2022.03.13
向かいで僕があれこれ話すのを聞いていた甲洋が、ごはんを口に運ぶのをやめて静かな声で言った。
「俺が死んだら、来主はどうする?」
死ぬ。とは、強い言葉だ。存在の消滅。記憶からの消去。世界に残滓をも残せず、消えてしまうこと。同胞と呼べた存在たちが、いくらも体験してきたもの。
死ぬよりもっと前の、痛みがいちばんいやだと思う。忘れられちゃうのも、やだな。いつか存在を次の子に引き継いだあと、いつもじゃなくていいから、僕といた人に僕のことを思い出して欲しい。
あれ。もしかして僕って、結構「生きて」いられることを楽しんでいるのかも。僕を見て、僕と話して、僕がここに生きていると教えてくれるうちの一人の甲洋が自分の消失を受け入れたような質問をする意図が読めなくて、首を傾げる。思考に表面だけでも触れたくて、見つめ返した瞳は鏡みたいにつめたい。
「さび、しいし、いやだな。だからちゃんときみも守らなきゃって……」
「寂しいの、そのあとは? 俺がいない世界を、来主はどう生きる?」
きびしい言い方にちょっとひるむ。えっと、ええっと。そんなの、急に聞かれたって。次の子に引き継ぐ自分のあとしまつならまだしも、ほかの誰かに会えなくなる想像なんて、したことがない。まして甲洋が、僕を置いていなくなる可能性なんて、これっぽっちも思いついてなかったのに。
存在は無限じゃない。いつか僕は、一騎も、……甲洋も、自分じゃなくなる日は来るだろう。でも、そんなの考えたって仕方ない。心の準備だって、かなしくなるからしたくない。でも甲洋は、僕が考えたくないものを知りたがってる。
「具体的じゃなくていい。もしそうなったら、お前は俺の知らない世界で、どんな顔をしてるのかなって気になったんだ」
迷ってるうちに、お箸もお椀も置いてしまった。唇をきゅっと結んで、僕をじいっと見つめたまま。
真似したほうがいいのかな。聞きたがっているんだからそうかも。そうでなくても真似しよう。たぶん、今なにを食べても、おいしいって感じられなさそうだし。一緒に食べてるんだから、思い出すならおいしいほうがいい。
ただ手に乗っているだけになっていたお茶碗と、お箸をことりとテーブルに置く。そのまま拳を握って、無理やり声を絞り出す。僕の答えを聞きたがっているのなら、伝えてあげなくちゃ。
「……甲洋がいない世界、想像したこともない。から、わからない。これじゃ、だめ?」
「たらればは好きじゃないか?」
「……むずかしいよ。甲洋がどこにもいない世界なんて、考えたこと、ないし……」
仮定としてもいやだ。いつの間にかすごく、すっごく大切の一人になっていた甲洋が、どこかに消えちゃうなんて。まして、二度と会えなくなるなんて。そんなもの。
「そうだな。消耗の眠りから目覚めなくて、存在を保てもせずに、俺がそのまま、消えてしまったらどうする? お前の好きな一騎は元気だし、羽佐間先生にショコラを頼むことになるから、そこは困るかもしれないけど。俺が消えた以外は好きな世界のままだ。来主はそこで、日常をどう変えるのかな。それとも、変わらない? 穴なんか生まれてないみたいに、人と同じ生活をする?」
頬杖をついて、気にしていないみたいにすらすら話し続ける甲洋の目はやっぱり鏡みたいで、ううん、反射さえないガラスみたいに、僕が困っているのをなだめようともしてくれない。すごくつめたい。最初に会ったときみたいだ。もう、死んでもいいと思ってるみたいな。自分が消えても、世界が続くなら、いいかなって、考えてるみたいな……。
「……だ」
視界が歪む。じんわりずつ甲洋の顔が見えなくなる。涙だ。悲しいの涙。総士とお別れした日には、わからなくて流れなかったもの。総士が言葉を話すようになって、彼とはもう二度と会えないとわんわん泣きわめいて、意味を知った涙。
「……来主?」
「なん、で……そ、なこと、いうの」
握った手に僕の目から出た水の球が落ちて、甲洋の声色が変わる。僕の感情をやっと理解したみたいに、困った顔をして。
「なんでって……来主、これはただのもしもの話で、今すぐどうなるってわけじゃ……」
「やめて! もう聞きたくない!」
ぬぐってもぬぐってもぼろぼろ涙が出ていく。意識して使わないから制御が難しい。手で顔を隠してみても、ちっちも止まろうとしてくれない。
いやだ。いやだ。甲洋に二度と会えないなんて。みんながいる場所に甲洋だけがいないなんてさびしい。呼吸までうまくできなくなって、自分の音がうるさい中で、向こう側にいた甲洋の立ち上がる音が聞こえる。
「来主、ごめん、俺が悪かったから、泣かないで」
焦ってる? まさかたとえ話だから僕が悲しむなんて、思っても、いなかった?
