銭 将監は子供の手を引いて歩いていた。京の町外れのことである。寒々としていたが晴れた朝で、風は乾いた土埃を舞い上げていた。
その子供は、藁のように痩せた体をしていた。袖のほつれた小袖を纏い、足元は裸足である。顔は垢にまみれ、正気のない顔をしていた。喋りかけても口をきかず、自然と子供の足は遅れ、将監に引きずられるように歩いている。将監は家畜でも扱うように、その手を引いた。
「おい、さっさと歩かないか」
子供は何も言わなかった。ただ、黙って将監の手に従って歩いている。
とある店の前で、将監は立ち止まった。裏路地にある、看板も何もない店だった。将監も話は聞いていたが、来るのは初めてだった。
薄暗い店内で、すぐに店主と思しき男が出てくる。奥の板張りの台の上に、幾人もの子供たちが並んでいた。皆が縄で腰と腕を繋がれている。子供たちは誰もが怯えと諦めとがないまぜになった目をしていた。将監に隠れるようにしている子供が息を呑んでいるのがわかる。ようやく自分が何のためにここへ連れてこられたのかを悟ったようだ。
将監は子供を店主の前に突き出した。子供はよろけて小さな声を上げる。店主は品定めする目で子供を見ると、無遠慮に体をまさぐり、口を開けさせて歯があるか確かめていた。
「こんな小枝みたいなガキ、使い物にならねえよ」
素っ気ない店主の言葉に、将監は薄っぺらい笑みを浮かべた。拾った子供の値段なら、たとえ幾らでも構わなかった。
「安くで構わないから、買ってくれないか」
「馬鹿言うんじゃない。こんなんじゃどこでも売れねえよ」
追い払うように手を振られて、将監は鼻を鳴らして店を出た。それから幾つもの店を渡り歩いたが、どこへ行っても同じように断られた。ついには、酒と交換でもいいと言い縋ったが、お前は商売というものがまるでわかってないと笑われて追い出された。
将監は悪態を吐きながら店を後にした。寒風が頬を撫でる。子供はただ、黙ってその後ろをついてきた。太陽は山の向こうへと沈もうとしている。腹が減りすぎて感覚が鈍っていた。
すると、後ろにいる子供からも腹の音が聞こえた。頼りない音が何度も鳴る。子供は慰めるように腹をさすっていた。一日中何も口にせず将監に街を連れ回されて、泣き言の一つも言わない。かといって逃げる素振りもなかった。
将監は子供の前に屈んだ。
「飯が食いたいか?」
子供が頷いた。将監は手を子供の前に出す。
「いいか、よく見ろ」
将監は言いながら、手を子供の小袖の襟元に入れた。触れない程度に指先だけを動かす。
「こうやって懐に手を滑らせるんだ。銭の入った袋を摘んだら、そっと手をひけ」
それは盗みの手管だった。京の町には盗人が溢れているが、子供であれば警戒も薄かった。
「わかったか?」
子供は頷いたが手が震えていた。将監は子供の額を小突く。
「何を怖がってやがる」
将監は呆れたが、子供は答えなかった。ただ、目の前の将監を見上げている。将監は子供の肩を掴むと人混みへと押し出した。
「早くしろ。さっさと盗ってこい」
夕闇の中を子供がおずおずと人混みに紛れていく。暫くして、その人混みから声が上がった。
「何しやがる、ガキ!」
将監はため息をつき、人混みへと足を向けた。人垣ができており、その中心で子供が怒った男に手を掴まれていた。
「向いてねえな」
将監は溜息をついて人垣をかき分ける。まだ怒っている男の肩に手をかけた。こちらを振り向いた男の横っ面を殴りつける。男は仰向けに倒れて砂埃を上げた。子供が呆気に取られて将監を見上げている。その手を引いて将監は走った。
暫く走ったが、追手がないとわかると将監は足を止めた。子供がぜいぜいと息を荒げている。いつの間にか日が沈んでいた。
減りすぎた腹が痛みを訴えていた。頭も鈍っていて、何もかもどうでも良い気がする。
すると、将監の腰にさした太刀が小さく音を立てた。その存在が何故か重く感じられる。二刀を扱う将監にとって、どちらの太刀も欠かせない。しかしこの一月で一度も抜いていなかった。鍛錬も怠り、手入れさえしていない。
