彼女は可憐な花だった 彼女は可憐な花だった。いつも私のほうを向いてくれない花だった。
カノンと初めて出会った日を今も覚えている。凛とした立ち姿は、岸壁に咲く一輪の花のようだった。強い眼差し。引き結んだ唇。風に靡く長い髪。そしてその拳から放たれる強烈な衝撃。
私はその日のうちに彼女に恋をした。
そして同時に失恋を知った。彼女の視線の先にいるのは、どうしようもないクズの天才だった。
私はその天才が憎くてたまらなかった。どう見たってそのクズはカノンへ好意を持っているのに、それを本気にはせず、ただのらりくらりと傍に居続けた。修行にだって熱心ではなく、その持って生まれた才能の上に胡座をかいているような奴だった。
私は戦いにおいてカノンにも勝てず、クズにも勝てず、そして師匠にも認めてもらえなかった。
やがてクズが里から出ていった。私はそれを内心では喜んでいたが、カノンは影で涙を溢していた。私はその涙を拭いながら、私はずっとあなたの傍にいると言った。カノンはそれ以上は涙を流さず、頷いてくれたが、それは彼女の優しさのためだった。カノンはクズがいなくても一人で立っていられるし、それは私がいなくても平気だということだった。
それからの時間は私に形だけの幸せを与えてくれた。私はカノンを支えながら里を守っていた。里の長はカノンであり、もしクズが帰ってきても居場所なんてなかった。カノンの周りにはいつもたくさんの里の者がいて、寂しくなんてなかったはずだ。
それでもカノンは日課のように里の外を眺めた。まるで誰かが帰ってくるのを待っているかのように。私はそんな彼女を見るのが嫌いだった。
そしてクズは災いと共に帰ってきた。カノンの寿命があと僅かだとわかったそのすぐ後に。カノンは絶対に寿命のことをクズには言わないでくれと私に釘を刺してきた。私はそれに賛成だった。そして早くクズが去ることを願った。カノンの眠りが静かなものであってほしいと思っていたからだ。
やがて最後の夜がきた。カノンは里の者一人一人に声をかけてから、最後に私の元に来た。私は棺桶に敷き詰める花を選んでいて、彼女が隣に座っても、花弁に汚れがないかを入念に調べていた。
カノンはそんな私の手をそっと押さえた。
「もう充分だよ」
私はカノンの顔が見られなかった。残された時間があと少しであるとわかっていたのに、それを否定したくて彼女を見ることができなかった。
「マトリフ様にも挨拶は済ませたのですか」
「あいつに挨拶なんて」
カノンは鼻で笑ってから、私の肩に頭をもたせた。色の褪せた髪は今もなお美しかった。
「あたしは馬鹿だったね」
「あなたが馬鹿なら、マトリフ様は大馬鹿者です」
「ほんとにそう。だからあたしも大馬鹿者だよ」
その言葉に悲しさはなかった。むしろ満足しているようで私は歯痒かった。やはり彼女が心から愛していたのはあのクズだった。
「……泣かないでおくれ。逝きづらいじゃないか」
歪んだ視界にカノンの指が映る。その手を取って死から逃げたかった。だがこの世界のどこへ逃げたって、彼女を救うことはできない。それが命のさだめであるとわかっていた。
カノンが私の名前を呼んだ。その声音は出会った頃から変わらない。カノンの手が強く私の手を握った。
「本当にずっと傍にいてくれたね」
朝が来ないでほしかった。私は冷たくなった彼女を棺に横たえて花を飾った。私が選んだ花で彼女を送りたかった。でもわかっている。彼女が本当は誰を待っているかを。でもせめて、それまでは私たち二人でいたかった。
***
あたしはこの里が好きだ。この里で生まれ育って、人生の殆どの時間をここで生きてきた。
この里に吹く風は冷たい。訪れる人も、強さを追い求めて辿り着いた奇傑ばかりだ。眼下を流れる雲は下界を遮り、あたりに広がる空ばかりがこの里の風景だった。
あたしはこの里が好きだ。好きだという以外に、もっといい言葉があるように思えるが、どんな風に言おうが突き詰めれば結局は好きだとしか言いようがない。
「この里をよく見ておきなさい、カノン」
お父様は里を見下ろしながらよく言っていた。お父様の片眼にはこの里がどう見えていたのだろうか。あたしはこの里で生まれ育ったから、きっとお父様とは違って見える。この里があたしにとって当たり前で、下界のほうが風変わりだった。
けれどもこの里もすっかり変わってしまった。お父様が率いていた頃は活気があって、強さを追い求める者たちで賑わっていた。けれども私が跡を継いでからは、修行者は少しずつこの里を去っていった。今では残ったごく一部の者たちが、それも生活をここに落ち着けた者たちだけが、細々と日々の生活の隙間に鍛錬を続けている。
