2022.09.26
「凪砂くんもジュンくんも単独のお仕事でいない。ここにはぼくときみの二人きり。それから、テーブルには持参したキッシュが一台。さて茨、きみのやるべきことは?」
歌い上げるようにというべき調子の矛先をすい、と向けられている。友好的の皮に隠しきらぬ問い掛けの是非はともかくとして、生憎食事に時間を割くつもりはなく、ああそうですね満足なさっているならよろしいですねと話を聞くので十分だ。
らしからぬ本日一番の大荷物、シンプルな箱からはかぐわしい香りが漂っている。塩気の強そうなにおいだ。くつろいでおられるソファは来客向きに誂えたもので、私的な用途は与えていないのだが、お構いなしに堂々脚を組んでおられる。気を遣った事務員の一人が差し上げた紅茶もお眼鏡に叶ったらしく、先程二杯目まで頼んだところで、それが気分を弾ませているらしかった。
「殿下のお食事を妨げないよう、黙っていることでしょうか? キーボードの音は多少耳障りやもしれませんが、そこはご理解頂きたいですね」
大方気に入りの店でジュンくんが買っただの、美味しく食べる姿を堪能しろだの、そんなところだろうが敢えて外す。正答して付き合わされるより、間違いを言って自らご退席していただくほうが時間を無駄にせずに済む。殿下とて、戯れるより寮に帰ってジュンを待つのが有意義なはずだ。
ちらりと伺うと、む、と眉をひそめている。この人が頬を膨らませ首を傾げてかわいらしく拗ねてみせるのはジュンの前だけだった。ジュンが気付いているかは知らないが。
「んもう、どうしてジュンくんもきみもおかしなところで外すのかなっ? 食べ物があるのだから答えはひとつでしょう!」
俺も聞きたい。暇だからってどうして誰も彼もここへ来る。閣下はともかくとして、昨日はジュンもトレーニング帰りに落ち着かないとか言ってそわそわとスケジュール確認という名の雑談をしに足を運んだし。どうせなら揃ってああお互いに暇が空いたのかと出掛けてくれれば良いものの。息抜きの効果は馬鹿にならないものなので、時折するのはもちろん構わない。事前連絡なしで就業中に押しかける、という点を除けば大歓迎なのだが。
「ねえ、黙ってどうしたの。書類の世界に旅立つのは一人の時で十分だよね?」
「失礼、愚考が長引いてしまうのは癖ですから。しかし我らが殿下を退屈にあえがせてしまうとは、不徳の致すところでありますな。改善策を考慮しなければ」
わざとらしくキーを高く鳴らして、フレームを押し上げる。これで去ってくださらないならば、お相手をして差し上げるのが得策だ。
「構わないよ、もう。それより、ここにカトラリーも用意してあるんだけど、わからない?」
「召し上がる支度が整っているなあ、と感想をお伝えする以外にですか?」
「そ。言ってごらん。茨は、この香りをかいで、どう思う?」
「塩気で喉が渇きそうだな、と」
「それも茨の感想でしょう。ぼくが、きみに、求めた行動を答えて欲しいものだけどね。もう、答え合わせが必要?」
「ええ。お教え願えますか」
またわざと外してみても、肩をすくめはするものの機嫌を損ねたわけではないらしい殿下の反応に作戦を切り替えることにした。斜め向かいに座ると、俺の立つのを疑っていない殿下はとっくに中身を持参した皿に開けている。なかなか分厚いし、直径もある。六号ほどだろうか。まったくよく召し上がることで。
呆れていると、キッシュとカトラリーを広げ始められたテーブルに、事務員が二人分のカップをそっと置いた。コーヒーと紅茶、どちらの扱いもそれなりに長けている人なので、来客時にはよく助けられている。
「巴さん、お砂糖もうひとつ足してありますよ」
「ありがとう!」
「副所長、お砂糖とミルクは?」
「どちらも不要ですよ。いつも助かります。ありがとうございます」
「いえいえ。私おすすめの茶葉と豆、導入お願いしますね」
「はは。考えておきますよ」
空のカップを下げ、会釈をして去っていく彼に目礼すると、殿下もひらり手を振って見送るうちに、慣れた手付きで紙皿に切り分けられている。切り口に見えるのは鮭かベーコンかのピンクに、ほうれん草辺りの緑と、大きく見える半透明は玉ねぎだろうか。脂質が気になるところだが、腹には溜まる。ここで好きに食べ散らかして、あとはぜんぶ茨にあげる♪などと言われようものなら困るが。
「それで、明快な答えとは? 差し支えなければお聞かせ願えますか」
「ふふん。それはもちろん、おいしく頂くことだよね!」
料理への対応は確かにそうだけども。見たところ、ひと切れしか取り分けられていない。やはり食べるのを眺めていろということか?
