波の花 こんな夢を見た。
その夢の中での季節はぎらつく夏で、夏油傑はなぜか袈裟を着た殉教者だった。足元は泡立つ浅い海辺であり、砂浜の転がる白い波の花が十字架にかされる彼の美しい身体を汚していた。そして彼はついにエリエリレマサバクタニとつぶやく。神よ、どうして私をお見捨てになったのですか、と。俺はそこでこれは夢だと気づいた。それほどに真に迫ったものだったから、勘違いしそうだったのだ。考えてみればキリスト教徒は袈裟なんて着ない。これは多分、きっと昨日二人で見た映画を夢に投影したのだろう。キリストが苦しむばかりの映画を見て、俺は恋人を脳内で苦しめようとしたのだろう。昨日ちょっと喧嘩をしたし。俺はそう思い、いやそう思ったところで、目が覚めたのだった。
「もう目が覚めたの?」
私の寝相、悪かったかな。傑が言う。視線が合う。俺はベッドの上でどうやら苦しんでいたらしく、頭をぐしゃぐしゃにして、ぺたりと貧相な壁際に貼りついていたのだった。
「なんか言った? 俺」
「傑、傑って苦しそうに言ってたよ」
「忘れてよ」
俺はそう言って、けれど傑の手を握った。彼は握り返してくれた。それは温かく、俺は彼が生きているということに、深く感謝したのだった。
そんな今日の仕事は田舎の山に幽霊が出て迷惑をしているから、それをどうにかしろ、というざっくりしたものだった。補助監督から話を聞いたところによると、都会からやって来た暇な大学生が、次々に青白い顔をした男を見るのだという。「別にかまやせんのですがねぇ。あんなん迷惑ですからどんだけ石碑を怖がろうとしてもねぇ」そう俺たちを村のまとめ役の老人は(今回の任務は俺と傑に委ねられていた)幽霊が出ると噂がたった石碑に案内した。もう夜だ、ほとんど字は読めない。すると案内してくれた老人がご丁寧にも懐中電灯をあてて刻まれた字を読んでくれた。彼の滔々とした語り口は見事なものだったが、ここでは割愛しよう。でも、まとめると次のようになった。
昔ここには隠れキリシタンがいた。長崎から逃れて来た、信心に真な者たちであった。しかし彼らを幕府に告げ口するものが出てた。たった数枚の報奨金欲しさに、隣人を売ったのだ。もう逃げるところもないと嘆く隠れキリシタンは、しかし村の若い和尚に匿われた。彼しか知らない山の中に、新たな集落を築いたのだ。
和尚は十字架にかけられても隠れキリシタンの名前を言わなかったし、逃げた場所も言わなかった。それに当時この村は結構な人数がいたらしく、一人一人絵踏をするにも時間がかかると判断した幕府の役人は、和尚だけを十字架にかけ、和尚は仏教界からも追放されて見知らぬ国の宗教と、それを信じる人々のために殉教者となったのだった。これが石碑に讃えらえた和尚の人生だ。
「へぇ、それで出るのは和尚の幽霊?」
「さぁ、私にはそこまでは……」
それでは、これで失礼します。老人はそう言って、俺たちに一つずつ懐中電灯を渡して去っていった。あぁ、困ったな。残穢がありすぎる。ここは観光スポット(もちろん肝試し的な意味で、だ)になってるらしく、興味本位で訪れた人の恐怖の念があふれていた。俺はそれが鬱陶しく、そして面倒くさくて、石碑に寄りかかってここに来るまでに買ったいちごオレのペットボトルを飲んで何か出て来るまで待つことにした。けれど傑は違って、持って来たサブバッグを何かごそごそいわせている。
「どうして異教徒まで助けたんだろうな」
「それが彼の信念だったんだろうさ」
傑はそう言って、熱心に石碑の文字を読んでいる。俺はあちこちを飛ぶ小さな呪霊をいちいち潰して、そして早く朝が来ないか、と携帯電話を見た。でも、それは残念ながら圏外だった。何か映るかなと思って写真を撮っても、映るのは暗い木々、それから石碑の前に立つ傑。でもいちごオレは美味かった。果肉が入っていて、結構な値段がしたと、用意してくれた補助監督が愚痴っていただけはある。
あたりは暗い。懐中電灯があっても。そんな中で見た傑の横顔が今日見た夢のもののように思えて、俺はとっさに、彼にこう語りかけていた。
「……今日さ、朝俺おかしかったじゃん。それはさ、実はお前が袈裟を着て十字架にかけられる夢を見たからで……」
「ふぅん……結構な偶然だね」
「まぁ、それは海だったんだけどさ」
俺がそう傑に言うと、彼は興味深そうに石碑を読み尽くした。そして何かぶつぶつ言っている。はっきりしないが、それはお経のように思えた。と思った瞬間、それはキリストの聖歌になる。
「傑?」
「もうこれで大丈夫だよ。あとは持ってきた酒を置いておけば……」
傑の霊能者っぽい振る舞いを見て、俺はなんだかぞわぞわした。いや、別に彼の祓いに文句を言っているわけではない。ただ、彼が仕事をしたようには思えなかったのだ。きっと酒を置くのは世話役に対するポーズなのだろうけれども。
「和尚はもう成仏……いや、もう魂はないよ。青い顔をした男は肝試しにやってきた大学生。しばらく石碑をフェンスで囲むかしたら風化するんじゃないかな。ネットで検索をかけたけど、そこまで話題になっている風でもなかったし」
傑はそう言った。そんなに簡単に済むものなのだろうかと思ったものの、彼が嘘を言うとも思えなかった。でも、あの夢も嘘とは思えなかった。袈裟を着た傑、それはとても印象的で、退廃的だった。彼は袈裟を着ているというのに、仏の道を外れたように思えた。どうしてかは分からない。ただ、あれはいつかやってくる未来のように思えた。海辺で死ぬのは何かのメタファーだろう。彼はきっと何かに包まれて死んでゆくのだ。呪術師の死のパターンは多い。みんなさまざまな呪霊に殺されてゆく。俺はそれが初めて恐ろしくなり、彼を引き止めたい、そう思ったのだった。
「悟、さぁ行こう。世話役の人が美味しい川魚と山菜の料理を用意して待ってくれてるってさ、補助監督からの連絡」
「あ、電波が繋がった。幽霊が成仏したからか?」
携帯を開くと、電波は三本立っていた。さっきまで圏外だったのに不思議だ。
そんなふうに首を傾げている俺に、傑は冷たくなった手をとって、暗闇の中を懐中電灯を照らして歩き始めた。誰も俺たちを見ない。俺はそれに嬉しくなる。キスがしたい、抱きしめたい。けれどなぜか、今日は傑が遠い。それは夢のせいなのだろうか? あんなくだらない夢のせいなのだろうか?
「キスの一つでもしておく?」
傑が俺をからかう。けれど俺はそれに乗らないで、でも、強引に腕を引っ張り返して唇を奪ってやった。これで俺の勝ちだ。
俺たちは和尚を讃える石碑から遠ざかってゆく。誰かのために死んだ男を讃える石碑の前から、いつか道を分つかもしれない男と共に、俺は漆黒の闇の中を温かな手のひらだけを頼りに、愛する男の手だけを頼りに歩き続ける。