将監はその足でとある店に向かった。店仕舞いをしている店に滑り込んで、一本の太刀を鞘ごと引き抜いた。
将監はその太刀を銭に変えた。そのまま飯屋に行き、飯を山ほど持って来るように店主に言いつけた。
「食え」
子供の前に飯を置いた。子供は飛びつくように飯をかき込んだ。
それから将監は日雇いの仕事をしながら銭を稼いだ。その仕事には子供も同行させ、仕事を手伝わせた。得られるのはほんの端金だったが、飯を食べられる日が続いた。しかしそれで腹一杯にはならず、飢えは常に付き纏った。
そんな日が数日続いた後、用心棒の仕事が舞い込んだ。京から荷を運ぶために腕の立つ者が必要だという。二、三日かかるというその仕事を将監は引き受けた。当然ながら子供を連れていけるわけもなく、将監は子供に棲家にしていた荒屋で待つように言いつけた。
「これを持っておけ」
将監は荒屋を出る前に小刀を子供に渡した。深く考えたわけではない。何も持たないよりかはましだと思ったからだ。子供は小刀を握りしめて将監が出ていくのを見ていた。
将監が去って三日が経った。
子供は言われたとおり、荒屋の中でじっと待っていた。持たされた小刀は、懐に入れてある。何度か取り出して握ってみたが、使い道などない。ただ冷たい刃が手の中にあることが、妙に心を落ち着かせるような気がした。
最初のうちは、将監が残していった飯の残りを食べ、喉が渇けば近くの井戸で水を汲んで飲んだ。それが尽きると、何か食えるものはないかと、周囲を探し回った。空腹はすぐには感じなかったが、三日を過ぎるころには、胃が内側から爪を立てるように鳴り始めた。将監が帰ってこないのではないかと思うこともあった。その度に懐に入れた小刀を抱きしめた。それが帰って来る約束であると思おうとした。
四日目の朝、屋根の穴から光が差し込んだとき、荒屋の入口が開いた。
将監が帰ってきた。ぼろぼろの姿で。
直垂は埃まみれで、肩口は裂けていた。右腕に巻かれた布が赤黒く滲んでいる。顔には傷があり、唇の端で血が固まっていた。だが、将監はそんなことを気にする様子もなく、懐から銭が入った袋を取り出して、手の中で転がして鳴らしてみせた。
「これで腹いっぱい飯が食えるぞ」
将監は笑った。
銭が入った袋より、将監ばかり見つめていた。帰りを待っていて良かったと、懐に入れた小刀をさする。すると腹が鳴って空腹を訴えた。将監はそれを鼻で笑うと、またあの飯屋へと連れていった。
温かい飯が机に並んだ。干物の載った飯、大根の汁、固いが塩気のある漬物。温かい飯を腹に入れると、生きているような気がした。米粒の一つも惜しくて、茶碗に張り付いたそれをつまんで口へ入れる。
将監は向かいに座り、片肘をつきながら、気だるそうに酒をあおっていた。夕焼けの薄雲のような瞳でじっとこちらを見つめている。薄汚れた店内の騒めきの中で、妙な温かみを感じた。酒の匂いが煮炊きの匂いと混じって漂う。明日も同じような日になればいいと、何かに祈るような気持ちだった。
その翌日、将監に連れられて町へ出た。昨日の飯のおかげか、体に力がみなぎっている。今日の仕事が荷運びだろうと、水汲みだろうと、なんだってこなせる気がしていた。
将監について暫く歩いていたが、ふとそこが裏通りであると気付いた。将監は無言のまま歩き続けている。今日はいつもと違う仕事なのかと思っていると、将監はある店の前で立ち止まった。
その店を見て寒気がした。
看板も何もないこの店に、一度訪れたことがある。思わず将監を見上げるが、将監はこちらを見ずに手を掴んできた。そのまま引き摺られて店の中へ入る。
前と同じように、店の奥には縄で縛られた子供たちが並んでいた。人買いの店だ。咄嗟に逃げ出そうとしたが、将監に掴まれた手は、どうやっても振り解けない。その圧倒的な力に絶望を感じた。
「今回はどうだ?」
将監の声が耳に入る。店主がやってきて顎を掴んで持ち上げた。店主の息が顔にかかる。嫌悪感から顔を背けようとするが、体を押さえ込まれて身動きができなかった。