「……殿下だけで? ですか?」
この量を? とは疑うが、ありえない話ではないかもしれない。この人なら。気を取り直そうと、口をつけそこねたカップから酸味のきいた液体を啜る。うまい。
「ええ!? 茨、まさか、ぼくのこと、おいしいものはひとり占めすると思っているの? おなかの空いた茨に見せつけるようにして!?」
ライブ会場よろしくの音圧で話しながら、案外優しく俺の前にフォークを添えたピースを置く。いいです、と突き返す前に、残りにもナイフを入れ始めた。このホールを小さなナイフで崩すのは手間だろうに、その、不便も楽しむように。
「これは茨のぶん! いただきますをしたら、ぼくより先に食べていいよ。低カロリーを意識してもらったからね、安心して食べなさい」
「自分、腹が減ったと申し上げた覚えはありませんが」
「紅茶をくれた彼からお昼を食べていないとも聞いたね。キッシュならばお野菜も摂れるしね、それに、そんなときって誰かと頂くのがいちばんだから」
余計なことを。探した彼は得意げにサムズアップ。お節介が好きな人だ。
しかし、腹を満たす料理にあたたかみは求めていないのだが。このテーブルだって、低くて食事に向いちゃいない。それなのに、満足げに香りを楽しんでおられる。わざわざ食べに出かけるのは億劫なので、ありがたいといえばありがたいが、殿下のお優しさで明日は天候が荒れそうだ。屋内の仕事に専念することにしよう。
「ほら、茨。いただきますは?」
「はあ、どうも。……いただきます」
フォークの先に刺したひと口を噛みしめると、口いっぱいに香りが広がった。ピンクの正体の、ごろごろとした鶏肉も主張している。塩からさよりも出汁らしき風味がきいていて食べやすい。これなら、閣下にもお召し上がりいただけるかも。
「ん〜っ、腕を上げたねジュンくん! 本当はあたためたいところだけど、ここってばオーブンがないんだもの。次は凪砂くんとジュンくんも一緒に、出来たてをいただこうね」
「事務所は食事処ではありませんからね。殿下にご満足いただける紅茶をお出しできる彼の腕でご勘弁を」
それでもまだ、ホールで持ち込まれたキッシュは残りもまだ相当あって、おそらく製作者のジュンに食べさせるにしても、彼は帰宅ギリギリまでスケジュールが詰まっている。無理だ。同じく閣下を呼びつけるわけにはいかない。いくら殿下の好物でも、やはり二人でまるごとは多い。
「……あの、残りを彼にも分けても構いませんか?」
「もうおなかいっぱいらしいよ。奥さんの手作り弁当がボリューム満点なんだって」
「では、手の空いた誰かを呼びませんか。二人では食べきれませんし、腐らせてしまいますよ」
「茨がふた切れ食べたらいいよ。ひと切れぶんじゃなくて、半分でもいいね。きみのために作ってもらったものなんだから、いくらでも食べていいよ」
「ご冗談を。そんなには入りません」
言いつつ、空腹を訴えていた体は正直なもので、噛み締めるごとに思考も満たされていく。うまいな。とはいえひと切れで十分だ。ジュンには悪いが、助っ人を頼まなくては。
誰に声をかけようかスケジュールと照らし合わせていると、殿下がフロア入り口に向かって手を上げる。向こうには、見慣れたオレンジ頭がふたつ。
「ほら、双子たちが来たから、お残しの心配はないね。あの子たち、たくさん食べるんでしょう? 足りなくなったら、追加を頼もうね。次はなにが食べたい? 次は茨が選んでいいよ」
「せっかくですが、今日はもう満腹ですよ。自分の希望は日を改めてお伝えします」
「うん、それでもいいね。ただし、ぼくを基準に探すのじゃなく、茨の食べたいものから選ぶこと。いいね?」
「ええ、心に刻みますとも」
「よろしい。いつでも待っているよ。また、一緒に食事をしようね」
まったくなんの気まぐれやら。殿下の大ボリュームに双子の賑やかな声が混ざるのを眺めながら、残りの欠片にフォークを刺した。