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    なりひさ

    @Narihisa99

    二次創作の小説倉庫

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    なりひさ

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    ガンマト。ヤクザのガンガさんとどうしようもない男マト。過去からの因縁。

    #ガンマト
    cyprinid

    あの頃は「マトリフさん……ですよね」
     低い声に呼び止められて、マトリフはこのまま逃げてしまおうかと考えた。先ほどから後をつけられていることには気付いていた。盗み見た風体から、どこかの金貸しだと思ったからだ。
     だが走って逃げるには難しい状況だ。ここはオフィス街で人通りが多く、すぐ先には横断歩道があるが信号は赤だ。路地に入って捕まったりしたら何をされるかわからない。
     ここは穏便に済まそうとマトリフは振り返る。そしてその巨躯を見上げた。遠目に見た時から大きいと思ったが、直近で見るとかなりの迫力だ。スキンヘッドに刺青、スーツをきっちりと着込んでいるが、鍛え上げた肉体がはっきりとわかる。
    「人違いだな」
     まさかこんな言葉を信じるとは思わなかったが、大男ははっきりと動揺した。
    「そ……そうでしたか。申し訳ない。知り合いによく似ていて……あ、これはナンパとかではなく」
     急にしどろもどろになった大男に、これは金貸しの取り立てではないと気付く。だがこれほど特徴的な大男なら記憶に残っているはずだった。
    「知り合いねえ。お前さん名前は?」
    「え、あの……ガンガディアと申します」
    「ガンガディア……ってあのボウズか!?」
     マトリフは急に記憶が蘇った。
     今から二十年ほど前、マトリフはある地方に住んでいた。その時に知り合った子供がいる。それがガンガディアだ。まだ小学校にも上がっていなかったはずだ。同じアパートに住んでいたから度々顔を合わせていた。
    「……でっかくなったな」
     マトリフの知っているガンガディアは小さくてまんまるい子供だ。あれから二十年経ったのだから成長しているのは当たり前なのだが、まさかこれほど大きくなっているとは。
    「やはりマトリフさんですよね」
    「まあな」
     あの地方には数年しか住んでおらず、それっきり会うこともなかったが、まさか偶然に出会うとは。就職で上京してきたのだろうか。
    「すげえ偶然だな。じゃあな」
     そう言って立ち去ろうとしたが回り込まれた。目の前に巨躯が立ち塞がる。
    「ところで、借りたものがあると聞いていますが」
    「んん?」
     ガンガディアが差し出してきた名刺の代紋には覚えがあった。
    「利子も含めて一千万円。耳を揃えて返してもらいます」

     ***

    「それって身体で返してもいいのか?」
     涼を求めて入った喫茶店で、注文した飲み物も来ないうちにマトリフは言った。
     ガンガディアは手にしたお冷を途中で止めて、飲まないまま机に置いた。そのわかりやすい動揺に、金貸しなんて向いていないのではないかと思う。
    「返済は現金でお願いします」
     真面目腐った言葉と言い方に、なるほど冗談が通じないあたりは変わっていないのだと思う。あのボロアパートに住んでいた頃の面影は、完全に失われたわけではなかった。
    「ただなあ。オレがお前んとこから借りた額は、そんなに多くなかった気がするんだよな」
     金なら方々から借りたが、こいつの組から借りたのはしれた額だったはずだ。
    「利子です。あとは若頭が……あなたはムカつくから数百万ほど上乗せしておけと」
    「脳筋め。あのときのイカサマをまだ根に持ってやがるのか」
     この借金は元はと言えばとある賭け事に負けたためにできたものだった。はじめは勝っていたマトリフだったが、途中でイカサマを見抜かれて、有り金全部巻き上げられた上に借金まで背負う羽目になった。払う気がないから逃げ回っているうちに、借金の額は膨れ上がっていたらしい。
    「返済計画を一緒に立てましょう。月々の給料と生活費は把握されていますよね」
     ガンガディアは組員というより銀行員のようだった。
    「知るかよそんなもん」
    「では給料明細と請求書などを拝見したい」
    「……それって、オレの家に来たいって意味か?」
     含みを持たせて言えば、ガンガディアは固まった。そこへちょうど飲み物が運ばれてくる。カラカラと氷がグラスを鳴らした。
    「……もし手持ちの現金があるなら少しでもいいから返済に当てて」
    「おおいいぞ。金なら家にあるからよ、取りに来い」
    「わ、私は……」
    「来るのかよ。来ねえのかよ」
     開襟シャツの胸元に指をかける。かいた汗が冷房に当たって冷えてきていた。アイスコーヒーに刺さったストローに口をつける。それを見ているだけのガンガディアの喉が上下するのをマトリフは横目で見た。
    「払っといてくれ」
     マトリフは伝票をガンガディアに押し付けると先に立ち上がった。そしてガンガディアが会計を済ましている間に姿を消して、その街には二度と戻らなかった。

     ***

     それから数年後。
     マトリフはうらぶれたパチンコ屋から出てきた。途端に熱気がまとわりつく。夏がすぐそこまでやってきていた。
     マトリフは喉が乾いていたが、財布は見事に空だった。バス代もないから、このままこの暑い中を歩いて帰るしかない。
     すると急に影が現れた。巨大な壁だ。この暑いのにきっちりとスーツを着込んでいる。
    「おう、久しぶりだな」
     ガンガディアは強面に汗を滲ませていた。このタイミングで来たということは、マトリフがパチンコを打っている間中、ずっと外で見張っていたのだろう。ご苦労なことだ。
    「マトリフさん」
     ガンガディアはそっとマトリフの腰に手を回した。その手つきは柔らかいが、ベルトはしっかりと掴まれている。この手を振り切って逃げるのは無理だ。かといって、側から見れば襲われているようには見えない。
    「あちらに車があります」
     ガンガディアが向けた視線の先に、いかにもなバンが停めてある。車があるなら何も暑いところで待っていなくてもよかっただろうに。
    「抵抗しないでいただきたい。手荒な真似はしたくない」
     ガンガディアの手際は数年前と比べものにならないほど良くなっていた。纏っている雰囲気も随分と様になっている。
    「行きますよ」
    「オレの借金って幾らになってんだ?」
    「お話は車の中でゆっくりしますよ。これから六時間は走りますから」
     そのままマトリフはバンに連れ込まれた。バンにはブルーシートが敷かれており、扉が閉まると同時に拘束された。目隠し猿轡までされてシートの上に転がされる。そしてそのまま車は発車した。
     ガンガディアはマトリフの借金の内訳を事細かに説明をして聞かせた。しかしマトリフは猿轡をされているから一切喋れない。途中どうにも尿意を感じて唸って訴えたが、どうぞそのまましてくださいと冷たく言われた。そのために敷かれたシートだったらしい。今度こそ逃さないという気概が感じられた。
     ようやく車が停車したとき、マトリフは巨大なバッグに入れられた。ガンガディア以外にもう一人いて、そいつが運転していたのだろうが、そいつは失禁しているマトリフについて散々文句を言いながらカバンへと押し込んだ。
     マトリフは何も見えないまま、だが振動や聞こえてくる音から、ここがマンションなのだと思った。エレベーターの浮遊感が長く続いてから、軽快な音がする。かなりの高層らしい。その先も足音がしないから絨毯敷きの廊下なのだろう。
     やがてマトリフは下ろされて、目隠しと猿轡を解かれた。眩しさに目をすがめる。豪奢な室内が目についた。
    「まず風呂に入るといい」
     ガンガディアは上着を脱いでネクタイを緩めていた。室内にはガンガディア以外には誰もいなさそうだ。てっきり組事務所に連れて来られたのかと思ったが、どうも様子が違う。
    「安心したまえ。ここは私のプライベートスペースだ。組の者はいない」
     ガンガディアは置かれたデカンタから琥珀色の酒を注いでいる。二つのグラスに注いだ酒を持ってこちらへ来ると、一つをマトリフに渡した。高い酒の匂いがする。ガンガディアは先に酒を飲み干した。マトリフは自分の失禁のせいで最悪の気分だったが、酒を口に入れた。
     ガンガディアはマトリフからグラスを取ると、勝手にマトリフの服を脱がせていく。時間が経ったせいで酷い匂いになって濡れている服も、躊躇いなく触れて脱がせていった。
    「あの時の言葉を覚えているかね」
     ガンガディアはマトリフの腕を掴んで立たせると、浴室へと押し込んだ。やたらと広くて明るく、さらにガラス張りという趣味の悪い浴室だ。
    「オレの部屋に来いよって言ったことか? だから代わりにお前の部屋に招待してくれたのか」
     マトリフは広い浴室を後退りする。ガンガディアはシャツの袖を捲り上げると、シャワーのコックをひねった。冷たい水がマトリフの頭に降り注ぐ。
    「身体で払えるか、と言ったことだ」
    「おぅ、払えるようになったのかよ。時代はキャッシュレスだからな」
    「本当に減らない口だ」
     シャワーの水はだんだんと暑くなってくる。浴室には湯気が満ちていった。

