2021.03.24
風の強い夜の浜辺で好きだと告げられた。甲洋にしては珍しく、なんにも取り繕わない素直な顔で。びっくりした顔のまま、なんとか「そうなんだ」と絞り出した俺をおかしそうに見下ろす瞳が、少しだけゆるむ。あ、笑った。いつからだか甲洋は俺の前で笑わなくなった。元々そう笑う方ではないけれど。と、言えるほど長い付き合いでもないんだけど。
存在の近さゆえか、他に余裕がないからか、きっとそのどちらもだろう。美羽との取り引きで滞在する事にした俺の身柄を預かり始めて少しして、からだったように思う。二人でいる時に、笑顔を見なくなったのは。気を緩ませても彼の思考が流れ込んでこないと気付いてすぐ、だっただろうか。言葉での交流を望んだ俺にとっては都合がよかったけれど、こうもあからさまに遮断されては、気にならないわけはない。
俺がなにかしでかしてしまったんだろうれど、甲洋に言うつもりがないのなら、わざわざ促そうとまでは思わなかった。必要なら無理矢理読心で流し込んでくる男がそうしないなら、俺が知る必要のないことなんだろう。と、自分で納得した矢先にこれだ。
人って、そのままじゃ心を繋げられないから言葉を重ねるのがちょっと手間だよな。そのぶん気持が通じ合ったなら、読心で分かった気になるよりもずっと嬉しいよな。甲洋が言ってくれた「好き」は、たぶん、俺がまだ知らない心だ。この呼び掛けに、正解の答えはあるんだろうか。彼は僕から、どんな言葉を聞きたいのだろう……
「どうこうなりたいわけじゃない。そういう感情もあるんだって糧にでもしてくれ。俺が言ったこと、人にも、ミールにも、誰にも明かすなよ」
吐き捨てるようにそう言って、二の句を告げられないでいる俺を置いていこうとする腕を慌てて掴んで、勢いのまま、「俺でいいのなら」とほとんど叫ぶようにして答えた。
「君が俺を望んでくれるなら……君の、そばにいさせて」
以前のコアとの確執は消えないけれど、君と語るのはそれなりに好ましい。そう言って、「好き」の続きを教わって、恋仲になることを了承した。理由としては、子育てに勤しむ一騎の邪魔にならないようにと遠慮した結果、甲洋と二人だけで語る時間が増え、多少距離が近くなっていたこともある。主に人間としての常識のなんたるかを教授されるばかりだったけれど、時間というものは、どうやら想定以上に心を動かすらしい。人の姿を模倣するうちに、俺の左胸の心、が育まれているのだとしたら、従わない手はないだろう。
それに。特別な好意とやらを俺に抱いているのだと懸命に説かれては、悪い気などしなかった。
***
海神島が活気を持ち始めた頃には、僕たちが関係の名を変えてからも暫くの時が過ぎていた。けれども、劇的な変化は起きていない。強いて言うなら甲洋からの視線が少し優しくなったくらい。というのも、人間の姿を借りているだけの俺は、言葉で伝え合う事はともかく、肉体接触への執着を備えていなかったのだ。知識として得た粘膜接触の数々も、興味を引かれる内容ではなかった。好意を受け入れる側の僕はといえば、話していて楽しい相手とより近くにいられるだけで十分に満足していた。
とはいえ、人間らしさを取り戻しつつある甲洋にとってはそうじゃないようで。
「ずっとそうやってるけど、楽しいの?」
客席に向かい合って座りながら俺の右手に重ねられた手を見て、甲洋の顔に目を向けると、期待はしてなかったけど、と重く長い溜息をつく。
「……あんまり」
珍しく、今俺は堪えているのだと本音を隠しもしない。ただでさえ前髪のせいで重苦しい雰囲気が更に薄暗くなっている。て、俺のせいなんだっけ。
「何をしたいかはわからないけど、僕たち恋人同士なんでしょう? 甲洋が教えてくれるなら、ちゃんと応えるつもりだよ」
僕の手にかぶさる甲洋の、ちょっとかさついた手にもう一つ手を重ねる。離せと言いたげにぐ、と力を込められても従う気はない。
そうだ、変化はあった。恋心を隠す必要のなくなった甲洋は、俺の前で時々幼い顔をするようになった。ちょっとした事にこだわって、聞き分けのない、こどものような態度を取る。おとなの彼が総士のような駄々をこぼすのはおかしくて、可愛らしい。自覚していないのか見つめると不思議そうに目を合わせてくれるのと、人前では変わらずお澄まし顔なのが、余計に愛着を誘った。
