予想では、怒りとともに迎えられるだろうと思っていた。
「……! おかえり……。父さん」
「ああ。ただいま」
すぐ近所に買い物に行っていたという風情でダイニングのドアを開けると、数秒ののちにルークが鋭く息を飲む音が聞こえた。
帰ったばかりらしいルークはコートも脱がず、ダイニングテーブルに置いたタブレットを操作しようとしていた。自室でなくここにいるのは、紙の資料を広げるためには一番便利なテーブルだからだろう。実際、何枚もの写真がテーブルいっぱいに散らばり、何らかのカテゴリに分けられて重ねられている。
見開かれていた翠の瞳がゆっくりと平静を取り戻すとともに、エドワードを映すその色はどこか悲しげに変わった。所在無げに宙をさまよっていたルークの手がタブレットのスイッチを切り、それから、大きく息を吸う。努めて冷静に、一番に何をすべきなのか考えているようだった。
やがて大きなため息とともに肩を落とし、ルークが口を開いた。
「ともかく、無事で良かった」
「何か心配を?」
「……聞いてもいいかな」
「ああ」
「この三日間、どこへ?」
ルークが何かをテーブルにことりと置いた。
ルークが身につけているものより細身の腕輪だった。ブラックセラミックのバングルにも似ていて、一見するとただのシンプルなアクセサリーのようなデザインだったが、ミカグラ島の刑務所から釈放されるにあたって渡された高機能電子監視用ブレスレットだった。
人道的配慮もあって身体にチップを埋め込まれるようなことはなかったが、肌身離さずにいる努力義務が申し訳程度に課せられている。仮にチップの埋め込みだとしてもGPSくらいごまかせる自信があったが、渡す側もそれを見越してなのか、「とりあえず持っていろ」と言わんばかりに、取り外しが楽なものだった。
しかし今回はブレスレットだけでなく、通信に関わる機器の一切を置き去りに、言付けのひとつもなく姿を消したものだから、ルークが慌てるのも無理はない話だった。
驚かせた詫びに、本当のことを答えてやることにする。
「静養だよ」
「静養……?」
「大したことじゃないさ。うっかり風邪を引いて、微熱を出しただけだ」
「か、風邪?」
ルークがぽかんとした。
無理もなかった。親子として一緒に暮らしていた頃の『エドワード・ウィリアムズ』が風邪を引いたことなど、一度もなかった。「ヒーローはいつでも誰かの力になれるよう、丈夫でいなければならないんだ。まあ、それでも風邪くらい引く時は引くけどな」などと言ったような記憶がある。実際には六年のうちに何度か体調を崩していたはずだったが、ルークには今なお気づかれていないようだった。
「それならどうして、そんな」
「お前の手を煩わせるわけにはいかないから、かな」
「……四日前。僕が仕事に行く時、何だか違和感があるとは思ったんだ。その時は、理由がわからなかったけれど……」
険しさを帯びたルークの顔は、むしろ彼のほうが苦しそうだった。ぐっと唇を噛んで俯くのは、自責の時の癖だ。
「でも、調子が悪かったなら、家でゆっくり休んでいて欲しかったよ。連絡もつかなくなって、一体何があったのかと思った」
「不在にして心配をかけたな。悪かったよ」
「もちろん心配もした。けど、調子の悪い時にわざわざ外に出て、ひとりで症状が引くまで過ごしていたんだとしたら、その方がつらかったんじゃないのか」
「ひとりとは限らないだろう? それに、こういう事態をやり過ごすのは慣れているから問題ないよ。俺としては、合理的な判断だったと思うがな」
「……だとしても。不調を抱えている時に、『事情を知る協力者』が身近にいるのに手を借りないのは、合理的とは言えないんじゃないのか」
淡々と、あくまで冷静にルークは言った。『自分に頼りたくなかったのではないか』という発想も浮かんでいるだろうに、卑屈にならないよう懸命に堪えているのが判る。
「仮に僕が留守がちだって言ったって、父さんはこの家に慣れているだろう。病院……にはいなかったようだけど、ホテルに潜伏したりするよりは便利に、安全に過ごせる環境のはずだ。今まさに住んでいる家なんだから」
見据え合う長い沈黙の後、ルークが一言続けた。
「……と、思うんだけど、どうかな……」
「最後までその威勢が続けば、まあまあだったな」
エドワードは息をついた。
「一番身近にいる相手に助けを求めないのは合理的じゃない、か。その点は確かにそうだろうな」
「じゃあ」
「判ったよ。次から、お前の言う通りにしよう」
まだ緊張の解けないルークを諭すような口調で、エドワードは頷いた。
「次……今はもう、大丈夫なのか?」
「おかげさまでね。よく休めたよ」
「そうなのか……」
ルークの強張った表情が少し和らいだ。
「それなら、いいんだ。それで……その。言ったそばから、なんだけど」
「署に帰るんだろう? 三日も俺のために欠勤したり、仕事を抜け出すわけにはいかないからな」
ルークは渋い顔をした。三日間の自分の動向まで見抜かれていたと知り、項垂れ、息をつく。
「ちょっとだけ買い物をして来て、それから署に戻るよ。何か欲しい物はある?」