    ***


     尿意を感じてマトリフはガンガディアのいる方へと顔を向けた。体勢を変えたせいで敷かれたブルーシートがガサゴソと音を立てる。目隠しをしているからガンガディアの姿は見えないし、猿轡のせいではっきりとも喋れなかったが、流石にわかるだろうと思って「小便がしたい」と唸った。
    「ああ、用を足したいのならそのままするといい」
     事も無げに言われてマトリフはブルーシートの意味を知る。だが粗相対策ならまだ望みはあった。このままブルーシートに巻かれて湾にでも沈められるわけでは無さそうだ。そもそも海に沈めるのなら、六時間もかけて連れていく意味はないだろう。
     だがこれで逃げ出すチャンスを一つ失った。車から逃げ出すなら乗降時が一番可能性がある。それを防ぐためにトイレにさえ行かせないのだろう。
     マトリフはしばらく我慢した。まだ尿意は切羽詰まっているわけではない。目的地にさえ着けばトイレくらいには連れていくだろう。
     だが意識しないでいようとするほど、尿意は差し迫ってきた。それでも我慢を続けると下っ腹が痛み出してくる。
     そのときガタンと車が揺れた。ちょっとした段差にタイヤが乗ったらしい。
    「んんッ」
     揺れたときの衝撃で少し出た。その開放感に理性が負ける。マトリフは最後の抵抗のようにできるだけ身を丸めて放尿した。股間に温かいものが広がっていく。張り詰めていた膀胱が楽になっていくのは快感だった。ずっと我慢していたせいで尿はなかなか止まらない。ズボンの下の方まで濡れていき、隠しきれない匂いが立ち込めていた。
     ガンガディアは何も言わなかった。たとえ見えなくても匂いでわからないはずがない。それともこのように連れ去ることは日常茶飯で、放尿程度ならば何とも思わないのかもしれない。
     だがマトリフの矜持には大きなひびが入った。情けなさを感じるが、そう感じていることをガンガディアに知られることの方が屈辱だった。

     ***

     二十数年前。その頃マトリフはとある地方のアパートに住んでいた。どこにでもあるようなボロアパートで、階段は錆びていたし部屋の壁は薄い。住んでいるのはマトリフを含めて安い家賃しか払えない者たちで、どことなく荒んだ雰囲気を漂わせていた。
     それでも平日の昼間からブラブラしていたのは定職についていないマトリフと、まだ小学校にあがっていなかったガンガディアくらいだった。二人はよくアパートの小さな庭の、ちょうど日陰になる場所に二人で並んで腰掛けていた。
    「もう一回やって」
     ガンガディアに請われてマトリフは手の中の硬貨を弾く。回転しながら宙に舞い、落ちてきたそれをマトリフは右手で捕まえた。それをはっきりとガンガディアに見せてから、両拳を並べる。
    「どっちだ」
     ガンガディアは右拳を指差した。マトリフは勿体ぶって拳を揺らしてから、右手を開いて見せる。そこに硬貨はない。そして開いた左手に硬貨があるのを見てガンガディアは目は見開いた。悔しそうに頬が膨む。元々肉付きがいいのにさらに膨らませるものだから、その丸々とした頬にマトリフはつい微笑ましくなる。
    「わからないよ。マトリフは右手で取ったのに。左手にあるなんておかしい」
     ガンガディアはぷりぷりと怒っているように見えるが、一生懸命に硬貨の移動について考えていた。これはよくある手品で、種さえわかれば簡単なのだが、ガンガディアはまだ手品に種があることさえ知らなかった。
    「これは魔法っていうんだよ」
     マトリフは手の中の硬貨をガンガディアの手に握らせてやる。その硬貨があれば弁当が買えるからだ。
    「魔法なんてないよ。そういう子供だましはボク好きじゃない」
    「そうかよ。煙草吸うからあっち行け」
     マトリフは煙草を咥えて火をつける。アパートの室内では煙草が禁止されていた。誰かがぼやを出したことがあるらしい。マトリフがガンガディアに出会ったのも、こうして外で煙草を吸いに出たときだ。
     あっちに行けと言ってもガンガディアはマトリフの隣から離れなかった。マトリフの真似をして硬貨を握っているが、ガンガディアに手には少し大きかった。
    「早く行かねえと売り切れるぞ」
     このアパートのそばにある弁当屋ならば、この時間でも一番安い弁当が残っている。それならばその硬貨で二つ買えるはずだ。
     しかしガンガディアは首を横に振った。
    「今日は夕方に帰ってくるかもしれない」
     ガンガディアの家の事情などマトリフは知らなかった。だが数回会っただけでも、どうやらガンガディアの親は一人で、日中も夜も殆ど家を空けており、ガンガディアは一人で腹を空かせているということはわかった。
     マトリフがガンガディアに小銭をやっているのは善意ではない。野良猫に煮干しをやるのと変わらない気まぐれであった。