「……離してくれ」
「甲洋が差し出してくれた手に返しただけだよ」
「来主が理解してないのなら、この先まで無理に付き合わなくていい。一度受け入れてくれたってだけで、充分だから」
逃げる事は諦めたらしく、抵抗をやめて目をそらす。きっと、ここで突き詰めて話さなきゃ堂々巡りのままだ。俺はこのままでもいいけれど、これ以上甲洋に負担を掛けるのはどうにも嫌だった。
「僕さ、なんでもは難しいけど、甲洋がやりたいこと叶えてあげたいって思ってるんだよ」
「気まぐれで倣ってみただけなんだろ」
「嫌だったら最初から断ってる!」
「…………」
力んで余計に骨ばった甲洋の手を撫でながら、俯いて隠れてしまった耳にも伝わるように声を大きくする。竜宮島に似た配置に再現された楽園の道沿いは、基本的に人通りが少ない。オマケに本日は定休日というやつで、妨害が入る心配もない。今日を逃せば来週までこの機会を失う事になるのでそれなりに必死だった。なあなあで解放してしまえば、酷くすれば甲洋のことだから、関係を解消しようと言い出しかねない。せっかく仲良くなれたのに、距離を縮める以前よりも酷く拒絶されてしまうかもしれない。
それは、かなり、困る。
僕まで恋仲に拘ってしまう理由はわからない。ただ、甲洋が離れていったら寂しい。寂しいのは嫌だ。嫌なものは困る。困るから、僕が叶えられる内容だったら、望みを叶えてやりたい。いいや、手に余るお願いでも、甲洋の為になにかしてあげたい。
甲洋の隣にいたい。あの日許された場所に、これからもずっと。俺から彼に差し出せる感情はたったこれだけだけれど、ただの協力者に戻ってしまえば、彼はこの心さえ受け取ってくれなくなってしまう。だから手を放してはいけないのだ。きっと。
「ねえ、ちょっとめんどくさいところを見せてくれるの、嬉しいって思ってるよ。取り繕わないでいてくれるのも、心を明け渡してくれるのも。僕は今で充分だと思ってしまうけど、甲洋はそれじゃ物足りないんでしょう?」
拳から諦めたように力が抜けていく。気持ちを伝えてくれたのも、今、甲洋から触れてくれたのも、たぶん、すごく勇気の要ることだ。その頑張りを失わせたくはない。甲洋の器からあふれてしまった想いを聞かせてくれてありがとうの気持ちと、すごく嬉しくって抱き付いてしまいたいんだってこと、どんな言葉を選べば伝わるだろう。
「わからないから、教えてよ、甲洋がしたいこと、もっと。知りたいんだよ。僕がきみの心を知りたい。隠されたまんまじゃ、僕からの答えも返せなくて寂しいよ……」
それでようやく顔を上げた。乱れた前髪から覗く二つ宝石が爛々と光る。宝石。きれいな固形物の総称。本物を見たことはないけれど、彼ほどその名にふさわしく美しい存在を、この先知ることはないと思う。純粋な人間でも、まっとうなフェストゥムでもない。そのどちらの性質も兼ね備えながら、春日井甲洋という個としてここにいる。あの夜に砂に足元を取られながら手を掴んだのは、彼の命の輝きを独占したかったから、なのかもしれない。
「来主はわからないだろうって、もう、遠慮しなくてもいいのか」
もちろん。気持ちを込めて、せいいっぱい優しく見えるように、微笑んで見せる。ふらふらと持ち上げられた甲洋の左手に、鏡合わせの手の指を絡めてもう一度。
「じゃなきゃ感情を溜め込んじゃうんでしょう? きみが苦しいのは嫌だ」
「いや、か……。そうだな、俺も、我慢するのはもう…」
手に熱が戻る。ゆるんだ右手の拘束を持ち上げて求めると、同じように絡めて繋いでくれる。鈴奈が教えてくれた恋人つなぎというやつだ。なんだか心がくすぐったくなるけど、普通に繋ぐのよりももっと嬉しい。こんな嬉しいを、もっと甲洋に教えてもらいたい。
「僕が寂しくなるのもいやだけど、甲洋が痛い思いをしてまで閉じこもるのはもっといやなんだよ。だから、突き放さないでね」
「……ん」
僕の心が甲洋を求める事が、恋なのかはわからない。彼が求めている関係が、人の正しい関係なのかもわからない。いろんな答えを見つけていくうちに、ひょっとすると、いつかフェストゥムの指針のひとつになるかもね。なんて。
宝石が、星の光のように、優しく瞬いた。