消えた記憶 淡い光が広がっていた。点灯していない蛍光灯がついた天井がカーテンで仕切られている。
なぜオレはこんな所に居るのだろうか。思い出そうとして頬に風を感じた。そちらを向けば少し開いた窓があり、そこからの風がカーテンを揺らしていた。
多数の不規則な足音が遠くに聞こえる。館内放送が静かに誰かを呼び出していた。乾燥機で乾かされたシーツの匂いがして、自分が横になっているベッドを見やる。ここが病院であることは間違いなさそうだ。淡い桃色のカーテンがベッドをぐるりと囲んでいる。
すると早足で歩いてくる足音が聞こえた。それはこちらへ近付いてくる。それをぼんやりと聞いていたらカーテンが勢いよく引かれた。白衣を着た男がこちらを見ている。白衣を着ているからには医者だろう。服の上からでもわかる筋肉質な肉体をしている。医者はオレを見て安堵したように表情を緩めた。
「気がついて良かった」
医者は言いながらオレの手を取った。脈でも測るのかと思ったらそんな様子もない。
「何があったのかね。しかし運ばれたのがこの病院でよかった」
医者の話にオレはついていけない。まだここがどこの病院で、自分がなぜここに運ばれたのかもわかっていなかった。しかし病院にいるからにはどこか悪いのだろう。そう思っていると頭が痛んだ。それも頭痛などの内部の痛みではなく、殴られたような外部の痛みだった。
オレは医者に掴まれているのとは反対の手で自分の頭に触れる。そこには柔らかな包帯が巻かれていた。ここが患部で間違いなさそうだ。
「痛むかね?」
「ああ……まあ」
そろりと触れただけなのにズキズキと痛みが波のように襲ってくる。そのせいで顔を顰めたら、医者は心配そうにオレを見てきた。
「マトリフ、いったい何があったのかね」
何が、と訊かれてもオレもわからなかった。気がついたらここに居たのだから。頭を怪我しているがその原因すらわからない。医者は丸眼鏡を指で押し上げると、カルテを手に取って読んだ。
「あのよ……」
「ああ、やはり念の為にCTを撮ろうと思うのだが、君の意見は?」
「……オレの意見?」
そういうのは医者が決めるんだろ、と不審に思いながら医者を見る。医者は真剣な表情でオレの答えを待っていた。だがオレが黙り込んだせいで医者は痺れを切らしたように口を開く。
「どうしたのかねマトリフ。他に気になることでも」
「気になるっていうか……」
先ほども感じた違和感を先に解決するべく、オレは医者を見据えた。
「その……マトリフってのがオレの名前か?」
先ほどから医者に呼ばれているのに、それが自分の名前だという記憶がない。名前だけではない。自分が誰でどこから来たのかさえ、記憶になかった。
「……は?」
医者の目に驚愕の色が浮かぶ。しかしすぐに医者としての責務を思い出したのか、冷静な声音で確認するように言った。
「君は自分の名前がわからないのかね?」
「ああ、思い出せねえ」
記憶喪失、という言葉がふわりと思い浮かんだ。それはまるで白紙の真ん中に印字したような唐突さでオレの頭に残る。だがまるで他人事のように悲しみも驚きもない。目の前の医者のほうがよっぽど焦り、その焦りをなんとか押し込めているのがひしひしと伝わってきた。
「君の名前はマトリフ」
医者がぽつりと呟いた。オレの手はまだ医者に握られている。見れば白衣に名札があり、第一外科、ガンガディアと書かれてあった。
また院内放送がかかる。その呼び出しの名前が目の前にいる医者だと気付いた。
「呼ばれてるんじゃないのか」
「っ、私のことは覚えているのかね!」
勢いよく訊かれて思わず身を引いた。どうやらただの担当医ではなさそうだ。しかし、もちろんこの医者に見覚えはない。オレは白衣にある名札を指差した。
「ああ、そうか……」
医者はようやくオレの手を離した。
「すぐに戻ってくる。検査を……いや、まだ確認したいことが……」
ガンガディアという医者は独り言のように呟きながらカーテンの向こうへと消えていった。静寂が戻る。オレは先ほど握られていた手を見ながら、さっき知った自分の名前と医者の名前を頭の白紙に書き込んだ。
***
「ちょっと大魔道士!」
非難がましい声と共にカーテンが開けられる。騒がしいと思って見れば、さっきと違う医者が立っていた。ボリュームのある髪のシルエットが広葉樹を思わせる。