     ***

    「これがあなたの総負債額だ」
     硝子の机に並べられた様々な書類の中で、素っ気ない一枚の紙には、一億円と印字されてあった。
     マトリフ。総負債額一億円。そんな馬鹿なと、マトリフは湯上がりのほかほかした身体で思った。金持ちのシャンプーはいい匂いがする。ジャグジーも気持ちが良かった。
    「さすがに一億は盛り過ぎだろ」
     六時間に及ぶドライブ中に借金の内訳を長々と聞かされたと思ったが、まさか一億円分もあったとは。だが数年前は一千万だったはずだ。十一でも一億にはなるまい。
    「あなたが方々から借りていたのを、うちでまとめておいた。そのほうがあなたも返済が楽だと思ったのでね」
    「お前も風呂入ってこいよ。小便臭えんだよ」
     マトリフはわざと話を逸らすが、ガンガディアは怒りを見せなかった。代わりに書類の束をマトリフの前に置く。
    「これが一億の返済計画だ。現在あなたは無職のようなので仕事は私が用意した。あなたにはこの部屋で雑事をして貰う」
    「雑事ねえ」
     マトリフがニヤニヤとガンガディアを見る。ガンガディアは僅かに視線を厳しくした。
    「雑事とは家事のことだ。炊事洗濯など」
    「メイドかよ。そういうのが好みか?」
    「ただの使用人だ。あなたの生活費を差し引いて返済期間は五十年だ」
    「五十年ってお前……オレはいくつまで生きりゃいいんだよ」
     だいたい百かと思いながらも、そこまで生きる予定もなかった。マトリフの乗り気の無さにガンガディアは溜息をついた。
    「内臓を売るのとどちらがいいのかね」
    「内臓だな」
    「あなたの内臓にそれほどの価値はない」
     ぴしゃりと言われてマトリフは口を曲げる。
    「オレを飼い殺す気かよ」
    「それほどの借金を作ったのはあなただ。死ぬまで働きたまえ」
    「嫌だね。やってられるかよ」
     マトリフは投げやりに言ってだらしなく背もたれに身体を預けた。
     するとガンガディアがゆっくりと立ち上がった。
    「本当に身体で払いたいのかね」
     ガンガディアはマトリフの目の前までくると、財布から数枚の札を出した。それをマトリフの手に握らせる。まっさらな札がマトリフの手の中で皺をつくった。
    「内臓に価値はねぇのに、ケツ穴には価値があるのか」
     マトリフは握らされた札の枚数を、一枚一枚指で弾きながら数えた。
    「お前っていつも五万で女抱いてんのかよ」
     ガンガディアの額に青筋が浮かぶのが見えた。やはり情欲がこいつを怒らせるポイントだと思いながら、マトリフは躊躇いなく踏み抜いた。
    「それともオレに似た男を抱いてるのか?」
     ガンガディアは両手を机に叩きつけた。大きな音がして、書類は散らばる。唸るように歯を食い縛るガンガディアを見て、まだ足りないかとマトリフは思った。手の札をガンガディアに投げつける。
    「抱きたいならしみったれた金なんてよこさずに突っ込めばいいだろ」
     しかしガンガディアは逆上しなかった。そのまま散らばった書類を拾い集めると部屋から出ていってしまった。
     しんと静まった部屋でマトリフは頭を掻く。ガンガディアが逆上すれば逃げ出す隙もできるかと思ったが、そう簡単にはいかないらしい。
     ガンガディアが殴りつけた硝子机を見る。分厚い硝子に大きなひびが入っていた。そのひびのあたりに血が付着している。
    「ガンガディア」
     マトリフは呼びながら先ほどガンガディアが出ていった方へと向かう。ドアを開ければ、暗い部屋にガンガディアが立っていた。
    「おい、手見せろ」
     マトリフが言ってもガンガディアは返事もしなければ振り向きもしなかった。どうしても放っておけない気がして、マトリフはガンガディアの手首を掴んで手を見る。
    「ったく、怪我してんじゃねえか。来い」
     手を掴んで引っ張ると、ガンガディアはあっさりついてきた。傷口を洗わせてからソファに座らせて、救急箱の場所を聞き出す。手に刺さった細かな硝子片をピンセットで取って傷口の様子を見たが、これくらいの傷なら縫わなくても平気だろう。マトリフは大きめの絆創膏を傷口へと貼った。
    「まあこんなもんだろ」
     そういえばまだ子供だったころのガンガディアに、似たように絆創膏を貼ってやったことがあった。あのときガンガディアは大泣きをしていた。その理由をはっきりと思い出せない。
    「っと、おい」
     急にガンガディアが抱きついてきた。その衝撃にマトリフはよろめく。腕の強さや、身体に触れる逞しい筋肉に、やはりあの頃のマトリフが知るガンガディアではないのだと思う。
     ガンガディアはなにも言わなかった。この大きなガンガディアが、泣きじゃくる子供にように思えて、マトリフはその背をさすった。

     ***

    「お前って出勤何時なんだよ」
     マトリフはガンガディアの寝室を開けて問う。そもそも、極道に出勤という言葉は当てはならない気もする。
     ガンガディアはベッドの上で下着一枚で寝ていた。起きる様子がないので、マトリフは部屋の中まで入ると、ガンガディアの尻を叩いた。
    「起きねえのか。飯作ったぞ」
     尻も筋肉だらけだと思いながら、マトリフはガンガディアの尻を叩き続けた。やがて根負けしたようにガンガディアが起きる。
    「お前らって夜行性なのか?」
     ガンガディアは目を閉じたまま顔を歪めた。
    「……朝は起こさなくて構わない。朝食もいらない」
    「オレの作った朝飯が食えねえってのか」
     そのまま寝ようとするガンガディアをマトリフは叩き起こしてキッチンへと連れて行く。机はガンガディアが叩き割ったので、朝食はカウンターに並べてあった。
    「冷蔵庫のもの勝手に使ったぞ」
     白米と味噌汁。焼き魚に厚焼き卵。菜葉のお浸し。並べてあったそれらを無視してガンガディアはコーヒーが入ったマグカップを手に取った。
    「それオレのコーヒー」
    「いただく」
    「飯を食えよ」
    「朝食はいらない」
     そう言ってコーヒーを持ったまま寝室へと戻っていった。マトリフは厚焼き卵を手で掴むと口へと放り込む。
    「お前って卵焼きは甘い派だろ」
     ガンガディアの返事はない。マトリフには甘過ぎる卵焼きを咀嚼する。子供の頃は厚焼き卵を喜んで食べていたから作ってやったのに。
     昼前になってようやく起きてきたガンガディアは割れた机を見て後悔するような顔をした。そのままどこかへ電話をかけて手短に要件を伝えている。代わりの机でも注文しているのだろうか。そのまま部屋に戻ったかと思えばスーツに着替えて出てきた。
    「行ってくる」
    「おう、しっかり取り立ててこいよ」
     玄関までついていくと、ガンガディアは警戒したようにマトリフを見た。
    「この玄関の先にはもう一枚の扉があり、そこは暗証番号がなければ開かない。その先のエレベーターもだ」
    「逃げねえって」
     やはり見抜かれていたかとマトリフは肩をすくめる。ガンガディアはさらに天井を指差した。
    「全部屋にある監視カメラは私がいつでも映像をチェックできるようになっている」
    「じゃあどこでマスかけばいいんだよ」
    「大人しくしていることだ。それがあなたのためになる」
    「一人じゃ寂しいじゃねえか。お前のオカズの隠し場所を教えろよ」
    「電子書籍派でね」
    「風情がねえな」
     マトリフはつまらないと溜息をつくと、ガンガディアを手招きした。
    「なにかね」
    「行ってきますのキスは?」
    「それはあなたの業務に含まれていない」
    「いらねえの?」
     するとガンガディアは少し考えてから身を屈めた。やっと届く位置なった顔に手を添えてから、マトリフはゆっくりとガンガディアに顔を寄せる。一度頬に向かった唇は途中で止まり、滑るように唇へと重なった。ガンガディアの肉厚な唇をマトリフの舌先が舐める。途端にガンガディアの手がマトリフの腰を掴んだ。
    「ストップ。出勤だろご主人様」
     マトリフはガンガディアの頬をペチペチと叩く。獰猛な目をしたガンガディアはゆっくりとマトリフの身体から手を離した。
     ガンガディアはそのまま何も言わずに出ていった。その扉が閉まってから、マトリフは腰をさする。先ほどガンガディアに掴まれた場所が熱い。
    「痛ってぇ」

