2022.02.07
百グラム足りなかった、と、小声が聞こえた。飾りの眼鏡を光らせて神経質に秤を眺めている男を見守る目は、どうしたって呆れがちになる。一騎が何度適当で構わないと告げたところで「適量」の意味を解き始めて蝸牛の歩みだが、今回は勝手が違う。なにせ、行っているのはこいつほどの慎重さが活かされる菓子作りだ。細かなチェックは総士の得意分野だし、適任ではあるはずだ。バターの種類、選ぶ洋服、記載通りの材料量。覚えておくべきことはいくつも紹介されていたらしいが、すべてなぞっていてはきりがない。総士の場合はなおさらひどくなるだろう。
独り言が上がったのは、量と丁寧な工程を第一にしろと言い含めて見守り始めてから、やっと材料を計り終えた時だった。
「なにが足りないって? 在庫は?」
「問題はない。単純に量を増やすつもりでいたのを今思い出したんだ」
「へえ」
何人分作るつもりなんだ。初心者はおとなしくレシピ通りにしていろ。出かかった言葉を飲み込んでカウンターに体を預ける。失敗すれば全部が俺のものになる。そうなれば、誰だかへの贈り物は既製品になるだろう。
失敗したらいい。伝える気のない言葉も飲み下す。
バレンタインの用意だと総士が張り切って材料を揃え帰った時は大層焦った。ただでさえ目を向けられている総士が、手に技術を増やしたとなればますます注目されるだろう。慕われるのはいい。ライバルが増えるのはいやだ。こどもじみた独占欲で胸を焦がしながら、アドバイス役を買って出た。他人を頼られるよりはいい。
「どちらの味にする」
示すのはナッツとドライフルーツ。その他にも製菓コーナーで収穫したという華々しい飾りがいくつか。俺はなんでも食べる。
「チョコパウンドケーキだからなあ。ナッツ系は結構好みもわかれるし、基本で焼いて、ティーパックとか添えるのがいいんじゃないか。フルーツは小袋のまま渡してさ」
大体誰に与えるんだ。迎えに行った居酒屋で挨拶した総士の親しいらしい顔ぶれを浮かべるも、ほとんどが左手に指輪をしていたし、わざわざ菓子を拵えなくたって。
総士にそんなつもりなどないと知っているのに嫉妬は浮かぶ。知らないやつに色目を向けられるのがいやだ。想像するのだっていやだ。空想にぶつけるくだらない焼き餅は際限なく膨らむ。
「甲洋の好みを聞いている。どれを食べたいんだ」
今度は総士が呆れたような顔をする。そう言われましても。俺の好みは参考にならないだろう。
「……贈答品の用意だと思っていたのか?」
違うんですか。
「遠見先生たちには今年もカタログギフトだ。恒例に頼っているのに、来年のハードルを上げる真似はしない」
「……俺のハードルは上がっていいの?」
「お前、やめろと言ったところで失敗分も平らげるだろう。上がるも下がるもない」
つまり、じゃあ、最初から。 なんだ。なんだ。余計な心配だったじゃないか。
「で。どれにする」
「……ぜんぶ……ちょっとずつ混ぜたやつ……」
「……まずく仕上がっても知らんぞ」
おいしいやつは自分で作れるからいい。味がどうだろうが俺の為に作ってくれたものが欲しい。期待を込めてカウンターから乗り出すと、呆れ顔のまま、まな板の上のチョコレートを刻みだす。包丁さばきは俺が教えた。固いものを刻むコツも。火加減とか、むらなく混ぜるやり方だとか。俺から吸収した技術で、俺の為にあつらえようとしてくれている。嫉妬で曇った視界が、散髪後みたいに晴れていく。
「なあ総士」
「なんだ」
「勘違いして、嫉妬してごめん。食べるの、楽しみにしてる」
「ああ。おとなしく待っていろ」
仕留めるみたいな言い方だな。こういう、遠慮しないでくれるところが、好きだ。
どうか来年も総士の失敗作を腹に収められますように。成功品も、なにもかも、余さず与えてもらえますように。