「なんだよ、元気じゃん! ガンガディアが青い顔してたからボクの処置がまずかったのかと思って見に来たのに!」
青い手術着を着たその医者の態度に、また知り合いなのだろうかと思った。名札を見れば救急医、キギロとある。もちろん記憶にはない。
「あんたがオレの処置をしたのか?」
「そうだよ。ボクに感謝してくれていいんだよ? 路上で高齢男性が頭から血を流して倒れてるなんて入ったから、酔っ払っいかと思ってたらあんたが運ばれてきてさ。どうせエロ本読みながら歩いてバナナの皮でも踏んだんでしょ。面倒かけないでよね。まあガンガディアに恩を売れたからいいけど」
樹木を思わせる医者は饒舌に話し続ける。その言葉を聞き流していたら、その医者は拍子抜けしたように言葉を止めた。
「……なんだよ。随分と大人しいじゃないか。本当にどこか悪いのかい?」
「あんたオレの知り合いか」
「それどういう意味? あんたと知り合い以上の関係になった覚えはないけど」
「さっきオレを大魔道士と呼んだな」
「あんたのダサい自称でしょうが。それとも元天才外科医とでも呼んであげようか?」
元、ということはオレは引退した医者なのか。どおりで医者に知り合いが多いわけだ。自分以外から自分の情報を与えられるのは妙な気分だった。
「悪いがオレは記憶が無いらしい。さっきの……ガンガディアだっけ? 詳しくはあいつに聞いてくれ」
それよりも喉が渇いたなとあたりを見渡す。しかしカーテンで区切られたベッドの周りには何もない。病室というより処置室のようだ。
樹木医は急に馴れ馴れしい態度を引っ込めると、カーテンの向こうの誰かを呼んだ。じきに何人かの看護師やら医者が集まってくる。樹木医が何やら指示を出しているが、騒がしい声が耳障りだった。
「処置中にすまない」
その声に医者たちが振り返る。医師たちの背後に現れた青年に、先ほどの樹木医が手招きした。
「ヒュンケル、ちょっとまずい事になった」
そのヒュンケルと呼ばれた青年は警察官の制服を着ていた。なかなかの美丈夫で目を引く。樹木医はこちらを一瞥してから青年に耳打ちした。
「こいつ記憶が無いらしい」
「何が起こったか覚えていないということか?」
「っていうか、自分が誰かもわからないらしいんだよね」
樹木医が苦々しく言う。警察官の青年は驚いたようにこちらを見た。
「本当ですか?」
「らしいな」
「では我々のこともわからないと?」
「なんだよ。あんたもオレの知り合いか?」
青年は頷いたが、まだ驚きから抜け出せないように樹木医を見ている。樹木医は肩をすくめた。
「とにかく検査するけど」
「……ガンガディアはこのことを?」
「知ってるらしいけど、あの様子だと……」
青年と樹木医は急に重苦しい雰囲気になっている。またガンガディアの名前が出たことに引っかかりを覚える。それほど仲が良い関係だったのだろうか。
警察官の青年はこちらに一礼してから目線を合わせるように屈んだ。
「ヒュンケルと言います。頭部から血を流して倒れていたとの通報だったので、事件性がないか調べています。目撃者もいなかったので、ご本人から聞こうと思っていたのですが」
「何も覚えてねえよ」
「……そうですか」
ヒュンケルは思い詰めるようにしてから、すっと表情を引き締めた。
「オレの父がこの病院に勤めています。キギロやガンガディアとも幼い頃から親しくしていて……あなたのこともその頃から知っています」
「ああ、そういう繋がりか」
こんな若い警察官とどこで知り合ったのかという疑問が解消された。青年は立ち上がると樹木医に言った。
「オレは一旦署に戻る。防犯カメラを調べれば何かわかるかも」
「まさか誰かから殴られたとかってことか?」
「その可能性もある」
青年はもう一度こちらに頭を下げてから出ていった。周りの空気が若干湿ったような気がする。事件性があるという不穏さがそうさせたのかもしれない。
「病室準備できました」
軽やかな声に空気が動いた。じゃあとにかく、と誰かが言って、オレは車椅子に乗せられて病室に連れて行かれた。途中で見えた外の景色から、今が夏だとわかった。
***
頭に巻かれた包帯に触れながら明るい廊下を歩く。あれから簡単な問診を受け、次にレントゲンを撮るために移動させられた。脳を輪切りにした画像を見たが異常はないようだ。それからいくつかの質問を受けて、ようやく病室に戻った。