     ***

     どこからか聞こえる声で目が覚めた。マトリフは薄い布団の上で寝返りをうつ。
     意識がはっきりとしていくと、聞こえてきた声が同じアパートに住む住人の怒鳴り声だと気付いた。薄い壁は昼夜問わずに騒音を届けてくる。時計を見れば真夜中だった。
     怒鳴り声はそれから暫く途絶えなかった。目が冴えてしまったマトリフは煙草を持って外へと出ようとする。すると玄関扉を開けた先に、ガンガディアがいた。
    「……あれ、お前んちか?」
     玄関を開けたことで怒鳴り声はよりはっきりと聞こえた。マトリフの部屋の隣の隣。怒鳴り声が聞こえてくるその部屋がガンガディアの家だった。
     ガンガディアは何も言わなかった。膝を抱えて座り込んでいる。よく見ればガンガディアは泣いていた。
    「来いよ」
     部屋にガンガディアを入れて電気をつけた。古い蛍光灯が部屋を白っぽく照らす。するとガンガディアの姿がはっきりと見えてマトリフはギョッとした。その腕から血が流れていた。
     マトリフはハンガーにぶら下げてあったタオルを取るとガンガディアの腕を押さえた。血を拭き取って傷口を見る。ガンガディアはタオルについた血を見て驚いたように声を上げた。
    「ボク死ぬの」
    「馬鹿言うな。これくらいで死にゃしねえよ」
     何かで切ったような傷口だった。それほど深くはない。しかしガンガディアはきせきを切ったように声を上げて泣きはじめた。
    「血が無くなったら死んじゃうんだよ。マトリフは知らないの!?」
    「おう、よく知ってるじゃねえか。だがそういう時のために輸血がある」
    「嘘だよ。ちゃんと知らないくせに!」
    「おいこら。オレはこう見えて医者だぞ」
    「嘘だね。マトリフが仕事に行ってないの知ってる」
    「うるせえな。それでも免許は持ってんだよ」
     マトリフはタオルをガンガディアに持たせると、どこかにあった救急箱を探した。タオルで押さえていたから出血は止まっていたから、テープで傷口を塞いでやる。
    「これで大丈夫だが、傷口がくっつくまでは触るんじゃねえぞ」
    「本当に大丈夫なの。ボクは死なない?」
    「これくらいで死んでたまるかよ」
    「ボクの血は珍しいから、誰からも分けてもらえないって言ってた。血がないと死んじゃうんだって」
    「血液型のことか?」
     ガンガディアはこくりと頷いた。ガンガディアは自分がA型のRHマイナスなのだと言った。それは数百人に一人の確率だ。
    「心配すんな。お前に合う血液だってちゃんと保管されてる。いざってときはそれを使えばいいんだよ」
    「たまたま全部使って無くなってたら? 誰もいないとこで怪我したら?」
    「そんなレアケースまで心配するなよ」
     また泣きそうになるガンガディアの頭をマトリフは乱暴にかき混ぜた。
    「そんときはオレのを分けてやるよ。オレもお前と同じ希少種なんでね」
    「本当?」
     マトリフは財布から医師資格証と血液型カードを出してガンガディアに見せた。ガンガディアはそれを見て目を輝かせる。
    「じゃあ、もしマトリフに血が必要になったらボクが助けてあげる」
    「お前みたいな小せえのから血は貰えねえよ」
    「じゃあ大きくなるから」
     ガンガディアの真剣な瞳を小馬鹿にできなくなる。切実さを滲ませた温い手がマトリフの腕に触れた。
    「ボクが大きくなったら、マトリフを守ってあげる。助けてもらった恩はカラダで返すよ」
     途端にマトリフは吹き出した。一方ガンガディアはマトリフが笑う理由がわからずにきょとんとする。
    「ガキのくせにどこでそんな言葉を覚えたんだよ」
     言ってからマトリフは、これは追求すべきではないと思い直す。こんな子供が覚えるのなら近しい人間が普段から口にしていた言葉なのだろう。
    「返さなくていいんだよ。忘れろ」
     それから数日後、マトリフはこの街を去った。

