瘴奸がいてよかった〜 貞宗の止まらない咳きを常興は黙って見つめていた。その背が以前より遠く思える。雨の降り続いたあの日に市河が去ってから、貞宗は他人を拒絶するようになっていた。以前は常興の言葉も耳に入れていたのに、今の貞宗には届かない。
貞宗の体調は悪くなるばかりだ。それでも大将が先頭に立たねば士気が下がると言って、貞宗は戦場に立ち続ける。常興は何度も体を休めて欲しいと伝えたが、まるで聞き入れてもらえなかった。
常興は歯痒かった。貞宗の力になりたいのにその力が自分にはない。貞宗の期待に応えようと鍛えてきた弓も、この戦場では本領を発揮しなかった。
すると貞宗と話していた長尾が去っていった。長期にわたる戦で他家との結束もない。このままではこの連合軍すら瓦解するかもしれなかった。
貞宗は一人で歩き出す。常興は黙って後を追った。やはり休養をとるように伝えようと思ったからだ。市河が去ろうが、他家が離脱しようが、常興は最後まで貞宗のそばで支え続ける覚悟だった。
すると、前を歩く貞宗の体が傾いた。足元が力をなくしたように崩れる。常興は咄嗟に手を伸ばすが、倒れていく貞宗の体に手が届かなかった。
だが、倒れる貞宗を受け止める手があった。瘴奸だ。床に倒れる寸前のところで、瘴奸の腕が貞宗を抱き止めていた。
「貞宗様!!」
常興も駆け寄る。瘴奸の腕の中で貞宗は虚ろな目をしていた。その額には汗が滲んでいる。
「大殿、鎧を外します」
瘴奸の言葉に常興もはっとした。瘴奸と手分けして鎧を外していく。物音を聞きつけて様子を見に来た見張り兵に指示を出して寝床を準備させた。
「運びます」
瘴奸は貞宗を横抱きに持ち上げた。そのまま寝所へと運んでいく。常興は騒然とする兵たちに落ち着くように言い渡してから後を追った。
瘴奸と常興は眠る貞宗が見える場所に座っていた。常興は震えそうになる手を握りしめている。砦にある物資は長い戦いの中で減っており、薬も少なかった。すぐに調達に走らせたが、果たしてそれが効くのかもわからない。
「常興殿」
瘴奸の低い声に常興は口を引き締める。
「明日からの指揮は常興殿に執って頂きたい」
「……そうだな」
明日までに貞宗が良くなるとは思えなかった。その場合、副将である常興が先頭に立つことになる。貞宗だけではなく軍全体のことも考えねばならなかった。
「では作戦は同じまま」
「その件ですが、作戦は変えた方が良いかと」
瘴奸は大将である貞宗の不在を敵方に知らせてはならないと言った。貞宗はこれまで常に先頭に立ち戦っている。もし明日以降に貞宗の姿が見えなければ、敵も必ず気付くだろう。それを踏まえて貞宗の不在も策に取り込み、出陣を控える。こちらの損害を抑えつつ、様子を見るために降りてきた敵方を、瘴奸の隊で襲撃する。そのまま膠着状態に持ち込み、時間を稼ぎをするのだという。
瘴奸の言葉は力強かった。常興は腹の底に力を込める。
「わかった。その策でいく」
瘴奸の策にはこれまで何度も助けられてきた。疑う余地はない。貞宗の判断を聞けない今は、常興がその決定を下さねばならなかった。
「常興殿が全体に指示を出してください。他家も副将の言葉なら聞き入れてくださるでしょう」
瘴奸の言葉に頷く。真っ先に自分がしなければならない事が明確になった。
常興は貞宗を見る。眠っているが表情は険しかった。この状態の貞宗から離れることを不安に思う。しかし常興はその思いを断ち切って瘴奸を見た。
「貞宗様を頼む」
「御意」
常興は部屋を出ようとして立ち止まった。振り返ってもう一度瘴奸を見る。瘴奸が来たばかりの頃は、貞宗の命を預けられるほどになるとは思わなかった。
「お前がいて助かった」
すると瘴奸は常興の言葉に驚いたように眉を上げてから、静かに笑みを浮かべた。