を開いた五条の瞳には、零れるような笑みを浮かべた夏油が映っていた。
「私も、レモンの味、したかも」
「えっっ、俺、どうしよう、ポテチ」
途端、泣き出しそうな声を出した五条とは対照的に、吹き出しそうになった夏油がごめんね、と謝った。
「私も、ポテチだったよ。今度はレモン食べた後にしよっか」
「こん、ど」
疑問形で途切れた言葉に、同じく質問で返す。
「イヤ、だった」
「いやじゃない」
「よかった」
その声だけが心の底からの安堵と緊張を解いたような声で、そう言えば、と五条も質問で返した。
「なんで、傑は、俺と、したかったの、キス」
最後の二文字だけは消えそうな小声で掠れたけれど、違わず夏油には伝わった。
「それは、悟が考えてみて」
後日、「そんなの、明白だろ。よかったじゃないか、五条」と硝子に笑われた、今の関係を進展させたかった五条と。
硝子に「どうしようじゃないだろ、何がはやまっただ、クズ」と叱られ、我慢しきれず手は出したのに言葉が出ない夏油がいたとかいないとか。