     ***

     マトリフがガンガディアの部屋に軟禁されてから平穏な数日が過ぎていった。
     ガンガディアはマトリフに家事炊事を言いつけたが、最初の朝食以外にマトリフは何もしなかった。ガンガディアは家で食事はとらない。帰ってくる時間も定まっておらず、そんな生活の中でガンガディアとマトリフが会うのは僅かな時間だった。
    「なあ、いつになったら新しい机がくるんだよ」
     マトリフは不満そうに言う。硝子の机は初日にガンガディアが叩き割ったままだった。
     ガンガディアは警戒するようにマトリフを見る。本当は新しい机が届いていることをマトリフは知っていた。玄関の二重扉の向こうに置かれているのだ。だが搬入するには一時的とはいえ二重扉が開放される。マトリフは逃げ出すためにその隙を狙っていた。
    「いつまでも机がねえと不便だろ」
    「あなたの考えそうな事はわかっている」
    「騎乗位が好きだって事とか?」
     ガンガディアは一瞬言葉に詰まってから、マトリフを鍵のついた部屋に放り込んだ。そして次にそに部屋の鍵が開いたときには、新しい机は設置されていた。
    「なんだよ」
    「やはり逃げ出そうとしていたのかね」
    「机の上に花の一つもねえのかよ」
     翌日、ガンガディアは花を買ってきて新しい机の上に飾った。しかしマトリフはその花をろくに見ずにガンガディアを部屋に連れ込んだ。
    「お前って休みの日とかねえの?」
     マトリフはガンガディアのスーツを脱がせて床に放った。
    「疲れているんだ」
     マトリフは構わずガンガディアの前に立つ。マトリフは大きめのシャツと下着しか身につけていなかった。ガンガディアの視線の動きが興味と葛藤を繰り返している。
    「退屈なんだよ」
     マトリフはガンガディアの膝に腰掛けた。そのままガンガディアの上半身を押してベッドに倒す。
    「退いてくれないか」
     ガンガディアはマトリフから目を逸せて言う。マトリフはガンガディアの腹の上まで移動してニヤニヤと笑った。
    「お前ってどういうのが好みなんだ?」
     マトリフはガンガディアの部屋をくまなく探したが、本当にオカズを見つけられなかった。置いてあるパソコンもロックを解除して閲覧履歴も見たが、それらしいものは何もなかった。
     マトリフはガンガディアのシャツのボタンを上から順に外していく。ガンガディアはその手を掴んで止めるとマトリフに尋ねた。
    「いくら欲しい」
    「金はいらねえって言ったろ。ただの暇つぶしだ」
     露わになったガンガディアの肌にマトリフは舌を這わす。盛り上がる筋肉に愛しむように口付ければ、ガンガディアの身体は面白いほどに反応した。
     だがいざ身体を割り開かれるとマトリフは痛みに泣き叫んだ。ガンガディアは挿入してからマトリフが後ろを使うのが初めてだと気付いたが、行為は止めなかった。むしろその初めてを自分が奪ったのだという興奮がガンガディアを支配した。ガンガディアは長年の思いをぶつけるために長い時間をかけた。マトリフは息も絶え絶えになり、意識も朦朧としたために、自分が何を口走ったかも思い出せなかった。
     その日からガンガディアはマトリフを抱くようになった。回数を重ねるごとにマトリフの身体もやがて行為に慣れていった。それでもその激しさに、抱かれた後のマトリフは暫く動けなかった。
     ある日、ガンガディアは泥のように眠るマトリフをベッドに残したまま部屋を出て、玄関の二重扉の鍵をかけ忘れた。油断したのはガンガディアだが、そう仕向けたのはマトリフだった。ガンガディアは最初こそマトリフの逃亡を十分に警戒して、身体の繋がりを得てもその警戒は緩めなかったが、いつしかその身体の繋がりを愛情だと誤認した。そうさせるほどマトリフはガンガディアへ心も身体も開け渡して見せたからだ。
     マトリフはガンガディアが鍵をかけ忘れたことを見逃さなかった。ガンガディアが家に帰ったとき、部屋にマトリフの姿はなかった。
     
     ***

     マトリフがガンガディアの部屋から逃げ出してから三日が経つ。その短い自由をマトリフは無為に過ごした。手元にあるのはいつぞやガンガディアに渡された数万円で、それは一瞬のうちにパチンコで消えた。
     マトリフは着の身着の儘、昔の知り合いの元を訪ねた。だがその知り合いは不在で、仕方なく近くで時間を潰そうとしたところで、アフロヘアーの男に捕まった。
     単純な暴力を受けて車に放り込まれた。腕だけをガムテープで拘束される。車は以前のようにバンではなくセダンで、アフロ男一人のようだ。計画的にマトリフを見張っていたのではなく、偶然に見つけて襲ってきたらしい。
     ガンガディアの元に連れ戻されるのかと思っていると、先ほどのアフロヘアーの男が電話で喋る声が聞こえた。
    「え、もういらない?」
     マトリフは肩口で鼻血を拭う。アフロヘアーの声に聞き覚えがあると思ったが、前に拉致された時に運転手をしていた男だと気付く。ガンガディアと同じ組の者だろう。
    「じゃあコイツどうすんのさ」
     アフロヘアーが振り返る。
    「あんたが執着してたからこっちは気を利かせて捕まえてやったんですよ。お礼の一つくらい……っておいガンガディア!」
     アフロヘアーは文句を言いながらスマートフォンを置いた。電話の相手はガンガディアだったらしい。アフロヘアーは深い溜息をつくと車を降りてきて、マトリフがいる後部座席のドアを開けた。
    「降りろ」
     従うのが癪なので無視していると脚を掴まれて引きずり下ろされた。アスファルトに尻を打ちつける。アフロヘアーはマトリフを蹴って遠ざけようとした。
    「はい、おつかれー。さっさと失せろ」
    「オレの借金どうなったんだよ」
     散々殴っておいて失せろとは何事だ。せめてガムテープを外しやがれとマトリフは怒鳴る。するとアフロ男はマトリフを煽るような笑みを浮かべた。
    「ガンガディアがさ〜、あんたのことはいらないんだって。もう飽きたってことでしょ」
     アフロヘアーはそれだけ言うと車に乗り込んで走り去った。マトリフは一人残される。これは何かの間違いだろう。ガンガディアが諦めるはずがない。マトリフは憤るが、それをぶつける相手がいなかった。
    「あれ、兄者?」
     駆け寄ってきたまぞっほに助け起こされる。そのまま家で手当をしてもらったが、その間もマトリフはいじけた気持ちになって憮然としていた。ガンガディアの突然の無関心に気持ちがささくれ立つ。
    「急に連絡が取れなくなったから心配しとったんだよ」
     まぞっほが気遣わしげに言う。まぞっほは学生の時の後輩で、マトリフが医者を辞めて落ちぶれたことも、その原因になった出来事も知っていた。マトリフが大学の恩師とも揉めて居づらくなりこの土地を去った後もまぞっほとはずっと連絡を取り合っていた。
    「ヤクザに攫われたって聞いたけど」
    「なんで知ってんだよ」
     これ以上聞いてくれるなと思いながら、マトリフはガンガディアのことを考えずにはいられなかった。
     最初はただの気まぐれだったはずだ。自分よりも哀れな存在に手を貸して、情けない自分を慰めていた。だがガンガディアの気持ちがこちらに向いてくることに、いつしか喜びを感じていた。ガンガディアから逃げ続けたのは、追われたかったからだ。それほどの価値が自分にないと知りながら、追われることで必要とされる錯覚に酔っていたかった。だがそのせいで遂に見捨てられた。
    「迷惑はかけねえよ。金貸してくれ」
    「バルゴート教授が兄者が来たら教えろって」
    「絶対に言うんじゃねえぞ」
     まぞっほから借りた金をポケットに捩じ込んでマトリフは部屋を出た。
     そのまま引き寄せられるようにガンガディアの住むマンションのほうへ歩くが、このまま会いに行くのは愚かだと思い直して飲み屋へ入った。行くあてもなく何時間も酔えもしない安い酒を舐めていると、備え付けのテレビが流すニュースに目が止まった。この近くで発砲事件があったという。隣に座った見知らぬ男が「物騒だな」と独り言を言った。
     マトリフの手元でグラスが倒れた。ニュースでは防犯カメラの荒い映像が流れたが、そこに映っているのがガンガディアに見えたからだ。
     マトリフは自分の心臓が騒ぎだすのを聞いていた。ニュースの音声が耳に入ってこない。暴力団の抗争事件というテロップが出ており、監視カメラの映像はどこかクラブの店内を映していた。そこに映る後ろ姿がガンガディアに見える。その背後に誰かが近付いた。その次の瞬間、ガンガディアが倒れる。店内が騒然となり、ガンガディアは側にいた誰かに支えられたところで映像は切れた。犯人はまだ見つかっていないというキャスターの声が聞こえる。
     マトリフは店を出た。脚をもつれさせながら走る。あらゆる感覚が麻痺したなかで、ガンガディアのことだけを考え続けた。

