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    yutaxxmic

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    yutaxxmic

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    ひか星3の展示品です。
    特性「ときめき」を元にしたお話。
    前の賢者様もちらりと出てきます。

    ##ふぁ

    ときめき ふ、と意識が浮上する。少し首を反らして視線を机の上へと向ける。しっかりと閉めているはずのカーテンの端から僅かに光が漏れている。既に日は昇っているらしい。耳をすませば、誰かの声が聞こえてくるような気配がする。よもや自分が他人の存在を近くに感じる生活を再びすることになるとは思ってもみなかった。魔法舎で生活することが決まった直後はそうした生活に慣れず、厄介な厄災の傷に対する不安も相まって寝付くことが中々できない日々が続いていた。それが今ではすっかり熟睡することができるようになっている。それもこれもあの子──今の賢者が僕のことを気にかけてくれたお陰とも言えるだろう。いや、あの子は僕だけが特別という訳ではないことは分かっている。あの子は──真木晶という男は、賢者の魔法使い全てに等しく優しさを振り撒くのだ。そんな姿を見ると、少しだけちくりと胸の辺りが痛むようだった。賢者の魔法使いとして、この感情に名前をつけるべきではないことは明白だ。頭ではそう理解し、納得しているはずなのだけれど、前の賢者が僕に言ったことを思い出す。もう名前も、声も、顔も思い出すことができない前の賢者。賢者自身のことは忘れてしまったのに、授けてくれた知恵や言葉は覚えている。あの時はさもお見通しだとでも言うかのような物言いが不快でしかなかったが、今では彼のことが預言者のように思えてならない。──あいつの言葉に甘えてもいいのだろうか。そう考えながら食堂へ向かう身支度を整える。確か今日はあの子もこの魔法舎にいたはずだ。今までは足を運ぶことが憂鬱でしかなかった食堂への道中も、ネロの作った美味い料理と晶を一目でも見られるかもしれない期待で胸を満たせば、思わず足取りも軽くなってしまうようだった。


