2022.05.02
「ストームグラス」
窓際に置かれた道具の中身が望むかたちになればここへ戻ろう、と言われたのは、実質的な別れの挨拶だった。未来を託されたガラスポットは、今日も住人の存在しない砂地を整えている。
あいつの指定した葉脈は、嵐の前兆と言うじゃないか。住み着いて以来見渡す空が大きく崩れることはなかったし、いくらか荒れても結晶が葉脈を象ることもなかった。私物を置いたきり、どこへ出かけたんだろう。
サイフォンを模ったストームグラスは総士からの最後のプレゼントだった。これを置いて以来、ちっとも連絡がつきやしない。遠くへ旅立ったらしいとも聞いたけれど、当人から聞かない限りは信じがたかった。職場へ確認したところで、俺達の関係をどう語れば行き先を明かしてもらえるというんだ。
俺の知らないどこかで元気にやっているなら、構わない。そう、諦めがつくくらいには、我が家からあいつの気配が薄れて久しかった。そのくせ、荷物の処分も、ここを引き払いさえもしないのは、まだいつか戻るかもしれないという未練の証拠かもしれない。
あの日から過ぎたのは、たった一ヶ月のはずなのに。一人でない時間を当たり前に思っていた日はすっかり遠い。
休みの日には、一人の部屋を整え、一人分の食事の支度をし、二人で選んだソファに座り込んで、一人でぼんやりと時を過ごす。そんなことの繰り返しでは、体は休まろうが、心の方はいけなかった。そろそろ、忘れて過ごすべきだ。俺にも遠方転勤の話が出ている。足跡を消してゆけば、二度と会えなくなるけれど――
「甲洋。昼寝でもしているのか」
そう、この、何気ない言葉も、二度と聞けなく……
あ?
「総士?」
「ああ。今帰った。ずいぶんやつれたな」
解錠の音なんか聞こえなかった。足音だってなかった。それほど考え込んでしまっていたのか。それか、俺の見ているのは幻覚かもしれない。とうとう俺はあいつのせいで白昼夢まで見始めたのかと思わされて、腹が立つ。
「忘れ物でも取りに来たのか? 捨ててないけど、まだまとめてないから苦労するぜ」
「どこへ持ち出すと言うんだ。ここが僕の家なのに」
なんなんだこいつ。俺の幻覚だろう?
でもしっかり脚がある。掴む手首にも熱がある。本当に? 本物なのか?
「おまえ、だって、もう戻らないって言わなかったか」
「そう聞こえたか? いや、長期の予定を組まれてな。僕にも都合のいい内容だったから、急いで出たんだが」
人をやつれたって言うけど、総士だって髪が傷んでるし顔色だって良くはない。夢中になってまともな食事をしなかったんだろう。トラベルセットなんか持ち歩かない男だし、施設には合う洗料もないだろうし。相当熱を入れていたんだろうことは、こいつの体が示している。
「……これの模様が変わるまで戻らない、っていうのは?」
「望ましい成果が出るまでは帰らない、と伝えたつもりだった。すまない」
言葉が足りなかったのか、と今更申し訳なく眉を下げる総士は、本当に本物だ。されるがままに触れさせてくれるしおらしさに、湧き上がりかけた怒りはぶつける前にすっかり落ち着いてしまった。隣に座るよう誘って続ける。追求というか、単なる今後の確認だ。
「連絡くらいしろよ。心配するだろ」
「……充電コードを忘れて」
「ここに電話一本入れるくらいはさ」
「……目を離すのが惜しくてな」
このやろう。そっちがその気なら、俺だって願望をぶつけてやるぞ。
「俺、今度九州の方へ転勤するんだけど。向こうにもお前のとこの施設はあるんだろ? 一緒に行けないか、希望してみてくれないか」
「打診してみよう。どこであれ僕のやることは変わらないからな」
結果叶わず離れようが構わない。ここへ帰る気があったこと、事実戻って話してくれていること。それが知れたから構わない。人騒がせな始まりだったけど、なければ「共に行こう」なんか言えなかっただろうし。
「おかえり、総士。次似たような案件で出掛けるなら、ちゃんと行き先と滞在期間くらい言ってくれよ」
「ああ、ただいま。連絡については、善処する」
次も忘れられそうだ。もし何度も続くようなら、いっそ、監視アプリでも入れてやろうかな。
グラスの砂地は、変わりなく穏やかだ。