     ***

     ガンガディアのマンションのエントランスでアフロを見つけた。ロックを解除して入ろうとしていたので身体を滑り込ませる。
    「ガンガディアは!?」
     アフロは驚いた様子もなく嫌そうに顔を歪めた。
    「なんだよ、今さら何の用」
    「あいつはどこにいるんだ」
    「なに、ニュース見たの。良かったじゃん。逃げ出すほどガンガディアのこと嫌いだったんでしょ」
    「それよりガンガディアはどうなった。どこの病院に」
    「あんたさ、ボクたちみたいなのが撃たれて病院行くと思ってんの」
     アフロは言いながらもエレベーターに向かった。マトリフも乗り込む。アフロは何も言わずにエレベーターのボタンを押した。そこはガンガディアの部屋がある階だ。逃げ出す時に見たが、ワンフロアを丸ごと所有しているらしく、暗証番号がなければエレベーターはその階へ行けない。
    「あんた、医者なんだって」
     エレベーターが上昇していく。その動きが遅いように感じて気持ちが焦れた。
    「元医者だ」
    「だったらあいつのこと助ける気で来たんでしょ」
     アフロは持っていたバックをマトリフに押し付けた。中を見れば外傷の治療に使えそうなものが詰まっている。
    「当たり前だろ」
     エレベーターが止まった。扉が開く。マトリフは駆け出した。
     道標のような血痕を辿れば、玄関の二重扉が開いているのが見えた。中からは緊迫した声が聞こえてくる。部屋の中に駆け込めば、ソファの上にガンガディアが横たわっていた。その周りを若い連中が囲んでいる。血を拭ったであろうタオルが散乱していた。
    「どけ」
     マトリフはそいつらを押し退けてガンガディアを見た。若い連中はマトリフに威嚇のような声をあげる。ガンガディアは血の気の失せた顔で突然現れたマトリフを見た。
    「マトリフ」
     出血は脇腹からだった。血に染まったシャツは傷口のあたりで裂かれている。圧迫止血はしていたようで、マトリフは押さえてあったタオルをのけて傷口を見た。この位置なら内臓は無事だろう。
    「マトリフ」
    「喋る元気はあるみたいだな」
     するとガンガディアがマトリフの腕を掴んだ。痛みを感じるほどの力で握られる。ガンガディアは鬼気迫る表情をしていた。
    「おいこら、脈を取るから離せ」
    「離さない」
     ガンガディアは近くにいた若い者に扉を閉めろと言った。起きあがろうとするガンガディアをマトリフは慌てて押さえる。
    「大人しくしてろ」
    「もう逃さない」
    「お前それどころじゃねえだろ!」
     利き腕を取られて身動きが取れない。マトリフは若い連中にガンガディアを押さえつけるように言うが、むしろマトリフが囲まれた。ガンガディアに忠実な若い連中はマトリフを羽交締めにする。
    「揃いも揃って阿呆か。こいつが死んでもいいのか!?」
     おそらく内臓は無事だが早く傷口を塞がねば失血死する。
    「治療をさせろ!」
    「鍵のついた部屋に連れていくんだ」
     ガンガディアは痛みを堪えながら部屋を指差す。マトリフは羽交締めにされたまま引き摺られた。暴れても抜け出せない。ガンガディアは呻きながら傷口を押さえていた。動いたせいで出血が酷くなっている。流れた血が床に血溜まりを作っていた。
    「わかった。もう逃げねえから。このままじゃお前が死んじまう!」
     ガンガディアがマトリフを見た。だがそこにあるのは死にかけの男の眼ではない。獰猛な捕食者の眼だ。途端にマトリフは自分が罠にかかったのだと知る。ガンガディアは自分自身の身体を餌にしてマトリフをここまで呼び寄せたのだ。


     ***

     マトリフは眠るガンガディアを見つめた。日は沈んだが部屋の明かりは眩しいほどについている。少しでも異変を見逃してはならないと思い、マトリフはガンガディアを見続けた。
     ガンガディアは寝室に運び込んで傷口を縫ったが、処置が終わると同時に意識を失った。マトリフは周りにいた連中にあれこれと指示を出しながらガンガディアの経過を見ている。あのアフロや若い連中が容体を口喧しく尋ねてくるので部屋から追い出した。ガンガディアが目覚めるまでは帰る気はなさそうで、リビングを占拠している。
     マトリフはガンガディアの額に手を伸ばした。大した機器もないままの処置だから、急変しないとも言えない。だが発熱はあるものの顔色は良くなってきていた。
     するとガンガディアが目を開けた。視点が定まらないように天井を見ている。
    「気分はどうだ」
     ガンガディアは目を瞬いてからこちらを見た。何か言いたそうに口を動かしている。マトリフはガンガディアのほうへ顔を寄せた。
    「何だって?」
     するとガンガディアの手がマトリフの腕を掴んだ。さすがに弱々しい力だったのでマトリフは罪悪感が募る。こんな馬鹿なことをするまで追い込んだ自覚はあった。
    「安心しろ。逃げられねえから」
     マトリフは自分の腕とガンガディアの腕を繋ぐ管を見せた。その管には赤い血が流れている。ガンガディアは出血は多かったのでマトリフの血を直接輸血していた。
     ガンガディアは驚いたようにマトリフを見た。まるで怯えているように顔を強張らせている。
    「駄目だ。これを抜いてくれ」
    「安心しろ。お前とオレは同じ血液型だって言ったろ」
     この輸血をする前にガンガディアの舎弟たちに尋ねたが、やはりガンガディアの血液型はマトリフと同じであった。
    「どのくらい血を抜いたんだ」
    「さあな。直接繋いでるからわからねえ」
     ガンガディアは管を掴むと引き抜こうとした。マトリフはその手を止める。普段なら絶対にガンガディアの力には敵わないが、今のガンガディアはマトリフでも止められるほどに弱っていた。
    「ほれみろ。まだ血が足りてねえ証拠だ」
    「あなたの血液が足りなくなる。私はもう充分だ」
    「素人の意見なんて聞いてねえよ」
     ガンガディアをここまで追い詰めたツケを払わねばならない。それがこんな命では足りないだろう。不足分は価値のない内臓を売ることで補ってもらうしかない。
    「やめてくれ」
     ガンガディアの懇願をマトリフは聞き流す。ガンガディアもマトリフの死は望んではいないだろう。だが命をくれてやれば、ガンガディアは永遠にマトリフのものだ。決して忘れもせず、その命の存在にマトリフを感じずにはいられない。二度と解けない鎖でガンガディアを縛りつけることができる。
    「悪いな。お前のことちゃんと愛してやれなくて」
     守ってやることも、慈しむこともできなかった。ただいたずらにガンガディアの人生を狂わせた。これほどまで必死に追いかけられることでようやく満たされている。
     ガンガディアは身体を起こした。そのままマトリフへと身を乗り出す。
    「おい、まだ動くな」
     ガンガディアは強い眼差しをマトリフに向けた。あらゆるものを飲み込んで前に進もうとする、静かな決意がそこにはあった。
    「あなたに愛されなくても構わない。私はあなたを愛している」
    「よくねえだろ。オレのこと忘れて幸せになれよ」
    「幸せなどいらない。欲しいのはあなただけだ」
     大きな手がマトリフを抱き寄せた。その温もりにマトリフは消えたくなる。ガンガディアもマトリフも本当の愛や幸せなんて知らなかった。他人には理解されない歪な形でお互いを求めている。
    「欲しいならくれてやるよ」
     身体だって命だって、ガンガディアが欲しがるのならくれてやる。だがそれでは不均等だ。ガンガディアから与えられるほどのものを、マトリフは返せない。
     