    ☆☆☆☆☆☆☆


    「ファウスト、おはようございます」
    食堂へ入ったファウストに一番に気がついて声を掛けてくれたのはいつも通り、ファウストのお目当てである賢者であった。足取りも軽くファウストの近くまで来ると嬉しそうに微笑みながら、よく眠れましたかと尋ねてくる。ファウストはそれに小さく頷きで返すと少し期待を込めながらいつもの台詞を口にした。
    「君はもう朝食は食べたのか?」
    一昨日も昨日も賢者はその問いに「いえ、俺もこれからなんです。良ければ一緒に食べませんか」と遠慮気味に誘いの言葉と共に答えてくれたのだ。そして、共に朝食を食べながら今日の予定や昨日あった面白いこと、そして中庭にやってきた猫や猫グッズの情報のやりとりをする、そんな穏やかな時間がファウストにとって、ここ最近の癒しであった。
     だが、残念なことに今日は違っていた。
    「あ、俺はもう……」
    心なしか申し訳なさそうにそう口にした賢者にファウストは短く了承の意を伝える。いつもとは違う段取りに二人は次に取るべき行動やかけるべき言葉が見つからず、気不味い空気だけが流れてしまう。
     先に我に返ったのは賢者であった。「これから俺は」と今日の予定を伝えようとした瞬間、賢者の背後から元気な子どもの声が二人分聞こえてきた。
    「賢者様、朝食は済みましたか?」
    「身支度も整っているようでしたらこのまま市場へ向かいましょう」
    すっかり身支度を整え、はやる気持ちが強いのか、二人は何既に箒を手にしていた。言い淀む賢者にようやくミチルとリケはファウストがいることに気がついたようで、小鳥の囀りのような軽やかな声で朝の挨拶を口にした。ファウストもそれに応じると、二人はそわそわと、今にもその場で足踏みを始めようかという落ち着きのなさがありつつも、これから行く場所への期待が膨らみすぎて発散させたいらしく、早口でファウストにこの後の予定を話して聞かせてくれることにしたようだ。
    「カインさんとの待ち合わせの前に、三人で栄光の街を歩けたらいいねってリケと話していたんです」
    「ええ、僕は街のことをよく知らないので『冒険』というものをしてみたいのです」
    楽しそうにはしゃぐこどもたちを穏やかな眼差しで見つめる賢者の表情にファウストは思わず見惚れてしまう。愛らしい、この表情が好きだ、いつまでもこんな風に穏やかに笑っていてほしい、守りたい、そしていつかはこの笑顔を自分にも向けてくれたらいいのに──その瞬間だった。ばちりと音が聞こえるくらいに賢者と視線がぶつかった。まさか視線が合うとは思わなかったファウストは唇を小さく振るわせるだけで何も言葉を紡ぐことはできなかった。ゆっくりと賢者が瞬きをする。それから口角を上げ、笑みを浮かべると小さく小首を傾げた。どうしたんですか、と訊ねる賢者の声が聞こえてくるようだった。
     とっとっと激しく打つ心音を落ち着かせようとファウストは深く息を吐き出す。それから自分を取り戻すように瞼を閉じてから小さく頭を振る。
    「カインと合流するのなら大丈夫だとは思うが、あまり危険そうなところへは行かないこと。なるべく早く帰ってくるんだよ」
    「はい、そうします。ファウストにも、なにかいい物があったらお土産を買ってきますね」
    ファウストは自分でもどうしようもないお小言を口にしている自覚があった。だからこそ、賢者は鬱陶しいような様子を見せるかと思ったし、当然だとさえ思っていた。なのに、彼はそんな素振りは微塵も見せずにすっきりするような返事をするものだからファウストはたまらない。こんなに素直な子どもは貴重種だろう、と思いながら首を振る。
    「僕はいいから、君の好きなものを買いなさい」
    ファウストは小さく呪文を唱え、あまり普段は使わない財布から小額を賢者に握らせる。賢者は驚いたようにファウストを見ると、小さな声で「受け取れません」と突き返そうとした。
    「子守のお駄賃だと思って」
    ファウストが視線をミチルとリケにこっそり向けると、誘われるように賢者もそちらへ目を移す。二人はもう賢者たちの様子には興味がないのか、これから向かう街の話題で盛り上がっていた。
    「何かと入り用かもしれないし」
    ファウストが悪戯っぽく笑みを浮かべると賢者も諦めたのか小さく頷きを返してから「なんだか、子ども扱いをされている気分です」とため息とともに呟いた。
    「僕にしてみれば君たちは可愛い子どもだよ」
    ファウストは言いながら賢者の身体を反転させ、二人の方へ軽く背を押してやる。
    「ほら、行っておいで。楽しいひと時を」
