遠い朝 遠い記憶を眺めるとき、どうしたって事実とは違って見える。何度も繰り返し思い出していくうちに、自分の望むような色が足されていく。
マトリフは両親のことを覚えていない。そのことを誰かに尋ねることもしなかったし、バルゴートもあえて教えなかった。
マトリフが生まれた土地は痩せて気候が厳しく、他の地より冬が長かった。そのために作物が育たず、農地には適さなかったために牧場が多かった。マトリフの生家もその牧場の一つで、羊と鶏を飼っていた。
バルゴートがその地を訪れたのは古の精霊が住む泉があると聞いたからだった。だがその泉には既に精霊はいなかった。おそらく人間が住み着いたことによってこの地を去ったのだろう。それでも精霊の痕跡を探そうと、バルゴートは暫くその地に留まることにした。
泉はマトリフが住む牧場のすぐ近くだったために、バルゴートはマトリフと何度も顔を合わせた。マトリフは粗末な麻の服を着ており、それはおそらく母親からのお下がりで、何箇所も繕われた跡があった。痩せっぽっちの体には家畜の糞尿の匂いが染み付いており、三度風呂に入れてもその匂いは落ちなかった。
バルゴートはマトリフを一目見て、その魔法の才に気付いていた。しかしこの土地には教会すら無く、魔法の存在もあまり知られていなかった。だからバルゴートがマトリフに魔法の修行をさせれば魔法使いとして頭角を現すと両親に伝えても、迷惑そうにあしらわれただけだった。人手の足りない牧場では小さな子にも仕事が与えられており、それを失いたくなかったからだろう。
マトリフに与えられた仕事の一つに鶏舎から卵を回収することがあった。そしてそこにはマトリフの唯一の友がいた。ツンと澄ました鶏で、一度も卵を産んだことがなかった。バルゴートはマトリフと何度か話すうちに、その鶏を見せてもらった。大事そうに鶏を抱きかかえるマトリフは、その鶏が卵を産まないから肉にされてしまうのではないかと心配していた。
バルゴートは精霊の調査もそこそこに、マトリフの魔法の才を伸ばす方法を考えていた。その頃のマトリフは魔法を見たことがないにも関わらず、古典的な方法で魔法を使っていた。本来ならば魔法は契約した者のみが使えるが、稀に生まれながら精霊に愛された者は契約がなくても魔法を使うことができた。さらにその方法であれば本人の能力以上の魔法さえ使うことができた。
ある日、それは寒い日だったのだが、マトリフは鶏舎の中で魔法の火を灯した。鶏たちを温めるためである。それは爪の先ほどの小さな火であったが、マトリフの手と数羽の鶏たちを温めるには十分だった。だが強く吹いた風のせいで火が消えそうになった。マトリフは慌てて火の威力を強めようとしたが、火は予想以上の勢いになった。マトリフは火の制御を失い、結果として鶏舎を焼いた。なんとか鶏たちは逃したものの、マトリフは両親からこっ酷く叱られ、魔法なんてものがあるせいで鶏舎が焼けたのだと、両親は魔法を忌み嫌うようになった。マトリフはバルゴートと共に鶏舎を作り直し、火の魔法を使わなくなった。
その翌年、再びバルゴートは牧場を訪れた。その年はどの鶏も卵を産まず、羊の乳の出も悪かった。そのためにマトリフは常に腹を空かせており、去年から殆ど背も伸びていなかった。
バルゴートは暫く牧場に滞在してマトリフに文字を教えた。マトリフは驚くほど早く文字を覚え、バルゴートの古いインクの匂いがする本を飽きることなく読んだ。だがそれさえも両親は喜ばなかった。マトリフが牧場の仕事をせずに本を読んでいるのを見つけると、その本を暖炉の中へと投げ入れてしまった。
牧場が焼けたのはそんな冬の終わりの頃だった。その日バルゴートは街に本を探しに出掛けていた。マトリフが読むのに丁度良い本を数冊選んで帰った頃には、牧場は焼け落ちていた。
魔物に襲われたのだと周りに住む農夫は言ったが、魔物にしては荒らされた形跡が少ないとバルゴートは思った。牧場はその殆どが焼けており、それは呪文によるものだった。その中で鶏舎だけが無事であり、そこに隠れていたマトリフも無事だった。マトリフは何が起こったのか何も覚えていないと言った。
バルゴートはマトリフの引取り先を探した。ところがマトリフの両親は元々この土地の生まれではないらしく、血縁者はいなかった。さらに近隣の者たちも焼かれた牧場のことを気味悪く思い、誰もマトリフを引き取るとは言わなかった。
バルゴートはマトリフを連れてギュータへと戻った。
マトリフは我が身に起こったことを不幸だとは感じなかった。少なくともギュータでは三度の食事には困らず、欲しいと言えば腹が膨れるまで食べ物が貰えた。マトリフはじきに生まれ故郷の牧場のことも、両親のことも忘れた。唯一、友であった卵を産まない鶏のことだけは恋しく思っていたが、それも一年が経つ頃には忘れてしまった。
マトリフはしばらくバルゴートのそばを離れなかった。マトリフがいつも握りしめるせいで、バルゴートのマントにはいつも決まった場所に皺が寄っていた。それまで里に子供はおらず、遊び相手もいなかった。だからマトリフは一日中バルゴートの後をついてまわり、その修行の一部始終を眺めていた。
やがてバルゴートはマトリフに他の修行者と同じように法衣を与えた。そうするとマトリフは自然と他の修行者たちに混じって見よう見まねの瞑想をするようになった。ちょうど里に修行者が増えてきた頃で、様々な土地の者たちが分け隔てなく修行に取り組んでいた。
修行が進むうちにマトリフは魔法の才を伸ばしていった。しかしバルゴートはマトリフに炎系呪文を教えることに躊躇いを覚えた。あの牧場を焼いた火が誰の呪文であったのか確かめる術はない。しかしあのとき牧場は溶け残った雪で覆われていた。その牧場を残らず焼くほどの炎は並の魔法使いでは操れないものだ。
しかし予想に反してマトリフはいつまで経っても炎系呪文を扱えなかった。契約は済ませたから問題なく使えるはずだったのだが、習得したのはかなり遅かった。マトリフ本人は自分の得意は氷系であると思っていたが、最初に扱えた呪文を得意とするのが一般的である。やはり無意識に炎を避ける気持ちが呪文の習得を阻害していたのだろう。
だとすれば、やはり牧場を焼いたのはマトリフではなかった。魔物がやったのだ。己を納得させるための結論に感じる違和感にバルゴートは目を瞑った。いくら才能があろうとあれほどの呪文を幼子が操れるはずがない。せいぜい鶏舎を焼くのが精一杯だ。
だがもし、あの古の精霊がマトリフに力を貸していたとしたら。精霊は気に入った人間がいれば住み慣れた土地を離れて、その人間に取り憑く。そして気紛れにその力を分け与える。もし精霊がマトリフの無意識の願望を叶えたのだとしたら。
バルゴートはそれ以上考えるのをやめた。今はマトリフに力の正しい使い方を教えるほかない。その力を正しく使えば正義の力となるのだから。