病室は白を基調とした清潔な部屋だった。ベッド脇の椅子にガンガディアが座っていた。随分と神妙な顔をしており、オレの顔を見ると、はっとしたように立ち上がった。何か言うのかと思ったが、ガンガディアは立ち尽くしたまま言葉を探しているようだった。
気まずい沈黙が続く。すると背後から服を掴まれた。
「師匠!」
驚いて振り返れば、跳ね返った黒髪の少年が息を切らせて立っていた。よほど急いでいたのか汗が頬を伝っている。
「なんでぇ、ポップじゃねえか」
するりと出た言葉に自分でも驚いた。目の前に立つ少年がポップという名前であること。大学生でありオレが勉強を教えてやっていることが自然と思い出された。
「は……え? 師匠、おれのことがわかるのかい」
「ああ」
苦手な科目を前にピーピーと文句を垂れている姿も思い出された。近所に住んでいるから生まれた頃から知っている。ポップは気が抜けたような顔をしてから、顔を赤くして怒りの表情を浮かべた。
「な……んだよちきしょう! ヒュンケルの野郎おれを騙しやがったな!」
「ポップ君、病院では静かに頼むよ」
いつの間にかガンガディアがそばに立っていた。その姿を見てから、妙な申し訳なさを感じる。ポップのことは思い出せたのだが、このガンガディアのことは思い出せなかった。
「悪いけどよ……」
その言葉だけでガンガディアは察したらしい。丸眼鏡を押し上げたせいで表情がよくわからなかった。
「焦ることはない。何かをきっかけに記憶が戻ることもある」
もう休んだほうがいい、と促されてベッドに戻る。
「え? じゃあほんとに師匠は記憶喪失なのかよ」
ポップがガンガディアに言う。その気安さからこの二人も知り合いらしいとわかった。
「ヒュンケルから連絡があったのかね」
「ああ。師匠が倒れてこの病院に運ばれたって。記憶がねえなんて言うから……」
その会話を聞きながら頭の中に相関図を作り上げる。あの警察官の青年とポップにも繋がりがあるらしい。しかしそれがどのような繋がりかは思い出せなかった。
ポップはガンガディアから説明を聞いてから、こちらを気遣わしげに見た。
「けどよ、なんでそんな怪我して倒れてたんだよ。エロ本を読みながら歩いてバナナの皮でも踏んだのか?」
ポップはふざけた様子もなく、真剣に言っていた。あのキギロとかいう医者も同じ事を言っていたが、オレはそんなに所かまわずエロ本を読むような奴だったのだろうか。
「知らねえよ。あのヒュンケルって警察官が調べるんだろ」
「自分のことだろ師匠。他に何か思い出せないのかい?」
そもそもなぜポップのことを思い出せたのかもわからないのだ。そして他のことが思い出せない理由もわからない。思い出そうとやってみるが、神経に響くように頭が痛くなってくる。辛くなって考えるのはやめた。息をついて目を閉じる。
「あまり無理をしないほうがいいだろう。私は専門外だから詳しいことはわからないが」
「そっか……」
ポップの意気消沈した声に目を開ける。
「ポップ。おめえはもう帰れ。そろそろ暗くなるぞ」
「ったく、もうガキじゃねえっての」
じゃあまた明日来るから、と言ってポップは病室を出ていった。その存在がなくなっただけで病室が急に静かになる。出入り口を見ていたが目を閉じた。体の芯から疲れが滲み出てくる。
「私も行くよ」
目を開けて見ればガンガディアがこちらを見ていた。その視線が真っ直ぐに向けられていることに戸惑う。硝子の奥の目は青く澄んでいた。それを綺麗だと思う。しかしその目が僅かに揺れていた。不安げな瞳に怯えのようなものが垣間見える。それはどこか迷子のように頼りなく、助けを求めるような目だった。
何故こいつはこんな目をするのだろう。どうにかしたくて思わず手を伸ばした。手に触れると冷たくてひんやりとしていた。
「あのよ……」
「ゆっくり休むといい」
ガンガディアはオレの手を外すとベッドに戻した。ガンガディアは背を向けると病室を出ていく。ぱたん、という軽い音で扉は閉まった。日が沈んだせいか病室は暗くなっていた。
***
目が覚めて白い天井が目に入る。そこから空白の時間が暫く続き、自分が誰かを考えた。
記憶はあまり戻っていない。弟子であるポップのことと、自分が得ていた医学的な知識を少し思い出したくらいだ。