     ダメ押しに賢者の一日が楽しいものとなるように願いを込めて手を振ってやろうかとも思ったが、自分らしくないと思い直したファウストは、僅かに挙げかけた腕をぱたりと元の位置に垂れ下がらせた。
     それと同じ瞬間、ファウストの耳へ甘美な声が吹き込まれた。
    「『僕もあんな風に賢者を街へ誘うことができたらいいのに』……そんなところでしょうか」
    「……ッ、シャイロック!」
    シャイロックは最後にふ、とファウストの耳に息を吹きかけてから一歩後ずさる。ファウストは眉を顰めながらシャイロックへと非難の視線を向けた。
    「いいじゃありませんか、気軽に賢者さまをお誘いなさい。あなたなら許されることでしょう」
    「まさか。あの子はみんなの賢者なんだ。僕ひとりの我儘を聞いてもらう訳にはいかない」
    「え?」
    驚きを愛する西の魔法使い、さらには平生よりムルの自由奔放で突飛な行動に慣れているはずのシャイロックが信じられないものを見るような目でファウストを見、ぽかんと口を開くのだった。そんなシャイロックの様子にたじろいだのはファウストだった。
    「な、なんだ」
    「ファウスト、あなた今『みんなの賢者』と仰いました?」
    「なにか問題でもあるのか」
    ファウストの当然だろう、という態度にシャイロックは無粋です、とでも言うかのようにあからさまに不満そうな表情を浮かべる。
    「ええ、大有りですよ。あのお方は賢者であると同時に『あなたの晶』でしょう?」
    聞き捨てならない、と半ば呆れるのはファウスト本人だった。意味が分からない、とでも言うかのように頭を横に振りながら反論を試みる。
    「なにを言っているんだ。そんな関係じゃないよ」
    「ここで皆んなで生活をしながら次の厄災へ備えよう、と決まったばかりの頃は、とても共同生活には向かないと思っていたあなたがここ最近順応してきて、柔らかい笑顔を浮かべるようになっていましたから、てっきり賢者様と恋仲になられたとばかり思っておりました」
    どうして敢えて賢者と恋仲なんだ、とファウストが口を開く前にシャイロックは「賢者様を見る目はさしずめ聖なる魔法使いといったものですので」と断言し、ファウストを狼狽えさせた。
    「大体、あなたは以前のように自室にでも引きこもっていれば心配した賢者さまが朝食を持って訪ねて行って、二人きりの朝食なんてこともできますのに。どうせ真面目なあなたのことですから『賢者の手間になりたくない』なんて理由でわざわざ早起きをしてここへ来て朝食を摂っているのでしょう?もっと我儘を仰ればいいのに。賢者様なら喜んで応えてくれると思いますよ」
    シャイロックの滔々とした口振りは、ファウストが途中で反論する余地を全く与える気はないようだった。殊に恋愛関係の話ともなればシャイロックに分があるのは明白であり、それはファウスト自身も重々承知していることだった。喉の奥で悔しそうに小さく唸ってから、ファウストはシャイロックに享受を願うことにした。
    「根拠はあるのか?」
    「根拠?そんな無粋なものはありませんよ。強いていうなら、あなたよりも豊富な経験というものでしょうか」
    「僕よりも……って、大抵の奴はそうなると思うが」
    すっかり狼狽しきった様子のファウストをシャイロックは目を細めて眺めている。パイプの煙を深く吸い込み、吐き出しながら口元に笑みを浮かべた。仕方ないですね、という呟きはファウストの耳には届かないほど思い悩ませてしまったようだった。
    「あなたは死の間際にも欲望がありませんでした。西の国の者にとってそれは少々寂しかったのですよ。ファウスト、あなたはもう少し我儘に生きたらどうですか」
    「僕は十分好きに生きているよ」
    「ふふ、そうかもしれませんね。面倒ごとを押し付けられて、文句を言いながらもちゃんと片付けなければいられない性分のあなたがいてくれるからこそ、この魔法舎も成り立っているのかもしれません。ですから、あなたには報いがあって欲しい。みんなが焦がれる賢者様を多少独占したって許される程度には」
    まだ踏ん切りがつかないのか、ファウストは顎に手を掛けて「でも」とか「しかし」と呟いている。
    「賢者様も、待っているかと思いますよ」
    シャイロックの一言で、うろうろと彷徨っていたファウストの視線がようやくシャイロックへと定まった。
    「もし賢者にその気がなければ君のことを呪うからな」
    「ええ、構いませんよ。けれど、未来のあなたはきっと、毎週のように上等な酒を持って私の元へ訪ねるようになると思いますけど」