まっくらやみにちかちかと灯る。これは怒りだ。なんでもない言葉で自分の存在を否定している甲洋への。
甲洋がいなくなる。悲しい。寂しい。僕が一人になっても悲しみなんかしないみたいに、いつかの話を軽くする。ふざけないで。そんな先は見たくない。思い浮かべたくもない。甲洋の心みたいにいろんな気持ちがぐちゃぐちゃだ。
「やだっ! 甲洋がどこにもいない世界はやだよ! 今の甲洋もきらい……! なんでいつも、自分のこと、大事にしないの!!」
ぜんぶがわきあがって、上手じゃない言葉になる。はじまりはそんな話じゃなかったはずだ。でも、でも、言わずにはいられなかった。
泣き止むにはしばらくかかった。おかしいな。表情をよそおうだけならすぐなのに、涙を止めるのは、どうしてうまくできないんだろう。
「……落ち着いた?」
椅子に座ったままの僕を、膝を曲げた甲洋が抱きしめてくれている。いつもよりもっとやさしい動きで、背中をなでてくれている。
「ごめん。泣かせるつもりは、なかったんだけど……」
すんすん鼻を鳴らして、白のシャツをぎゅっと握る。二枚セットでちょっとお安くなる、僕には少し大きいやつ。黒と茶色のズボンと合わせて買った、おそろいの服。靴下も、お泊り用の肌着にだって僕と甲洋の思い出が詰まっている。
一緒に生きている証をいくつも持っているくせに、甲洋は、そういうものに、たまにびっくりするぐらい無自覚になる。まるで、自分のものじゃないと、はじめから持とうとしてないみたいに。そうやって一人で立とうとする甲洋を見つけるたびにいやな気持ちになるのは、彼の過去を知らないからなんだろうか。
でも、僕だって、呼んでもらう以前の僕がない。昔を知らなくても、なくてもいい。振り返るよりも二人で一緒にいられる今を大事にしようと約束を交わしてきた。あれだけ泣いてしまったのは、約束なんかはじめからしなかったみたいに平気で置いていくような言葉を言われて、さびしくて、かなしかったからかもしれない。
「なんで、あんなこと、言ったの」
「……いきなり離れたくなかったから。シュミレーションしておけば、少しは、紛れるんじゃないかと」
「ばか、もう、甲洋ってほんとにときどきすごくばか」
いつもの思考を取り戻してみれば、甲洋がさびしいたとえをした理由には思い当たれた。自分のことは二の次で。僕が変わらず、この島にいられるように。僕が泣いちゃうなんて、可能性さえ考えていなかったのも、ほんとうだろう。
「さびしい明日なんてやだよ。そんなのに意識を割いてないで、僕の隣で生きようとしてよ」
やさしいくせに、自分にはやさしくなくて。どれだけ大事にしていると伝えても、時々自分の価値を見失ったような言い方をする。
生きて欲しい。いつか会えなくなっても。一人で立てなくなったら、僕ががんばって支えるから。どくどく、揺れているだろう布の向こうにおでこをこすりつける。甲洋のいのちがある場所。僕たちの交わし合う心がある場所。思い出をしまっていくところ。
「今日のごはん、上手に味つけできたんだから。次はどのくらいおいしくなってるか、ちゃんと覚えて教えて」
「ん……」
いなくなるのは、いやだけど。僕もこっそり抱えている夢がある。いつか、甲洋と同じ場所に眠れたら。お泊りでおやすみを伝え合う時みたいに、手をつないで眠れたら。ぜったいに、叶いっこないけど。怒ったばかりだから、そうじゃなくても、ずっとないしょのままの夢。
「……なあ、ところで、いつまでこうしてればいい……?」
脚がちょっとぷるぷるしてる。甲洋、脚長いもんね。中途半端にたたむの、疲れるもんね。
「僕がいいって言うまで」
「わ、悪かったって……!」
ちょっとくらい苦しめばいい。それで、痛みを刻んで、僕と、僕たちとここに生きているって、いくらでも、思い知ればいい。
「じょうだん。もういいよ。ごはん、あっためなおしてちゃんと食べよう」
「いいよ、別に、冷めてもうまいんだから」
「僕があったかくておいしいの食べたいの。甲洋にあったかいごはん食べてもらいたいの。わかった?」
「はい」
「あつあつにされたくなかったら、隣で見張っててよね」
「……はい」
甲洋は、また自分を枠に入れない話をするかもしれない。自分から泣くのは難しいけど、そのたびに怒ろう。怒って、それから、一緒に生きているんだって、いやになるくらい伝えよう。それが終わったら、めいっぱい甘やかしてもらわなきゃ。
「忘れないでね。きみに生きてほしいって思ってるのは僕だけじゃないけど、僕が一番、そう思ってるって」
「……俺がもういいって言っても?」
「もちろん。僕のわがままだから、やめないよ」
「そっか。……ありがと」