目は覚めたものの、身体を起こすことが億劫で横になったままでいる。夏だから日の出が早いのだろう。もう一度寝るかと思っていると病室がノックされた。返事をするとそっとドアが開けられる。そこにいたのはガンガディアだった。
「もう起きていたかね」
「ああ、あんたか」
のっそりと起き上がる。ガンガディアは手に持っていた紙袋をベッドの横に置いた。
「入院に必要なものが入っている」
覗き見ればタオルや着替えが入っていた。コップやハンガーなどの細々としたものまである。それらは新品ではなく、普段使っている物のようだった。家から持ってきたのだろう。
「オレに家族がいるのか?」
「いや……一緒に住んでいる人が持ってきた」
ガンガディアは眼鏡を押し上げる。ずれていない眼鏡を押さえる指は、ただ表情を隠したいだけのようだった。ガンガディアはそそくさと病室を出て行こうとする。
「私はこれで」
「待ってくれよ」
ガンガディアは背を向けたまま立ち止まる。それがまるで叱られる前の子供のようだった。オレは聞きそびれていたことをたずねる。
「オレとあんたの関係って何なんだ?」
それは最初から不思議に思っていたことだった。ガンガディアは振り向かずに答える。
「……知り合いだ。仕事で少し面識があるだけの」
背を向けているから表情はわからない。それなのに何故だがガンガディアが悲しんでいるように思えた。そのことに胸の内に焦燥が生まれる。何か言おうと思うのだが、うまく言葉にできなかった。
「では」
ガンガディアは病室を出ていった。それに寂しさを感じる。理由のわからない感情はどこから来るのだろうか。
「……わかんねえよ」
呟いてから立ち上がる。紙袋からタオルを取り出して洗面所へ向かった。
備え付けられた小さな洗面台の蛇口をひねる。鏡を見ると嫌な緊張が走った。見慣れない男がそこにいる。自分の顔を忘れていることは嫌な感じだった。生ぬるい水に手を濡らす。顔を洗えば少しは気が楽になった。タオルを手に取って顔に押し付ける。柔らかなタオルを懐かしいと思ったが、たぶん気のせいだろう。
***
「詳しい検査をしましょう」
バルトスと名乗った医者は快活に言った。オレは並んだ自分の脳の輪切り画像を見る。そこに異常がないことは思い出した知識からも理解できた。
「それで詳しい検査ですが……いや、これは釈迦に説法ですが」
バルトスは遠慮がちに検査の説明をした。オレが昔は脳神経外科を専門にしていたからだろう。説明を一通り聞いて検査を受けることを承諾する。バルトスは安心したように頷いた。オレは何の気はなしに部屋を見渡す。
「あんたもオレの知り合いか?」
「ええ……まあ、親しいというほどではないですが。私とあなたは同じ脳神経外科でも、あなたは別の病院に勤めておられたので。話はよく聞きましたが」
「あんたがヒュンケルの親か?」
オレはバルトスの机に置かれた写真立てを見ながら言う。今より若いバルトスと少年のヒュンケルが写ったものだ。折り紙で作った星も収められている。
「そうです。血の繋がりはないのですが」
バルトスは表情をやわらげて写真を見た。
「私は家族だと思っています。あの子もそう思ってくれていると」
バルトスは照れたように笑みを浮かべていた。ヒュンケルの言葉からも仲の良い親子なのだろう。家族という言葉に何かが引っかかった。そして思い浮かぶのはガンガディアの後ろ姿だった。
***
病院の屋上というのは施錠されているのではないか。そう思いながら上がってきたが、ドアは抵抗なく開いて外の風を招き入れた。ちょうど夕暮れどきで暑さも和らいでいる。屋上には誰もいなかった。
オレは欄干に肘を置いてポケットから煙草を引っ張り出す。一本咥えて火をつけた。不味いなと思いながら息を吸い込む。頭がふっと軽くなるような気がしたが、それも忙しない足音に掻き消された。
「こんなところで何を……煙草!?」
ガンガディアは早足でこちらに来てオレを見ると、驚いたように目を見開いた。その勢いに気圧される。
「あ……見つかっちまったな」
へへっと愛嬌を込めて笑って見せるがガンガディアの険しい顔は更に険しくなった。額に血管が浮き出ている。
「それは君の健康を害する」
「ちょっと試してみただけだよ。前にやってた事をすれば記憶も戻るかもしれねえだろ?」
「君は煙草を吸わない。聞いてくれれば教えたのに」