    ☆☆☆☆☆


    『今日は珍しくファウストが魔法舎に来ていた。少しではあるけれど、話をすることができて良かった。残念ながら彼とは友達になることはできないかもしれないが、俺はあいつが幸せになることを願っている』

    「それは俺も同じです、賢者様」
    前の賢者様が書いた願いに晶は指先で静かに触れる。
     幸せになってほしい。それはこの魔法舎で生活を共にする魔法使い全員に対して晶が願っていることだった。しかし、中でもファウストに関してはその想いが強いようだと自覚したのはいつだっただろうか。
     初めてファウストを目にした時は、彼の身体から煙が上がり、ぱちぱちと何かが爆ぜていた。それは今にも生命の糸が切れてしまいそうな瞬間であった。気がついたら知らない世界にいたらしく、現実味もなく受け入れられない状況に混乱しながらも連れて行かれた部屋で見たその光景は、周囲の混乱、不安な様子とは裏腹に晶には酷く美しい姿に見えてならなかった。
     そして正気を取り戻し、動けるようになってからのファウストは愛想とは無縁の様子で、むしろ怖そうな印象を与える男であった。しかし、彼を慕う美しいヒースクリフの様子から本当に悪い人物であるとは思えなかったし、なにより自分にには共通の言語である猫の話題があると強気でいられた。そして実際に猫の話題をきっかけに、生来の面倒見の良さがあるのか異世界での生活に戸惑う晶の手助けをしてくれていた。
     そんな日々が続き、晶の生活の中においてファウストの存在は大きなものとなっていき、事あるごとに「今頃ファウストはなにをしているのかな」と考えている自分にも気がついた。それが恋心というものであることに気づくのもそう時間は掛からなかった。
     そうか、俺はファウストが好きなんだ──そう自覚したのはいいものの、自分の立場は賢者であることが問題であった。仮にファウストに思いを告げたらどうなるのだろうか。それは本当にファウストが本心から受け入れてくれたのかが分からなかった。なんといっても晶とファウストは賢者と賢者の魔法使いという関係だった。この世界へ来た時に魔法管理大臣のドラモンドが言っていたことが気になってならなかった。
    「賢者の魔法使いは賢者の言うことしかきかない」
    晶が賢者であり、賢者がそれを願ったから、賢者の魔法使いであるファウストはそれを叶えるべく応えてくれたのだとしたら。ファウストの心が別のところにあるのだとしたら。
    「ファウストに嘘を吐かせたくない……」
    晶はこつんと賢者の書に額をつけて項垂れる。小さく唸ってから視線を書棚へ向けた時だった。
     晶の視界の左右から手袋に包まれた二本の腕が音もなく現れ、そのまま書棚に添えられてしまった。まるで後ろから包み込まれるような状況である。
    「僕が、なに?」
    晶はとても振り向くことができなかった。よりによって今の今まで考えていたファウストだった。そんなファウストが耳に息のかかる距離に居るのだ。動揺した晶は上手く返事ができずに戸惑うばかりであった。
    「ファウストがこの辺りに来るのって珍しいですね。ほら、ここって賢者の書がまとめて置いてあるから、興味がないと思ってました」
    話題としてかなり苦しいと思いながら、晶はなんとか言葉を絞り出す。ファウストといて沈黙が苦しいと思ったことは初めてだった。
    「君が居たから」
    晶は彼の返事を聞いて、より一層恥ずかしくなっただけだった。よくもこんなに恥ずかしいことを、と晶は混乱する頭で考える。だが、アーサーやカインの言動を思えば、根は中央の男であるファウストが歯の浮くような台詞を言うのも頷ける。そうだ、ファウストは元々中央なのだ。どんなに普段の気質が晶と似ている東の魔法使いてあったとしても、中央の一面が垣間見えているだけなのだ。きっと、こんなことはファウストにしてみればなんてことはないのだろう。そう考えに至ると、晶の心は徐々に冷静さを取り戻していく一方で、寂しさのようなものも感じていた。
     だが、問題はまだ解決していなかった。耳元で囁いたファウストの気配が遠ざかる様子がなく、その一方で晶は自分の耳の辺りが異様なくらい熱くなってきていることを感じていた。どんな表情をしているのか自分では分からなかったが、少なくとも顔は赤くなっているに違いなかった。こんな表情をファウストに見せる訳にはいかなかった。きっと、自分の気持ちに気づかれてしまうと思ったから。
    「賢者、こちらを向いてくれないか」
    ぎし、と音がした。晶は視線だけで音がした方を向くと、白い手袋を嵌めた二本の手が自分の逃げ道を塞ぐように変わらず書棚に置かれている。そうだ、これは所謂「壁ドン」というやつなのではないかとぼんやりしてきた頭の片隅に点滅する。
    「……い、いや、です」
    「なぜ?」
    背後から耳元へ吹き込まれるように囁かれるファウストの声はどんなシュガーよりも、なんならオーエンが抱え込んでいるボウルの中に入ったふわふわの生クリームよりも胸焼けするほど甘美で背筋にちりちりと電流が走るかのようなものだった。
    「僕は、」
    耳だけではなく頸までも赤く色づいてきた晶の後ろ姿にファウストは思わず目を細める。あと一息、そう思った。
    「君の今の顔が見たい」
    晶は胸に抱え込んだ賢者の書をぎゅうと力強く抱きしめて、俯きがちになりながらふるふると首を横に振る。
    「ファウスト、こういうことをされたら、俺……勘違いしてしまいます」
    絞りだようにようやく口にできた一言だった。
    「どんな?」
    「うー、とにかく!ファウスト、誰にでもこういうことはしない方がいいと思いますよ」
    「君は分かるだろう?僕が誰にでもこういうことをしない奴だって」
    離れてくれるのでは、と期待して口にした言葉だった。それがまさかの墓穴になるとは晶も思わなかった。
    「君だからだよ、晶」
    「……こう言うときに名前で呼ぶなんて狡いと思います」
    「狡いと言われても気にしないよ。魔法使いは言われ慣れているからな」
    「そんな寂しいことを言わないでくだ──」
    ファウストが言った一言に晶は思わず振り向いて否定の言葉を口にした。しかし思っていたよりも近くにファウストの顔があり、言葉に詰まってしまう。はく、と唇を振るわせるも次の言葉が出てこない。
     晶の見開かれた瞳にはファウストの美しい紫の瞳が映り込んでいた。それが、優しく細められる。漸くこちらを向いてくれたな、と囁かれる。晶はごくりと唾を飲み込んだ。
    「君のことを忘れたくない」
    ファウストの右手が書棚から離れ、晶の顎に添えられる。オーエンやミスラなど、脅すように顎を掴まれたことはあったが、そうでない理由でされるのは初めてだった。心臓の音がうるさい。とにかくうるさくて、ファウストに聞かれていないことを祈るばかりだった。
    「こんなことを思ったのは初めてなんだ」
    ゆっくりと親指で晶の唇を撫でる。晶は自分の呼気にも注意を払わなければならなくなった。とにかく今は鼻息を聞かれるのも恥ずかしい。この状況を理解しようとすることを放棄したのか、先程食べた昼食にニンニクのようなものが入っていないことを願い始めていた。
    「賢者のことは忘れてしまっても、どうやら賢者から授けられた知恵は残るらしい」
    ファウストの指先が晶の唇から離れると、今度は晶が胸に抱え込んだ賢者の書に触れる。視線が思わずその指先を追ってしまう。
    「だから、どうか君の言葉を教えて。君が書いた賢者の書をこれから先も僕が読めるように」
    近い距離だった。晶は彼の指先からゆっくりと視線を上へ上げていく。胸元を覆うように重ねて着けられた首飾り。襟の間からちらりと覗く喉仏。ふるりと柔らかそうな唇。通った鼻筋。そしてサングラスが隠してしまっている美しいアメジストのような紫色の瞳。その瞳が今は細められている。とても大切で愛おしいものを見る目だと思った。
    「そして、君のことを忘れないようにするために」
    「俺の国の文字を覚えるの、結構大変だと思いますよ」
    これからはファウストも俺の日記を読むようになるのか、と晶は少し照れくさいような気持ちを隠すように脅してみる。どんなに大変だと言っても、きっとファウストには読める日が来てしまう気がしたから。
    「僕を誰だと思ってる?雨の街で手に入れた東の国の法典三十巻を覚えた男だよ」