大賢者バルゴートはその名前だけになっても偉大な影響力を持ち、たとえ認められて跡を継いだとしても、あたしは世に認められることはなかった。そのことを嘆きも恨みもしない。お父様に及ばないことを、あたしが一番に理解していた。だが不思議と、焦燥に駆られることはなかった。大樹であれ、いずれは朽ちる。それが自然の摂理だ。だからこの里が終わることも、同じように思えていた。
「封印って、どういうことですか」
ずっとあたしのことを支えてくれた娘に里を封印すると伝えたら、泣かれてしまった。そのことに焦りを覚える。どうもあたしはこの娘の涙に弱い。
「これは決めたことなんだよ」
「何故ですか。あなたは立派にみんなを導いているのに」
まるで我が事のように泣くその娘は、悲しんで泣いているわけではなかった。怒っていたのだ。あたしは反対されてもまさか泣かれるとは思っていなかったから、驚いてハンカチすら出せなかった。
「なに泣いてるんだい」
「あなたが泣かせるんです。私はずっとあなたに尽くしていきたかった」
「なにもすぐに封印しようってんじゃないよ。あたしが生きてるうちはこのままだ」
「本当ですか。じゃあずっと先の話なのですね」
それをやんわりと否定したらまた泣かれてしまった。自分の寿命がわかるというのも、また厄介なものだった。
「準備をしていきたいんだよ。突然にこの里をおっぽり出して死にたくない。だから手伝ってくれるかい」
指先で涙を拭ってやれば、その娘は小さく頷いた。あたしはこの娘が慕ってくれる気持ちを知っていたから、その綺麗な気持ちを自分のために利用した。
この里を終わらせる準備は、少しずつ、けれど着実に進んでいった。あたしは里を見下ろしながら、表面上は何も変わらないまま、里の中身が空洞になっていく様子を見ていた。
そんなときに考えてしまうのはマトリフのことだった。もしあたしではなくマトリフが里を継いだなら、こうはならなかったかもしれない。あのクズは本当にどうしようもないが、お父様を超える可能性を持っていた。里の長になったらお父様のように多くの弟子を育てたかもしれない。
だが何度考えてもいつも結論は同じだ。もしマトリフが長になれば、たった一瞬で里を駄目にしただろう。マトリフは一処に閉じ込めると倦む。それをわかっていたからお父様はマトリフを里から出した。きっとそれが正解だったのだ。
お父様は妥協しないひとだった。高すぎる理想と、それを実現する力を持っていた。孤高の天才だと人は言うけれど、ただ強欲なだけだとあたしは思った。お父様は自分が求めたものを全て手にしないと納得しないのだ。そしてあたしはそんなお父様と良く似ていた。
「カノン様」
「……なんだい」
「呪具が出来ました。これでいつでも封印できます」
「よく出来ている。じゃあ、これを使うのも任せるよ」
「やはり考え直していただけませんか。私に里を継がせてください。あなたが守った里を、これからは私が守っていきます」
長い時間をかけて考えたであろう真剣な申し出を断るのは気が咎めたが、それはできない相談だった。
「この里はあたしが終わらせる」
「バルゴート様も、この里が長く続くことを望んでいたと思います」
「お父様の考えなんてあたしは知らないよ」
思いのほか声が冷たい響きになってしまった。けれども、お父様に託されたものは大きすぎて、それは誰であっても持ちきれない。マトリフがいつか帰ってくる気がするが、マトリフにだってあたしの代わりにこの里を任せる気はなかった。お父様は帰ってきたマトリフとあたしが力を合わせて里を導いていくと考えたかもしれないが、それこそありえないことだった。
「……カノン様のお墓ですが」
「墓はいらないよ。私の遺体はこの里と一緒に封印してほしい」
「一緒に?」
「あたしはこの里と一緒に眠りたい」
そのために封印という手段を選んだのだとは言わないでおいた。きっとまた怒られるだろうから。
「あたしの我儘を許しておくれ」
「カノン様」
「ずっと傍にいてくれるんだろう?」
あたしはマトリフのことが好きだった。そしてこうやって慕ってくれるこの娘のことも好きだった。だが何よりもあたしはこの里が好きだった。
だから死んだ後も、誰にもこの里を渡したくなかった。だから封印する。誰もこの里に触れることさえ出来ない。きっとこの強欲はお父様に似たのだろう。
あたしはこの里が好きだ。強さが絶対的な価値を持ち、その強さのためにあらゆるものを投げうって高みを目指す。そして下界を雲で覆い尽くして、空を独り占めにするこの里が、なによりも好きだった。