現パロ
走るたびに見慣れた景色が後ろへ後ろへ消えていく。スポーツテストでだって、こんな全力を出したことはない。
幼い頃、憧れてついて回った男が帰って来たとの噂を耳にして、放課後、大急ぎで坂を駆け上っていた。現在の住まいという、坂道の途中に佇む古屋敷は真っ先に帰宅するべき自宅とは逆方向だ。
彼が引っ越す前はご近所さんの幼馴染だった。前は僕んちから二回曲がったところに住んでいた。家族で暮らしていた家と場所が違うなとか、よく通うならちょっと大変だなとな、余計なことを考えながら逸る心をおさえつけて、ひたすら走る。
早く、早く会いたい。何年ぶりだろう。僕がまだ六つの頃に別れてきりだから、十一年ぶりになるのか。会えたとして、もし、彼が僕を覚えていなくてもいい。でも、覚えていてくれたら、すごく、嬉しい。
確か、両親がいたはずだ。あまり顔を覚えてはいないが、似ていない、と思ったのだけ心に引っ掛かっている。
彼らはどうしているだろう。噂に聞いたのでは、ここいらでは珍しい苗字をかけた家に、一人の美丈夫が荷運びをしていた、との程度だったから、地元に戻るのを機に一人暮らしを始めたのかも。なら、二人っきりだ。もし迎え入れてもらえたら、彼の声だけを聞いていられる。どんな話をしよう。会えなかった頃のこと、いくらでも教えて欲しい。
息が切れ始めた頃、目当てを見つけて、ふと足を止めた。この辺りには珍しい、古びた蔦の絡まった煉瓦造りの家は、錆つきながらなお侵入者を拒む囲いと共に重苦しい空気をまとっている。かろうじて、春日井、と覚えのある家名だけが柔らかく見えた。ここにいる。みさお、とちょっと舌足らずに呼んでくれたあの、人が、ここにいる。
息を整えてから、チャイムを押す。これも古臭い。スピーカーのないタイプだ。一度目では聞こえなかったかもしれないと、二度目を押す前に、重そうに扉が開かれた。
「どちら様? セールスなら、悪いけどお断りで……」
ふわふわの深い茶色。鋭利さの増した輪郭。美しく歳を重ねた男は、間違いなく大好きだったあの人だ。あの頃は確か十七歳だった。今の僕と同じ。とっくに冬だから、今の彼は、二十八歳になるはず。
「甲洋、くん?」
僕をわかるかな。名前を呼んでくれるかな。期待をして、疑うように目を細める男に笑顔を見せる。
「……操?」
覚えていてくれた!
「そう、うん、操。ひさしぶり……」
呼んでもらえてうれしくて、わななくせいで大きな声が出てくれない。今すぐに飛びつきたい。鉄の柵を越えて、石畳を走り抜けて、会いたかったと抱き締めたい。甘えたあの頃はしがみつくのが精一杯だったけど、僕の腕だって伸びたのだ。今ならきっと背中まで腕をまわせる。
柵を掴むのは行儀が悪いから、一歩離れて返事を待つ。迷惑じゃないといいな。名前を呼んでくれたから、少しは期待してもいいのかな。
「ああ……うん。久し振り」
五メートルほど離れた玄関先で、言うのをためらっているような緩慢さで、やっと応えてくれた。声がちょっとかすれてる。寝起きかな。もしかして疲れてるのかな。だったら出直さないとだけど、でも、もう少しくらい。
「ねえ、お邪魔してもいい? 僕、帰って来たって聞いて、甲洋くんと、お話したくって……」
なにから話そう。道中に考えていたものはぜんぶ吹き飛んでしまった。そわそわつま先をおどらせて返事を待つ。
いきなりのお願いだろうし、煩わしく思われるだろうけど、ずっとずっと会いたかった。せめてお手紙を送りたかったのに、引っ越し先もわからないで離れ離れになったせいで、いつか必ず会いに行こうと、夢想し続けた人が数歩の先にいる。我慢なんてできない。なぜだか顔をしかめる甲洋くんは、よく見るとなんだかやつれている。
「いけない? 今忙しいなら、出直すけど……」
遠くでよく見えないが、口の周りにヒゲが生えっぱなしで、服もシワが目立っていて、いつもきっちり制服を着込んでいた甲洋くんらしくない。誰かの面倒を見るのが好きだったけど、自分をおろそかにもしなかったのに。
「手が足りないなら、家のお手伝いくらいなら、僕にも、できるけど……」
こればっかりは断られるだろう、けど。抱きしめること以外にも、小さな頃にはできなかったお手伝いを今なら披露できる。味付けはまだまだだけど、大抵の料理なら作れるし、洗濯も掃除も結構得意だ。いつも、優しくしてくれた甲洋くんを助けたくって、いろんなものを教わった。苦手な野菜もなくした。勉強だってがんばってる。最後のだけはまだまだ敵わないだろうけど、胸を張って会いに来られるくらいには、たくさんのものを積み重ねてきた。
ぜんぶ、甲洋くんの隣に立つためだ。
「……覚えててくれたんだな。十年は経つのに」
「そりゃ……だって、甲洋くんのこと、大好きだったもの」
「もう、来るな。悪いけど、昔馴染みと話したい気分じゃないんだよ」