「特にないな。お言葉に甘えて、病み上がりはゆっくり休んでいるさ」
「……」
「時間があまりないんじゃないのか。疑うようなら、お前のいる内にまた出ていくぞ」
「何その脅し方」
ルークが悲痛な声を上げた。
しかし時間があまりないのは本当だったようで、名残惜しそうに急いで出ていくルークを見送ってから自室に戻った。この約束は違えてよい言葉ではなく、守るべきところだった。楽な服装に着替え、大人しくベッドに入る。
途端。
横たわった胸を、激痛が襲った。
「……っ」
反射的に声を殺す。服の胸元を握り締めるように手で抑え、背を丸めて耐える。
針金で心臓を締め上げるような感覚は、この三日間のうちでは、ましな方の痛みだった。
ハスマリーで受けた拷問。十年以上続いた緊張状態。もはや何が原因か知るべくもないが、それは外傷だけでなく、内臓をもじわじわと蝕んでいたらしい。
痛みを外に見せない程度は造作もないが、ミカグラ刑務所の医療チェックで気付かれた。その時に一定の治療は受けたものの、それらの障害はなお、残された寿命を少しずつ削っているのだろう。
息が出来ないほどの胸痛に、気が遠くなりそうだった。どのくらい耐えたのか判らないが、激痛の波はやがて去った。エドワードはひどく時間をかけて、長く息を吐き出した。同時に、玄関に駆け込む急ぎ足の靴音が聞こえ、エドワードは深く布団をかぶり直した。
ドアに背を向け、眠ったふりをする。そっと開いた扉が、少しの間の後にそのまま閉じた。ターゲットの息を確かめないのはまだまだだなと思いながら、目を閉じる。
ふと、思い出した。
「何か欲しいものはあるか」──ルークが熱を出した時に、よく聞いてやった言葉だ。答えはいつも同じだった。逡巡する沈黙に、何でもいいぞともう一度促してやって、初めて答えるのだ。
「父さんが忙しいのはわかってる。けど、……そばにいて」
遠慮がちな答えに、少しの間を演出し、エドワードはなんということもなく笑う。
わかったよ、だから安心して眠るんだ。そう答えてから、布団の中から伸びてきた小さな手を握ってやる。たったひとことの願いを告げるだけで力尽きたように、目蓋が翠の瞳をすっと覆った。数分もしない内に、それだけが拠り所とばかりに父の手を固く握っていたはずの手のひらから、エドワードの指はあっさりとすり抜ける。
考える。そばにいてくれと言っても、ルークはすぐに寝てしまった。だとすればそれはおそらく、目覚めたときにひとりでいたくないという意味なのだろう──
「……しまったな」
思考が、かつての記憶と混濁していた。
いつの間にか、本当に眠っていたらしい。あるいは、気を失っていたのか。前髪をかきあげれば、額が重く乾いている。微熱はまだ引いていないようだった。エドワードはため息とともに、ベッドから降りた。
扉の向こうに、人の気配がしなかった。ルークは署に戻ったのだろう。どんな言い訳をして職場を抜け出して駆け回っていたのかはあとで調べてみようと思いながら、エドワードはキッチンに向かった。
慌てて片付けたらしい捜査資料が、まだダイニングテーブルに置かれていた。写真を手に取ると、思い当たる行き先を片端から調べ、絞り込もうとした形跡が見えた。潜伏先を突き止めるには惜しいところまで到達していて、エドワードは感心した。どうやら、この数年で優秀な情報屋を味方につけたらしい。
資料は寸分違わずもとの位置に戻す。整頓されたテーブルの上、写真の山から離れた場所には、一枚のメモが置かれていた。時間ぎりぎりまで粘って書いた様が見て取れるようだった。
『冷蔵庫に食事が入ってる。レトルトだけど。スポーツドリンクも。ストッカーにも』
必要な情報を端的に伝えようとした奮闘の後が見えるメモの最後には、走り書きが一文付け加えられていた。
『できるだけ早く帰るから』
焦って書いたのか、一番乱れた筆跡だった。エドワードはそれを一瞥し、無言で紙片を畳んだ。
「実現の難しいことを、メモで約束するようになったな。お前も」
エドワードは冷蔵庫で冷えていたボトルの水を一口含み、冷蔵庫に戻した。
痛みは落ち着いていた。家事でもすべきだろうかと思案しながら、エドワードはキッチンの窓を見た。
「──……!」
エドワードの眉が歪む。
また、胸が強く軋んだ。鋼線が心臓にきりきりと食い込むような痛みに、再び呼吸が遮られる。険しい顔で固く目を閉じ、ダイニングテーブルの端を握り締めて体を支える。片膝を折り曲げた途端、部屋着のポケットの中から紙の触れ合う音がした。
気を取られたせいか、痛みが薄らいだ。そのまま、ゆっくり深呼吸を繰り返し、正常な呼吸のリズムを取り戻す。やがて何事もなかったように痛みが引き、エドワードは目を開けた。
キッチンの窓辺には、午後の光が淡く金色に射していた。近所の子供たちの足音がぱたぱたと軽やかに駆けていく。遠ざかる車の音をガラス越しに聞いた後、鳥の影が窓の光をほんの一瞬遮った。
思ったままを口にした声は、吐息のように細かった。
「ああ」
この家は、静かだな。
呟いた声をかき消して、細い咳の音が続く。それが治まったころ、小さな紙片が開かれる音がささやかに鳴った。