もう消しても構わないかな、と言いながらガンガディアはオレの手から煙草を没収した。忌々しそうに煙草を踏みつけて火を消している。そして律儀に火の消えたそれを拾い上げた。
「聞いたって嘘を教えられたらわからねえだろ?」
ガンガディアの肩が小さく跳ねた。だがそれだけで何も言わない。オレはさらに言った。
「オレの煙草をやめさせたくて、元から吸ってねえなんて言うかもしれねえだろ」
「嘘など」
「ついただろ」
ガンガディアはオレに嘘をついた。記憶のないオレが見破れるほどの稚拙な嘘だ。オレたちはただの知り合いなんかじゃない。ガンガディアが何故そんな嘘をついたのか知りたかった。
「お前を思い出せなくて悪りぃなって思ってんだよ」
「それは君に非があるわけでは」
ガンガディアはまた眼鏡に手をやった。もはや癖なのだろう。その所作を見てもやはり記憶は戻らない。きっとこれまで数えきれないほど見てきただろうに。
「お前のこと、これからも思い出せねえかもしれねえからよ……」
言いながらガンガディアの胸に手をつく。顔を見なかったのは身長が違い過ぎるせいもあったが、表情を見るのが怖かったせいもある。オレはガンガディアの胸元に顔を埋めた。縋るように胸元のシャツを掴む。
「もう一回、ただの知り合いから始めようぜ」
その言葉にガンガディアが身体を強張らせた。オレは大きく息を吸い込む。掴んだシャツをぎゅっと握りしめた。
「そんでもう一回、お前のことを好きになってもいいか?」
「……今なんと」
「お前のこと、好きになっちまったって言ってんだよ」
ガンガディアはオレの肩を掴むと顔を覗き込んできた。その指先が熱い頬に触れる。
「……顔が赤いが」
「うっせーな。真顔で告白なんてできるかよ」
赤いのは夕焼けのせいだ、と嘯いてももう遅い。照れ隠しのつもりで口を歪めて息を吐く。
「それとも、お前を覚えていないオレは嫌いか?」
「私は君が……やはり君が好きだ」
抱きしめられて胸に押しつけられる。込み上げてくる感情は誰のものだろうか。いや、目の前にいるガンガディアだけを見ればいい。オレがどこの誰だろうが、以前はどう生きていようが、こいつを好きなことには変わりはない。
***
「この老いぼれめ!」
「うるせぇ三流医者」
ハドラーと名乗った医者は怒りの形相で睨め付けてくる。はじめて会ったというのに偉そうな野郎だ。医局長だかなんだか知らねえが気に入らない。
「まあまあ二人とも。マトリフは本当に記憶が無いんですよね?」
アバンと名乗った伊達眼鏡の男が言った。見舞いに持ってきた焼き菓子が超美味いから料理上手なのだろう。
「そうだよ」
「お前たちって前からそんな感じで言い合ってたぜ」
今度はロカが言う。ポップと同じように、何故だかロカのことは会った途端に思い出せた。横にはレイラがいる。レイラのことは覚えていないが、オレは昔にこの三人と一緒に働いていたらしい。
「これ以上無礼な口をきくならこの病院から追い出すからな!」
ハドラーは言い捨てて病室から出て行く。その背を見ながら首を傾げた。ハドラーはアバンたちが見舞いに来た途端に病室に来て、マトリフにあれこれ難癖をつけてきたのだ。院内禁煙だの、部下をかどわかすなだの、煩いことぬかすから言い返してやったのだ。
「あいつ何しに来たんだ」
「マトリフじゃなくてアバンにちょっかい出しに来たんだろ。暇な奴」
ロカが呆れたように言い、オレを見た。
「それよりさ、あの後なんだろ? マトリフが倒れてたのって。何があったんだよ」
「あの後?」
言ってから、それがあの記憶を失った日だと気付く。
「あの日、朝からオレと一緒に釣りに行っただろ。覚えてないか?」
レイラも横で頷いている。確かにロカとは何度も釣りに出かけた記憶はあるが、あの日もそうだっただろうか。
「ほら、あの日は全然釣れなくてさ。釣り道具はオレの家で預かって、マトリフは本屋に寄ってから帰るって言ってたじゃないか」
「ん? 本屋?」
それは何か思い出せそうな手応えだった。ふと本屋が思い浮かぶ。そこは品揃えが良くて立ち寄ることが多い店だった。その日は朝から暑くて、店に入った途端に空調の涼しい風を受けて生き返ったような気がした。そのあと目当ての本を手に取って会計に並んでいたら、スマートフォンがメッセージを受信した。
