お互いの事務所間にあるレスティングルームでは、会おう、と示し合わさずとも遭遇することがままある。今日も、呼び出しをくった帰りに隅のクッションに身を投げ出してだらけていると、同じく事務所帰りらしい藍良が俺を見つけてぴこぴこと走り寄ってきた。今日はソロで外部のラジオにゲスト出演するそうだから、先達か、例のプロデューサーにアドバイスでも求めていたのかもしれない。
寝転んだままスマホを懐へ仕舞い迎えてやると、嬉しそうに隣へ座る。わざわざ同じクッションを選んで。ここで会うのなんて数え飽きるほどというのに、よくもまあ新鮮に喜べるものだ。自分も似たようなものだし、からかう気は起こらないのだけど。
「お兄さん、ひとり? 暇ならごはん行こーよ」
「暇じゃありませ〜ん。藍ちゃんこそ夕方お仕事なんじゃねえの」
「そうなんだけど、中途半端に時間あいちゃったんだよねェ。寮と往復するだけってのももったいないし……。……んん?」
話しながら、藍良が首元に顔を寄せた。仔犬のように匂いを嗅がれている。咄嗟のことで反応しそびれてしまった。
「あ……? なに?」
未成年が別事務所の大男に覆いかぶさるなど、親密なのを知られていてもあまり見せられた光景ではないので早く退いて欲しい。わざと顔を歪めていやがる素振りを見せても、夢中な藍良は少しずつ隙間を詰めてくる。
「うん、ちょっと……」
「いや、近ェんだけど」
スキンシップ自体は構わない。問題は、ここが共有スペースで、仕事先ということだ。夢ノ咲出身者はどいつも妙に距離が近いし、スタッフも見慣れているようだけれど、それと自分も開き直れるかは別だ。誰が来るかもわからない場所で触れ合うのは俺の趣味じゃあない。
仕事柄、どこで目を向けられてもいいように、振る舞いに反してなるべく清潔を心がけてはいるけれど、まさかこんな目に遭わされる想定はしていなかった。照れよりも焦りが勝る状況だ。さっさと離れろ、と押し返しても、もとからこの距離だと言わんばかりに、またずい、と顔を寄せてくる。
幸か不幸か、誰かの来る気配はないものの、すんすんと何度も嗅がれるのは普通に落ち着かなかった。身を捩ったところで反対側はガラス窓。少年を突き飛ばしでもしない限り逃げ道は作れない。藍良にそんなつもりはないのだろうけれど、選択肢を奪われたも同然だった。
ユニットメンバーの距離感をおかしいと指摘するくせ、藍良だって夢中になるとこれだ。集中のスイッチを持てるのは強みだし、場所さえ考えられるなら構わないのだが。
「なに、俺、くさい? ヘンなにおいする?」
「んーん、いいにおいする。先輩、どこ通ってきたの?」
どこ。寮で適当に飯を食べて、顔見知りの店に顔を出そうかという時に呼ばれたから、匂いのあるような場所へはどこへも立ち寄ってはいない。可能性があるとすればその道中くらいなものだが。
「タイムストリートをぶらついただけ。誰かの香水でもかぶっちまったかな」
とはいえそれも結構前だから、匂いなど薄れて消えているはず。食品の匂いに敏感なニキじゃあるまいし。まさか、あの一彩と過ごすうちにこの子まで五感が敏感になってしまったとか?
だとすれば、こんなところじゃなく仕事で発揮してくれと思う。たとえばバラエティでの嗅ぎ分けクイズとか。や、ユニットの色にそぐわないな。まったく妙な特技を覚えたものだ。
「香水? じゃないと思うんだけどなァ、なんだろ……」
「わっかんね。マジで心当たりねえもん」
答えたのに、腑に落ちないのか藍良は離れようとしない。どころか、わざわざ頭の横に手まで突いて、ますます隙間を埋められる。それこそ抱き締め合う寸前のような、僅かな鼻息がくすぐったいほど近く。
「ん〜〜?」
今更だが、これ、遠目からだと押し倒されてる恰好なんじゃないのか。気付きはなんの解決にもならないし、俺の中でもまずい要素が増えただけだ。藍良の腕の中の居心地は悪くないものの、とにかく場所が悪い。少年に離れる気がないならば、こちらから終わらせなくては。
「なァ、いつまで嗅いでンだよ。腹減ったんだろ」
少々強めに押し返しながら、俺もついでに起き上がる。じゃれあいだと言い訳の利く範疇はとっくに超えている。もっと早くに止めるべきだった。そもそもを言えば、開けた場所で寝転ぶこと自体がよくなかった。この頃気が緩みすぎている。
藍良は最後に喉仏のあたりをもうひと嗅ぎして、ようやく離れてゆく。さすがにしつこい。呆れの溜息も深く長くなるというものだ。
「……あ、わかった。先輩のにおいだ」
「あ?」
「いいなあって思ったの、先輩のベッドで寝る時のにおいなんだよ。落ち着けるから大好きなの。気合い入れすぎて疲れちゃってたから、つい夢中んなっちゃった」
緊張していたから、降って湧いた馴染みの匂いに安心した、ということか?
なんだそれ。そんなの自分で気付けるはずがないだろう。俺の匂いだって言うならもっと早くにわかれよ。怒りになりきらない、いじけで思考が染まってゆく。やり返してやらなくちゃ気が済まない。
「あ〜っ、すっきりした! ね、先輩はなにが食べたい? おれ、中華料理の気分だな」
つゆ知らず呑気に言う。俺はまだすっきりしてねえし。機嫌良く揺れる肩に腕を回して、今度は俺の胸元に捕まえてやる。
「どォでもいいけど、状況わかってる? 俺っち、藍ちゃんに押し倒されちゃってたんですけど?」
「えっ? ……わっ!? ……あ!? ご、ごめんなさい……!?」
大声に、頬から耳、首へと順番に赤くなっていく。いい反応だ。意趣返し大成功。仕返しついでに耳元へ囁き込む。藍良にだけ聞こえるように、なるべく声を低くして。
「スケベ。ガキのくせに」
嫌ではなかった、とは、まだ言わないでおく。俺たちには尚早だろうから。