    ☆☆☆☆☆


    「ファウスト、俺は君に幸せになってほしいと思っているよ」
    向かいの席から身を乗り出すように力説する賢者をファウストは一瞥し、直ぐに手元の本へと視線を戻す。
    「僕は幸せにはなれないよ。毎日毎日人間のことを呪っているんだからな」
    「じゃあ、言い方を変えるよ。君なら誰かと幸せになれる、そういう奴なんだろ?」
    「君が僕のなにを分かるっていうんだ」
    ろくに僕のことを知らないくせに、ファウストは胸の奥で毒づいた。
    「あは、ごめん。この言い方は嫌だよね。でも、こういう言い方をされてもいい、むしろ分かってくれる筈だって期待できるような人と出会ってほしいと願っているんだ。そしてその人と幸せになってほしいって」
    賢者が考えるファウストの幸せについて。勝手に決めないで欲しいという思いは実際に口にしない代わりにため息に乗せて吐き出してしまう。
    「そこでひとつ、君がどうしてもこの子がいいって人と出会えた時にやってみて欲しいことがあるんだ」
    僕には関係ない、そう言って会話を打ち切ることもできたが、目の前の賢者は存外しつこい奴であった。他の魔法使いのいる前で話されるよりは、今聞いてしまった方が被害も少ないと判断したファウストは先を促す。
    「俺はやったことないけれど」
    相槌代わりに「はあ?」と声が漏れてしまう。かなりキツい口調ではあったが、賢者は気にしていないようだった。
    「大丈夫、ファウストなら顔も綺麗だし、それで乗り切れるって」
    ファウストの口からは思わずため息が漏れてしまう。途中で数える回数を諦めた、ため息だった。


