おいしい夢は貴方とともに❖ ❖ ❖ ❖ ❖
気が付くと僕は真っ暗な空間にいた。
寝室で眠っていたはずなのに、辺りは何もかもを飲み込むような闇に包まれていて、自分の手元しか見えない。
きょろきょろと周囲を見回していると、ふと目の前が淡い光に照らされて、そこには誰かが蹲っている。
駆け寄って顔を覗き込む。血の気のすっかり引いた顔を哀しげに歪ませている女性は、あの時死んだはずのジナイーダだった。
『パスト』
彼女は哀しげな表情のまま、立ち上がり僕を見据える。
驚いて尻餅を付いた僕を見つめてくる彼女の隣には、いつのまにか生気のない顔の叔父も立っていて。
二人は口々に僕へと言葉を投げかけてきた。
『パスト、どうして私を殺したの?あなたを信じていたのに』
『やはりお前のような不浄な血が流れる人間は、生き様も不純で汚らわしいものなのだな』
まるで汚いものを見るかのような二人の目と突き刺さる言葉の数々から逃げるように、ぎゅうと目を閉じて耳を塞ぐ。
しばらくして二人の声が止み、恐る恐る目を開けると目の前にはルカが立っていた。
いつも優しい表情で僕を見る彼の目はすっかり冷え切っていて、幻滅しているような表情に冷水を浴びたような感覚になる。
蹲ったままの僕を見下ろしていたルカが静かに口を開いた。
『見損なったよ、パスト。君がそういう人間だとは思わなかった。悪いけど、君の傍にはもういられない』
そう言い切ったルカは踵を返すと暗闇の向こうに歩いて行く。
彼を引き止めたくて駆け寄りたかったのに体は動かなくて、声を上げようとしても喉からは絞り出すような息しか吐き出せない。
霞んで消えていく後ろ姿を、ただ眺める事しかできなかった。
――――――――――
「………っ!」
勢いよくガバリと起き上がる。周りを見渡せばさっきまでいた真っ暗な空間ではなく、見慣れた寝室にふっと息を吐く。
ルカに引き取られて一緒に過ごすようになってから、暫く何事もなく眠れていたのに、久々の悪夢に目覚めた体は少しだけ震えていた。
もう一度眠れる気分にもならず、そのままじっとしているのも何だか嫌だった僕は静かに部屋を出る。
ルカの部屋は隣室だ。とっぷり日も暮れた深夜だったから彼も眠っているだろうと思っていたけれど、部屋の扉は僅かに開いていて、その隙間からは細く光が漏れ出ていた。
その光に吸い寄せられるように近付いた僕は、ルカを驚かさないように静かに部屋の扉を開ける。
キィ、と扉の軋む音に、書き物机に向かっていた彼がくるりと振り返った。
「おや、パスト。どうしたんだい?こんな夜更けに…」
「…あ、その、……」
問いかけられて返事に言い淀む僕を見て何かを察したのか、じっと僕を見て考え込むルカ。ぎゅ、と服の裾を掴んで目を泳がせている僕に彼が声を掛けようとして、
ぐうう…
静かな空間に控え目に響いたのは、僕のお腹の虫の声。
ルカがきょとりと目を丸くする。
「う…ご、ごめんなさ……」
恥ずかしくて俯いてしまった僕の頭を大きな手のひらでくしゃりと撫でられて、ルカは特徴的な犬歯を見せるように片方の口角をクイ、と上げた。
「お兄さんと"いけないこと"しようか」
「おいで」と優しく手を引かれて連れて行かれた先はキッチンだった。
何をするんだろう、と不思議そうにルカを見ているといたずらっぽく笑われて、座って待っていておくれと椅子を引かれる。
僕は素直に従って椅子に着席すると、彼が今から何をするのか観察を始めた。
ボウル・泡だて器・アイロンパン…と、キッチンラックから調理器具を引っ張り出し、次に冷蔵庫からは牛乳や卵・生クリームを取り出していく。
卵をボウルに割り入れてほぐし、牛乳と生クリームを入れて泡だて器でかき混ぜる。そこに砂糖と蜂蜜を同じくらい加えて、手際よくしゃかしゃかと混ぜ合わせた。
そして忙しなく動いていた手を一旦止めて、戸棚から小さな瓶を取り出す。
きゅぽ、と可愛らしい音が鳴り蓋が開けられると、ふわりと漂う甘くて不思議な香り。
「それは何?」
「これかい?バニラオイルだよ」
「バニラオイル…?」
「香り付けに使うものだね。これを少し入れるだけで、料理がもっと美味しいものに変わるのさ」
ルカの手が魔法みたいに手際よく動くのが気になった僕は、気付けば彼の隣に立って手元を覗いていた。
子供みたいに興味津々に見ていたのが少しだけ恥ずかしくなった僕は、誤魔化すように「これって味はするのか?」とルカが持っているバニラオイルの事を聞いた。
「味は……うん、舐めてみるかい?」
「う、うん」
一滴だけバニラオイルを落とした指を差し出されて、おずおずと舐めてみる。ぴり、と舌に走った苦みに思わず顔を歪めてしまう。
「にが…」
「ふふ」
悪戯が成功したような顔で目元を弛ませて、もう片方の手でまた頭を撫でられる。子供扱いしないでほしいと思いながらも、嫌な気持ちにならないのはルカの手だからなのかもしれない。
クリーム色の水面に小さな雨粒のようにぽつぽつと落とされていくバニラオイル。ふわふわ波紋が広がりながら漂う香りは甘くて、まるで夢の中にいるみたいだった。
泡だて器を使ってくるくる混ぜ合わせて、落ちた茶色の輪が薄くなってクリーム色の中へ消えていく。
今度はブレッドケースからバゲットを取り出すと、薄いものと少しだけ分厚いものを数枚切り出していった。
