2021.06.05
ひたり、ひたりと近付く足音に、フィガロは一旦気付かないふりをすることにした。音を立てないよう気を払ってベッドから起き上がった賢者が、次に何をしてくれるのかを見てみたくなったからだ。
賢者は、行動のたび、朝の挨拶を既に済ませてから再びすれ違うたびに、フィガロの名をその舌に乗せて、嬉しそうに、挨拶をしてくれる。それ以外にも、人ひとり分の空間を開けても、後ろを通りますだとか、ものを取るので、お邪魔しますねだとか。些細なことを気に掛ける子だな、と感じたのを思い出す。印象は、そのうちに、今日は、俺との間のどんなことを気にしてくれるのだろう、と楽しみに変わった。
ランプがわりに浮かせた小さな火に照らされる、ミチルからの手紙に集中している顔を装って待つけれど、賢者からの次はない。いっそ、諦めるまで焦らしてみようか。今日に増えたぶんを一通り眺め終えても、幼いころの南の兄弟がくれた似顔絵や、ファウストが寄越した、小言をしたためた手控えなど、暇を潰すものならいくらでも取り出せる。
「フィガロ。気付いてますよね」
「残念。君からのいたずらを待っていたんだけど」
指先をそろえた両手を中途半端に上げて、目をつぶる。賢者からは見えていないが。何も持たない手を挙げるのは、降参、という意味らしい。指をひとつすべらせれば容易に害せる魔法使いには、不要な動作だった。
「どうして、俺を部屋まで連れてきたんですか。ゆうべねだった時は断っていたのに」
「介抱するのに都合がよかったからね。それに、昨日は本当に都合が悪かったんだ。賢者様をないがしろにしたつもりはないよ」
椅子ごと振り返って、眠気の抜けない賢者の顔を眺めてみる。普段よりも眉根がおかしなふうに寄っていて、寝起きというよりは、照れを隠そうともがいているようだった。素直な賢者には珍しい、相手に不満をぶつけるようなしぐさだ。そんなにも気に食わなかったのだろうか。結局迎え入れたのだから、同じことじゃないのかな。
今日をどう祝おうか張り切る賢者に、折り悪く揉め事が飛び込んだのは、昼食前だった。同行を申し出るも「主役はここで待っていてください」と断られてしまってからは、兄弟とレノと、リケと、ああ、ネロの振る舞いもなんだか賑やかだったな。何度も重ねてくれる言葉や、なげやりな文句やら、実にまとまりのない祝いの声をおとなしく浴びていた。あとから顔を出したオズまでわざわざ言いに来たものだから、主役どころじゃなくなってしまったけれど。こんな場に、あの子の姿はない。
ディナーに添えられたケーキを味わって、今日はありがとうと締めくくり、また明日と微笑みながら扉を閉めた。あの子からの言葉を、まだ聞けていない。一言さえもらわずに眠るのも惜しくて、灯りも付けずに、窓の隙間から月を見上げる。
彼の世界では、愛を伝える言葉に「月」を用いるという。能面に託してやる心など持ち合わせていないけれど、彼の生きた世界と繋がりを持つものを眺めて待つなら、少しは退屈も凌げるだろうか。……もう、寝てしまおう。体を投げ出すばかりの行為に移ろうと、重い腰を上げる。
そんなところに、慌てたルチルが飛び込んできた。ノックもなしにすみませんだとか、静かな夜に騒いでごめんなさいなんて、泣きそうにみえる子を落ち着かせて聞き出すと、別件にまで巻き込まれた賢者がようやく帰ってきたらしい。フィガロ先生、まだ起きているかしらと浮足立って出迎えたルチルの目に飛び込んだのは、カインに抱き上げられてくったりと脱力する賢者様だった。それで、よほど慌てたのだという。揺すぶらないよう、遅れて訪れたカインに横抱きにされているのは、なるほど眠りこけている賢者様だ。
「預かるよ。診ておくから、俺のベッドまで頼める?」
「誕生日なのに、悪いな」
「放って眠るわけにはいかないだろう。ついでに送り届けておくから、二人もよく休みなさい」
胸に手を置いて深呼吸を繰り返すルチルの背をさすってやりながら頷くカインに任せておけば、あとは済むだろう。賢者様に施すべきは、処置というほどのものもない。彼は、少し、悪い夢を見ているだけだ。
「起きられるかい。あとは、君自身が歩いて来るだけだよ」
滾々と眠りに落ちていた賢者は、ほんの少し、呪いの残滓に当てられた程度だったので、安全な場所で休ませる方法を選んだのだった。
「悪夢を取り除いてみたんだけれど、よく眠れたかな」
「……あなたの匂いがして、落ち着かなかったです」
笑い声を上げた。心配はいらなかったよと、ルチルの部屋へ手紙でも差し込んでおこうか。本人の顔を見せるほうが安心するだろうな。明日起きたら、一番に話すよう伝えておかなくちゃ。
でも、その前に。今夜はまだ終わっていないのだから、まだ、彼は、俺が独り占めしていいだろう。
「ねえ、賢者様。まだ、君だけから聞いていない言葉があるんだけど、言ってくれるかい」
前に揃えた、重ねた手を掴む。怯えるように一度跳ねて、自由なもう片方を重ねてくれる。抱き締めるのはあとにしよう。彼の言葉は、顔を見て聞きたい。
「拗ねたりして、すみません。……お誕生日、おめでとうございます」
「それじゃ、足りないな。話せなかった一日分、賢者様の想いを頂戴」
今日は、いつかの遠い日に、フィガロの生まれた夜だった。素直な彼の、慌てた顔がよく照らされて見えるら、月に背中を向けるのも悪くはない。