【蒼】 卵焼き『これ以上迷惑を掛けられない』
ひと言置手紙をして行方を晦ませた。今ごろ、自分勝手だと怒っているだろうか。迷惑なのはわかっていたが、私が隣にいることで悟が縛りを受ける事にも、悟に対する上の連中とやらの扱いにも、もう耐え切れそうにもない。何かしでかす前に、姿を消した方がいい。そう判断をしてひっそりと、様々な思いを孕らんだ呪術高専を後にした。
山深い場所に件の山小屋はあった。元々は狩猟を生業にしていた男の住居だったらしい。薪ストーブでもあるのか、蒼白い煙が使い込まれた煙突からするすると、鈍色の空に向かって伸びていく。蝦夷松の細く延びた枯れ枝や杉の葉、幹の根元や日陰には所々に、新雪が積もっている
「話は聞いている。今日から使えばいい」
訪ねれば面倒見が良さそうな男が顔を出し、暖めてくれた室内で小屋の使い方をひと通り教えてくれた。あるものはそのまま使ってくれと言われれば、その言葉に甘えて、貸して貰うことにした。取り敢えずの仮住まいだ。冥さんを通じて知り得た秘密基地はあっさりと入手できた。
すぐにバレるものだなとため息をつき、一番逢いたくて、逢いたくない彼を粉雪と共に迎え入れた。
「アイヌの地なら見つからないと思った、なんてこと、ないよな」
「そんなことないさ。ただ私はもう、呪術界とは関係なくひっそりと生きていくつもりだし」
情報を集めて分析、後は残穢を辿れば、あっさりと知れるものらしい。冥さんの案件ならあるいはと思っていたが、そう上手くは運ばないらしい。悟が来ることがわかっていたと言うよりは、興味がないように聞こえるように、淡々と告げた。
「そんなの、さみしくないのかよ」
「さみしいことは悪いことかい」
表情を変えず諭すように静かに問えば、咄嗟に言い返すことは出来なかったらしい。
さみしさを、教えてくれたのはオマエだろ、傑。
そう、言われた気がした。
「今、ひとりがさみしいと思うのは、君と過ごした時が幸せだったからだよ。私はそれだけで充分生きていける」
心配させぬよう潔く凛として微笑むと、それ以上立ち入らせないよう、視線を断ち切る。もどかしさと悔しさのようなものを悟から感じて顔を上げると、下唇を噛み締めて立ち尽くしていた。
「悟、だめだよ」
そうさせたのは自分なのに、思わず指を伸ばして、歯を立てられた下唇に触れていた。冷たい指先に悟の熱が伝わってくる。その熱に驚いて、指を引いた時には、視線を絡められていた。真っ直ぐに澄んだ瞳は揺るがない。
「それじゃあ、一週間でいいからここにいさせろよ」
「君、忙しいだろ」
「今は繁忙期じゃないし」
「悟は年中繫忙期だろ」
「緊急の連絡が入れば、ここからだって大丈夫だし」
食べ物だとか布団だとか、のらりくらりと避けるのを、いいでしょそのぐらいと言い逃れられ、悟の好きにしなと言ってしまった時には、後の祭りだ。
朝が弱い私のかわりに、鳥の囀りが姦しい時刻から起き出した悟が朝ごはんを作ってくれたらしい。まだ布団にいる私をごはんができたと起こしに来てくれた。こんな調子じゃだめだろうと、ぼんやりしながらゆるゆると着替え始めれば、相変わらずだなと小さく笑われた。
テーブルに並んだ、砂糖味の卵焼きは甘くて優しくい味がした。野菜スープは湯気が立ち、トーストはぱりっと焼かれ、カフェオレは私が好きな少し苦いぐらいの濃い目だ。朝日に照らされた顔は穏やかで、正面に座ってゆっくりと眺めながら、用意してくれたごはんに箸を伸ばす。どれもこれも懐かしい味に、そんなに時は経っていないのに安堵してしまう。
昼ごはんは買い出しの具合で、町で食べたり、残り物を鍋にしたりしていた。よく分からない鍋料理が出来上がるけれど、べつに腹が満たされれば、どうでもいい。その筈だった。
「うまい」
数口、食べ進めたところで、なんの衒いもなく手放して褒められた。 確かに、数回作って食べた時には何とも思わなかったのに、悟と突く鍋はおいしい。
「ただの残り物だよ。おいしいのはきっと」
悟と食べてるからだよ。
そう、何とも思わなかったごはんがおいしいのは、悟と食べるからだ。
「きっと、何だよ」
「……。残り物でも出汁が色々でるからかもね」
辛うじてそう言いながらも、しどろもどろ感が拭えない。一瞬、怪訝そうにした悟はふ~んと、納得したのか、していないのか、半端な返事をしていた。
夕ご飯はふたりで並ぶには狭い台所で、並んで包丁を使う。始めの一日二日は邪険にもしていたけれど、本心でもないのだ、そう長くは続かなかった。穏やかになったのは、諦めも入っているのかもしれない。いくら言ったところで悟は帰らないだろう。
薪ストーブを焚いて、その前のソファで本を読み始めれば、すぐ横でおとなしく悟は、最寄りの道の駅まで補助監督に届けさせたらしい資料を読み解いていく。僅かに触れる腕から、ストーブとは違うあたたかさが、体全体に広がっていく。
何とかなると言ったところで、何ともならなかった寝具は、元々あったセミダブルのベッドにあるだけの布団を出して、私は背中を向けて横になった。その背中に優しいぬくもりが添えられた。伸ばされた掌が身構えた体を、控えめにただゆっくりと猫でも撫でるような手つきでそっと撫でている。それ以上は話し掛けられる事もなく、何時しか警戒は解いていた。
七日目の朝だった。
「傑」
悟が作ってくれたごはんを食べ終わると、視線を合わせたまま、名を呼ばれた。視線を反らさずに、その蒼く澄んだ強い眼差しを受けとめた。
「何でオマエが行方を晦ましたのかはわかったつもりでいるけれど、話してくれなきゃ本当のところはわからない。俺は傑が隣にはないのは嫌だよ。俺のことを心配してくれるなら、俺のために怒ってくれるなら、隣で助けてよ、傑」
ああ。
こんなの、もう。
ムリだとこの七日間でわかっていたけれど。
「傑、さみしいことは悪いことじゃないかもしれないけど、ひとりよりふたりの方がいいよ。教えてくれたのはオマエだろ」
凍り付き始めた心をじんわりと溶かすような、あたたかな声は包み込むようで、降参するしかない。
「もう、この小屋にひとりでいるのは、難しいかな。どこにいても悟のぬくもりも、声も、作ってくれたごはんも、笑顔も思い出す。そうだね、悟。ひとりより、悟とふたりでいる方がいいね。話すよ。ぜんぶ。だから」
もう一度、君の隣にいさせてくれないか。