     ***

     カーテンを開けると外は気持ちよく晴れていた。差し込む朝日が空中の埃を輝かせる。ひとつ息を吸ってからガンガディアのシーツを捲った。
    「朝だぞ」
     相変わらずパンツ一枚で眠るガンガディアが不満そうな眼差しを向けてきた。逃げようとするガンガディアの尻を叩く。
    「傷口見せろ」
    「もう平気だと言っている」
    「喧しい。主治医の言うことは聞け」
     そのまま包帯とガーゼを外して傷口を見たが、縫い合わせたそこは膿んでおらずきれいだった。経過は良好と言っていいだろう。
    「オレの腕が良いおかげだな」
    「異論はない」
    「朝飯にするぞ。服着ろ」
     ガンガディアは傷が治るまでは仕事を休むように若頭に言われている。マトリフはその若頭とは因縁があって嫌っているが、ガンガディアは純粋に慕っているし、今回の件でも寛大な措置を受けていた。
     ガンガディアは大人しく席に着いた。ガンガディアが起き上がれるようになってから、二人で食卓につくのが暗黙のルールとなっていた。以前は朝食を抜いていたガンガディアだったが、療養期間中に食事のリズムをマトリフが矯正した。
    「いただきます」
     手を合わせて言うガンガディアをマトリフは頬杖をついたまま眺めた。食卓にはマトリフが作った食事が並んでいる。病院食を参考にした健康的なメニューを、マトリフはせっせと作っていた。
     するとチャイムの音が響いた。マトリフはすぐに立ち上がると、インターホンの通話ボタンを押す。そのやり取りを聞いていたガンガディアが玄関を開けにいった。
    「朝早くからスンマセン」
     数人の若い衆が入ってきた。血の気の多そうな若い男は殴られたのか顔を腫らしている。
    「また喧嘩かよ」
     呆れながらマトリフは救急箱を取りに行った。あの一件以来、マトリフはその医療技術を買われて組のお抱えの医者になっている。怪我から風邪まで町医者のように診療していた。特にこの若者は血気盛んなのか、何度もマトリフの元へ訪れている。
    「氷だ」
     ガンガディアは氷嚢を若者に渡している。若者は元気良くガンガディアに礼を言った。
    「先に飯食っとけよ」
     マトリフはガンガディアに言ってから、若者をソファに座らせて服を脱がせた。路上で取っ組み合いをしたらしく、あちこち擦り剥いたり切り傷になっている。砂だらけなので風呂場で洗わせてから、傷口を順番に処置していく。若者は痛みに文句を言ったり逃げたりするので思ったより時間がかかった。
    「まだ終わらないのかね」
     気付けば背後に立ったガンガディアが不機嫌そうに言った。
    「もう終わる」
    「あなたの食事が冷めている」
    「別に構わねえよ」
     最後の包帯を巻き終わると、若者は立ち上がってガンガディアに言った。
    「聞いてくださいよガンガディアさん。オレ前々から気に食わなかった奴をぶん殴ってやったんすよ」
     若者は今しがたの武勇伝をガンガディアに聞いてもらいたかったらしい。ガンガディアはそれに相槌を打ちながらも、追い立てるように若者を部屋から追い出した。
     マトリフは使った包帯やらガーゼを片付けていく。すると戻ってきたガンガディアがマトリフの隣に座った。それもぴったりと身体を密着させてくる。
    「なんだ?」
     尋ねてもガンガディアは答えずにマトリフの肩に頭を乗せてくる。これは完全に拗ねたなとマトリフは思った。マトリフはガンガディアの頭を撫でる。
    「飯は全部食ったのか?」
    「食べた」
    「よしよし、えらいぞ」
     ガンガディアはマトリフが組の連中の治療をするとよく拗ねる。はっきりと口では言わないが、どうやらマトリフが他人に触れるのが嫌らしい。
     するとガンガディアはマトリフをソファへと押し倒した。
    「おい、まだ朝だろ」
     マトリフは押しのけようと厚い胸板を押すが、そんな抵抗が敵うはずもない。ガンガディアはマトリフを抱きすくめると首筋を強く吸った。これは跡が残るだろう。マトリフはおざなりの抵抗をやめて脚を開いた。
     流されるように抱かれるのは楽だった。ガンガディアは決して荒々しい真似はせず、丁寧だが強引で、この波に漂うのは意思を放棄したマトリフにはちょうど良かった。
    「何を考えているのかね」
     ガンガディアは息を荒げていた。傷口が開いていないかつい視線が腹へと向かう。
    「何も」
     緩んだ包帯を直したいが手が届かない。ガンガディアの肩に乗せた脚が汗で滑った。ソファに身体が沈む。
    「マトリフ」
     ガンガディアの声がどこか遠くに聞こえる。身体の熱に心は伴わなかった。