    ☆☆☆


    「そういえば、前の賢者が教えてくれたことがある」
    晶はファウストとの距離が近いな、と思いながらも彼が気にしていないのならいいか、と自分としては嬉しい距離感を堪能することにした。
    「なんですか?」
    「たしか、……でこぴん、」
    ファウストはす、と布で覆われた右手を持ち上げる。途端に目の前の晶は怯えたように身体を縮こまらせる。
    「え、ちょ、っわ、ファウスト、待って」
    ぎゅ、と強く目を閉じた晶の様子にふ、とファウストは笑みを溢す。なるほど、前の賢者の言った通りではあるが。
    「確実に好意を持っていると確信できなければ──」
    前の賢者が言っていた注意事項が引っかかってならない。シャイロックの保証はあるが、こういうことは確実に思いが通じあってから交わしたい。
     ファウストは互いの息のかかる距離まで縮めた唇を離し、結局は晶の額にぺちんと軽く弾いた指を当てるだけに留めていた。
    「……っ、いっ……たあ……」
    「ふふ、悪いな。軽く当てたつもりだっ──」
    愛らしい反応に思わず笑みを溢していた時だった。ファウストはマントを引き寄せられる感覚にバランスを崩し、先程まで手をついていた書棚に再び手をついて倒れることを防いだのだが。ふに、とした唇の感覚に驚いて目の前の、いや腕の中にいる晶を見やると、彼の顔が耳まで赤く染まっていた。
    「……あきら?」
    晶の頬の赤みがファウストにまで移ってしまったようにじわじわと頬が赤らんでいく。
    「わ、悪い、ぶつかってしまったか?」
    「違います!」
    普段なら図書室であることを考慮して大きな声を出すことを憚る晶と、注意をするファウストだったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。晶は握りしめていたファウストのマントの皺を伸ばすように撫でてから、ゆるりと肩へと手を滑らせる。
    「……あの、間違っていたらごめんなさい。その、俺はファウストとこういうことを、してみたかったので……」
    違いましたか、と不安そうに揺らぐ晶の瞳がいつも以上に近いように感じられた。ファウストはふ、と頬を緩める。近々、市場へ行って上等な酒を用意してシャイロックへの手土産にしなければ。
     晶が寄る辺ない様子で動かなくなった男の名を呼ぶと、ファウストは安心させるように晶の頬に口付ける。
    「へえ、賢者は魔法使いの気持ちが分かるのかもな」
    からかうように言ってやると、晶はもう、と少し唇を尖らせる。再び晶の耳に唇を寄せて、耳たぶにもキスをする。晶の甘やかな唸り声が喉の奥で鳴らされ、ファウストを熱くさせる。
     そのまま晶の耳に直接流し込むようにファウストはもう一度「好きだよ」と告げると、晶はぴくりと肩を跳ね上げさせる。そして肩から胸、脇へと手を滑らせてそのまま強く背中を掻き抱いた。
    「おれもです、」
    本棚についていた手を自分を抱きしめる愛おしい人の身体へと移動させ、後頭部へと回した指先で髪の毛に触れる。多分、柔らかいのだろうと思うが手袋をしていることを悔やんだことは初めてだった。
     やり直し、とばかりにゆっくりと晶の唇にファウストが口付けると、かちゃりと音がした気がした。この時、初めてファウストはサングラスが邪魔だと感じた。
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    yutaxxmic

    MAIKING #ふぁあきくん週間 お題の「バレンタインデーの後で」になります。
    「後で」のタイトルなのによりによって当日の話で前編として投稿させていただきます。(終わらない気がしてきたため、保険です……)
    バレンタインデーの後で⚠️2023年バレンタインデーボイス
    ⚠️前編です

     俗世を離れて四百年が経っていた。
     人里離れた嵐の谷で自給自足の生活。生業として呪い屋をしていたが特に具体的な報酬を設定していた訳でも無かったため、気味悪がって成功報酬を渡そうともせず隠れるように去っていく多くの依頼主の中に、時折なにを思ったか大金を置いていく者もあった。元々浪費をするような時代を生きていた訳でも性格でもなかったため、金銭は貯まっていく一方だった。
     それがどうしたことか。
     ファウストを取り巻く状況が一変してしまったのだ。半数の賢者の魔法使いを石へと変え、ファウスト自身にも命を落としかねない重傷を与え、厄介な傷痕を残していった厄災との戦いを機に拠点を嵐の谷から魔法舎へと移し、そこでの新しい生活が始まった。そして変わったことは生活の環境だけではなかった。これまでは時折顔を合わせるヒースクリフの面倒を見るだけだったのが明確に「先生」としての役割を与えられてしまったうえに、生徒は三人に増えていたのだ。
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