ボウルの中に先に薄い方を漬け込んで、ある程度染み込ませてから別のバットに移す。残ったバゲットのスライスもボウルに全て入れて、中の液を充分に染み込ませる。
じゅわり、とバゲットの表面がクリーム色に変わっていくのを見るのがなんだか楽しい。
ボウルに入れられたままのバゲット達は、そのまま冷蔵庫の中へ。パタリと扉を閉めて、ルカが楽しそうに言った。
「残りは明日焼いて食べよう。今日よりもきっともっと、美味しくなっているはずだからね」
いつのまにかすっかり温かくなっていたアイロンパンにバターをひとかけ落とすと、先程まで甘い香りで満たされていた空間にぶわりとバターの香ばしい匂いが広がった。
バットでひと眠りしていたバゲットをそうっとそこに乗せると、それは小さな泡を立てながらじんわりと焼かれていく。
じゅわじゅわ、ぱちぱち、深夜の小さな演奏会。
隣に立つルカの気配と、アイロンパンから奏でられるその小さな音色が心地よくて、眠れなかったはずなのにうとうとと微睡みそうになってしまう。
そんな僕に気付いたのか、ふ、と柔らかく息を吐いたルカは僕の背中をぽんと叩いて「椅子に座って待っておいで」と優しく声をかけてくれた。
最初に座っていた椅子のところまで戻り、ぼんやりとルカの背中を眺める。
初めて出会った頃よりも、シンプルな出で立ちに見える細い後ろ姿。あの頃は不審者極まりない背格好で、他人なんて興味ないみたいに振る舞っていたけれど。
(案外、面倒見がよくて、優しいんだよな…)
甘くて香ばしい匂いに包まれて、好きな人が傍にいて、ふわふわ、僕なんかが居ていいのかと不安になるくらい、幸せな空間。
ふと先程の"悪夢"を思い出しそうになったところに、ことり、と控え目な音が耳に入って意識が浮上する。
目の前のテーブルに置かれたのは、こんがりときつね色に焼き上がったフレンチトーストだった。
「わ…」
「これはおまけ」
いつのまに作っていたのか、ぽてりと乗せられる真っ白なクリームと、隣に添えられたのは甘酸っぱい木苺の実。
とろとろと上からかけられる黄金色のシロップがとても綺麗で、思わず目を輝かせて見入ってしまった。
「シロップはもっとかけるかい?」
「…あ、う、も、もう大丈夫…僕、2枚も食べていいのか…?」
「いいよ、たくさん食べな。お腹も空いているだろう?」
「あう…」
食欲をそそる美味しそうな香りに、ぐう、とお腹の虫がまた鳴って恥ずかしくなった。
誤魔化すように「いただきます」と小さく言って、用意されたナイフとフォークを手に取る。
カリカリに焼けた表面にナイフを刺し込めば、クリームとシロップが充分に染み込んだ断面が見える。僕はゴクリと唾を飲み込んで、一口大に切り分けたそれを口に運んだ。
香ばしいバターとバニラの香り、ふわりとしたトーストとシロップの甘さが口の中に広がって、小さく目を見開く。
「…おいしい」
「お気に召したようで良かった。さて、私も食べようかな」
思わず溢れた言葉を聞いたルカがふにゃりと表情を弛ませて、フォークを手に取る。
二人でフレンチトーストを美味しく食べて、ルカはコーヒー、僕はホットミルクを飲みながら一息ついた。
「…さて、嫌な夢を見ていたようだけど…今夜はもう眠れそうかい?」
僕の目をまっすぐに見てルカがそう尋ねる。僕が悪夢を見て眠れなかった事なんて、すっかりお見通しだったようだ。
ルカは凄いなぁと思いながら、温かくてほんのり甘いホットミルクを飲み干した。
「あの時の事を思い出してしまって…ジナイーダも、良くしてくれた人達も…ルカも、みんな僕から離れていってしまう夢を見てしまったんだ。彼女…ジナイーダを信じられなかった僕が犯した罪で、どうしたって償えないものだって分かってる…でも、僕の周りの大切な人がまたいなくなるのが怖くて、もう一度眠って目が覚めた時に、本当に誰もいなくなっていたらと思うと…眠れなくなって…」
でも、と言葉を区切って、僕は穏やかな目をするルカを見つめる。
「ルカとこうやって一緒に美味しいおやつを食べて、また明日も食べようって言ってくれたのを聞いて、なんというか…眠れそうな気がしたんだ。単純かもしれないけれど…」
尻すぼみになっていく僕の話を最後まで聞いてくれたルカは、マグカップを持っていた僕の手にそっと触れた。
彼の大きな手はほんのりと温かくて、美味しいおやつでお腹がいっぱいになったのも相まって、またとろとろと微睡んでくる。
「美味しい食事は、いつだって誰かの心を安らげるものだよ。パスト、君の心を少しでも安らげる助けになれたのならよかった。…でも、そうだな、もし君が嫌でなければ、今夜は君の隣で眠ろうかな。傍に君の体温があれば、私も安心して眠れるし」
見つめてくるルカの目も問いかけてくる声も、フレンチトーストみたいにとろけるくらいに甘くて、ふわふわと夢見心地になってきていた僕は、触れられていた手をきゅうと握り返して「うん」と舌っ足らずに答えた。
ふわりと抱き上げられてそのまま寝室に向かい、そうっとベッドに寝かせられた。
隣に寄り添いブランケットを掛けてくれたルカの胸元に顔を埋めて、そのまま深い眠りに落ちる。
甘い香りと暖かな体温に包まれた僕は、あの怖くて嫌な夢を再び見ることはなかった。
おわり
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