「ふん、少しはましになったか……まだ痩せぎすだが、動けるなら使い道はあるかもしれんな」
そのまま手を引かれて将監から引き剥がされた。店の奥へと連れていかれ、手首を縄で結ばれる。店主が銭を将監に渡しているのが見えた。
「たったこれっぽっちか?ガキは高く売れるって聞いたぞ」
将監の不満そうな声が聞こえた。
「あいつに肉をつけるために、俺は太刀まで手放したってのに」
呆然とその言葉を聞いていた。最初から売るつもりで食わせていたのか。そう思うと、体から力が抜けていった。床にへたり込む。あれを優しさだと思っていた己が馬鹿みたいで、その愚かさに手を握りしめた。
「嫌なら買わなくたっていいんだぜ」
店主の言葉に将監は肩をすくめた。そして一度もこちらを見ないまま、店を出ていった。足音が遠ざかっていくが、それもやがて聞こえなくなった。
あまりにも呆気ない。せめて後悔の顔でも見せれば、これは少しは情を感じられたのかもしれない。だがあの男にとって、自分はただの品物でしかなかったのだ。
そうすると、胸の内にふつふつと怒りが込み上げてきた。
あいつが憎い。銭のために紛い物の優しさを与えたあの男が憎かった。その溢れ出る気持ちが、立ち上がる力を与えた。
すると、懐に入れた小刀を思い出した。
弾けるように、手が動いていた。小刀を手に握りしめて、抜いた。手を縛る縄を切り、そのままの勢いで、こちらに背を向けていた店主の背に小刀を突き立てた。刃が肉を裂く感覚に、思わず笑みが浮かんでいた。
浅い傷にしかならなかったが、店主が怯むには十分だった。
小刀を握りしめたまま店から駆け出した。そのまま裏路地を駆け抜け、人混みに飛び込む。誰かにぶつかっても構わず、ただ走った。
どれほど走ったかわからない。気がつけば町の外れにいた。どこにいるか知っていたわけではない。だが、将監はいた。道端に腰を下ろして酒を飲んでいる。
「……なんで、売った」
震える声で言った。胸の奥が熱くなり、喉が詰まりそうだった。将監はゆっくり顔を上げ、少し驚いたように目を細めた。
「逃げてきたのか」
それだけだった。謝罪や懺悔の言葉はない。水のように飲むその酒が、己の代金で買ったものだと思うと、明確な殺意を感じた。
「お前を殺すためだ!」
言葉にした瞬間、喉が焼けるように熱くなった。これまで飲み込んできた全てが、怒りとなって飛び出していく。
将監は黙った。憎悪で震える手で小刀を握りしめ、目の前の男を睨みつける。頭は熱いのに指は冷えて、小刀の柄が滑った。さっき店主に斬りかかったときには感じなかった恐怖が、胸を苦しくさせる。
沈黙が流れた。
やがて、将監がふっと笑った。そのときになって初めて、将監と目が合った気がした。
「……お前、名前は?」
すぐに答えられなかった。自分の名前を最後に口にしたのはいつだったか。名前を呼ばれた記憶を懸命に掘り起こす。
「お前の名前だ」
言われて、口を開く。怒鳴るように脳内に響いたのは父の声だった。ようやく、掠れるように言葉を紡いだ。
「……しろう」
読み書きもできないから字は知らない。すると将監は少し考えるようにしてから、地面に字を書いた。字を知らないしろうには、その字が随分と難しいものに見えた。
「死蝋」
将監がぽつりと呟いた。その顔には、からかうような笑みも、呆れたような表情もなかった。ただ、何かを確かめるような眼差しだった。
「……死の灯火、だな」
将監は、そう言って立ち上がった。その言葉の意味さえわからなかったが、その名前を得たことで、初めて自分がこの世に存在していると実感できた。
「俺についてくるか?」
気まぐれのような軽い声で言って、将監は歩き出す。
死蝋は、しばらく立ち尽くしていた。そして、迷った。これは命を賭ける選択だ。将監の立つその先には、暗闇が続いている。今ならまだ引き返せた。しかし、そう考えているうちにも将監の背は遠くなっていく。
死蝋は将監の後ろを追いかけていた。