     ***

     思い出ばかりが美しくなっていく。あの頃のガンガディアを思い出すと、まるでスノードームを覗くような気持ちになった。
     あの頃のガンガディアは幸せではなかっただろう。狭い世界に安全地帯はなく、周りにいる大人は碌でもない人間ばかりだった。
     マトリフは換気扇をつけると煙草に火をつけた。暫くぶりの煙草は心を落ち着かせていく。
     ここでのガンガディアとの生活は不思議なほど穏やかだった。ガンガディアのために生活を整えてやることが自分でも意外なほど苦ではない。抱かれるのも慣れた。外に出られないことは不自由だが、それを補うほどの安全がここにはある。破滅的なギャンブルに負けると知りながら有金を注ぎ込むこともしなくて済んだ。
     小さな窓から街並みが見える。大小様々な建物が見えるが、そこからこの部屋は切り離されているように感じる。
    「止さないか」
     ガンガディアが怒った顔でこちらへと来た。そのままマトリフの咥えていた煙草を奪う。怪我が治って今日から仕事に復帰するガンガディアはスーツを着ていた。
    「煙草くらいいいじゃねえか」
    「医者ならば煙草が健康に悪いことくらいわかっているだろう」
     マトリフは肩をすくめると煙草の箱をガンガディアに手渡した。見つかれば没収するだろうと思っていた。
    「他には?」
    「ねぇよ」
    「どこから煙草を手に入れた」
     外に出られないマトリフのために、必要なものはガンガディアが買ってきたり、日用品などは組の若い連中が届けていた。マトリフはその若い連中を言いくるめて煙草を手に入れた。
    「悪かったよ。もうしねえ」
     だから怒るなよ、とガンガディアの手をそっと握る。ガンガディアを怒らせない方法をいくつか学んでいた。しおらしくしておけばやがて怒りは鎮まる。何も考えずガンガディアが望む通りにしておけばいい。
     だがガンガディアは陰鬱な顔でマトリフを見ていた。怒りよりも悲しみだろうか。そこにある感情がよくわからない。
     するとガンガディアはマトリフの手を離し、玄関へと向かった。このまま仕事に行くのかと思ったが、ガンガディアはドアを開け放った。
    「出ていってくれ」
     マトリフは耳を疑った。開いたドアとガンガディアを交互に見る。
    「煙草くらいでそんなに怒るなよ」
    「今回のことだけではない。ずっと考えていたことだ」
     ガンガディアは深く後悔するように表情を曇らせた。
    「あなたを閉じ込めたら、あなたを手に入れられると思っていたが、それは間違いだった。今のあなたは私が求めていたあなたではない」
     頭がかっと熱くなる。随分と勝手な言い分だった。
    「オレの借金はどうすんだよ」
    「あなたの借金は既に私が完済してある」
    「ご苦労なこった。そこまでしてオレのこと囲ったのに、思っていたのと違ったってか。わざわざ腹に鉛玉食らってまでオレのこと捕まえたってのに」
     マトリフは思わず手元にあった包丁を手に取っていた。ガンガディアが憎い。誰からも必要とされていないのだ思うと全てが憎かった。
     マトリフは包丁を持ったままガンガディアのほうへ歩いた。包丁を見てもガンガディアは怯まない。
    「お前を殺していいか?」
    「そうしたいのかね」
     マトリフが本当に殺してしまいたいのは自分だった。あの頃からずっと。医療ミスの嫌疑をかけられて医者を辞めてから逃げるようにこの地を去り、あのボロアパートでこの世の全てを恨んでいた。何より憎いのは自分自身だった。
     マトリフは包丁をガンガディアに向けた。その首筋に狙いをつける。だがふと、小さかったガンガディアの面影が重なった。
    「オレのせいだよな」
     マトリフは包丁を自分に向けた。その手をガンガディアに掴まれる。
    「私はあの頃の私ではない」
     強く握られた手首が痛くて包丁が落ちる。それは音を立てた。音が反響する。
    「あなたを手に入れたいとずっと願ってきた。だが私は自由なあなたが好きだった。幼い頃の私にはあなたがどこへでも軽々と飛んでいけそうに見えていた。それなのにあなたをこんなところに閉じ込めた。私が愚かだった。あなたには自由でいてほしい」
     ガンガディアはマトリフの手を離した。強く握られた所が熱を持ったように痛い。落ちた包丁を拾う気にはなれなかった。
    「じゃあな」
     言葉が先に出て、身体はその事実を遅れて理解する。出ていけと言われても足が重かった。
     マトリフは振り切るように部屋を出る。逃げたいという気持ちはなかった。そこで初めて、手放したくないと思った。
     足を止めて振り返る。まだ扉は開いていた。一歩ずつ戻って中を見る。ガンガディアはまだそこに立っていた。
    「やっぱここにいたらだめか?」
    「なぜ」
    「お前のこと好きなっちまったから」
     マトリフはガンガディアの胸に顔を寄せた。その広い背中にそっと腕を回す。ガンガディアの鼓動が聞こえてきた。今さら遅いと思いながら、今度こそガンガディアと真摯に向き合いたいと思う。
    「あなたになら何度騙されてもいいと思ってしまう。やはり私は愚かだ」
     ガンガディアはマトリフを抱きしめた。逞しい腕に身体を包まれる。シャツ越しに伝わる体温をもっと感じたくてマトリフはきつくガンガディアを抱きしめた。

     ***

    「何をしているのかね」
     ガンガディアの怒りを含んだ声にマトリフは笑みを浮かべる。小汚い路地裏の、知る人ぞ知るちんけな賭博場で、マトリフは床に転がっていた。
    「見たらわかるだろ」
     マトリフは下着一枚だった。マトリフはよく金を服の隠しポケットに入れているが、それを探すために身包みを剥がされた。マトリフとポーカーをしていた連中はマトリフの持ち物から服まで全部調べて金がないか調べている。
    「おいちょっと待て。こいつ魔王組のガンガディアだぞ」
     ガンガディアを見た一人がこそっと呟いた。その名前に恐れが伝播していく。ところがズボンを調べていた一人がガンガディアに挑んだ。
    「けど、負けたら金は払えよ」
    「だから言ったろ。金なら持ってねえよ」
     マトリフは降参するように手を上げる。するとガンガディアはため息をひとつついて店を出ようとした。
    「おい、助けろガンガディア」
    「金銭トラブルは自分で解決したまえ」
    「つれねえな。玉までしゃぶり合った仲じゃねえか」
     マトリフの言葉に周りがぎょっとする。つまらない冗談を言ったあとのように白けているが、同時にガンガディアのことを全員が見ていた。
    「あなたにそんな事をされた覚えはない」
    「じゃあ助けてもらった礼にしてやろうか」
    「結構だ」
    「だよな。お前の金玉でけえからオレの口に入んねえもんな」
     マトリフは呆然としている連中から服を奪い返すと身につけた。その間にガンガディアは財布を出して広げられたトランプの上に十分な金額を置いた。
    「あなたの借金につけておく」
    「身体で返すぞ」
     マトリフはガンガディアの胸ぐらを掴むと、背伸びをしてキスをした。その唇の感触を味わうようにたっぷりと啄む。マトリフは顔を離してから忍び笑いをした。ガンガディアは仏頂面でマトリフの顔に手を伸ばす。
    「これでは足りない」
     壁に押し付けられ深く口付けられる。先ほどポーカーをしていた連中が口をぽかんと開けて見ているのが視界の端に映った。絡めとられた舌が心地良くなっていく。ところがいつまで経ってもガンガディアはキスをやめようとしなかった。マトリフが抗議の声を上げてもガンガディアは離そうとしない。その抵抗もやがて弱くなっていく。マトリフは腰がくだけてきた。そこまでしてからようやくガンガディアはマトリフを離した。
    「さあ帰ろうか」
     ガンガディアに支えられるようにしてマトリフは店を出た。やり過ぎだとマトリフが言うが、ガンガディアは素知らぬ顔をする。
     こうやってマトリフは時々ガンガディアの元から逃げてみせ、ガンガディアが捕まえにいく。側から見れば面倒な愛の確認行為だが、そんな事を繰り返しながら二人の生活は続いていた。

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