「……ああ、そんときにポップから連絡があったんだ」
レポートを見てほしいから夕方に家に寄ってもいいか、とメッセージにはあった。それに返信した気がするが、それ以上は思い出せなかった。
「もしかして、その日に関連する人のことだけ思い出せるのでは?」
アバンが言う。ロカは一旦頷いたものの、でもよと思いついたように言った。
「じゃあなんでガンガディアのこと思い出せねえんだよ。朝は会わずに家を出たのか?」
言ってからロカはしまったという風に口に手を当てた。横でアバンとレイラが呆れたように息をついている。ロカの言葉でオレは確信した。やはりオレはガンガディアと一緒に暮らしていたらしい。
「マトリフ……これはその」
ロカはなんとか誤魔化そうと口を開くが、オレは苦笑してそれを止める。
「……やっぱりか。そうだろうと思ってたんだ」
「気付いてたのですか。ガンガディアからマトリフが思い出すまでは言わないようにと言われてたのですが」
「オレと一緒に暮らしてる奴は一向に姿を見せねえし、ガンガディアがそうなんじゃねえかって思ったんだよ。匂いも同じだったしな。オレの家から持ってきたっていうタオルと、あいつのシャツがな」
「シャツの匂いを嗅いだんですか?」
「嗅いじゃ悪りぃのかよ」
「その積極性を記憶があるあなたに教えてあげたいですよ」
「どういう意味だよ」
「あなたたちが一緒に暮らすまで、結構な時間がかかりましたからね。あれこれ理由をつくってガンガディアを随分と待たせたじゃないですか」
そうそう、とロカとレイラが頷いている。そのあたりの記憶がないから言われっぱなしになる。
そのときノックの音が響いた。ドアがそっと開けられてガンガディアが顔を見せる。
「邪魔してすまない。マトリフ、検査の時間なのだが」
「ああ、行く」
じゃあ、とアバンたちは帰っていった。
オレはガンガディアと病院内を歩く。
「お前ちゃんと家に帰ってるか? いつも病院にいるじゃねえか」
「睡眠の重要性は理解している。ちゃんと帰って休息を取っているよ」
「じゃあ次に戻ったときにアレを持ってきてくれよ。オレがいつも使ってたやつ」
「いつも? どれのこと……」
ガンガディアは訝しげにオレを見る。そして瞬時にオレの肩を掴んだ。じっとオレの表情を見てくる。
「……思い出したわけではなさそうだな」
「へっ……まあな。どうして言わなかったんだ。オレがお前と一緒に暮らしてるって」
「それは……君に負担をかけたくなくて」
「なんだよ負担って」
「記憶もないのに急に恋人だと告げられたら戸惑うかと……」
「嘘を教えられたほうがショックだっての」
「それはすまなかった。だが……」
「そんでよ、あの日ってお前は家に居なかったのか? オレは朝から釣りに行ったらしいんだけど」
「ああ、ロカと一緒に行くと言っていたな。私は前日から夜勤で病院にいたんだ。帰ろうとした頃に君が搬送されてきた」
「なるほどな。そんでよ、オレが運ばれて来たときに本を持ってなかったか?」
「いや、無かったが」
「おかしいな。本屋に寄って本を買ったはずなんだけどな」
「大事な本かね。だったら私が買ってくるが」
「いや、まあ……それはいいんだけどよ」
あの本をガンガディアに知られるのはまずい。というか搬送されるときに一緒に運ばれなくて良かった。しかしあの本が手元に無いのも悲しい。発売を待っていたのに。
***
ヒュンケルが訪れたのはちょうど検査の最中だったらしい。病室に戻るとヒュンケルとポップが微妙な空気で待っていた。
「なんだよ」
「防犯カメラを調べたら、あの日のことがわかったので報告に来ました」
ヒュンケルはごく事務的な声音で言った。ポップの表情からするに、もうヒュンケルから話を聞いたのだろう。どうも雲行きが怪しい。ポップの心底呆れた顔がこちらを見ている。
「見れば記憶を取り戻す助けになるかと思って、防犯カメラの映像を持って来ました」
ヒュンケルがタブレットで動画を再生する。監視カメラにしてはきれいな画質だった。通り沿いのコンビニの前だろう。その通りを画面奥から歩いてくる姿がある。手には雑誌を持っていた。画質が良いせいで雑誌の表紙まではっきりと見える。映像のオレは画面中央あたりで立ち止まる。あたりには誰もいなかった。その時点でオレは己の失態を思い出していた。そして記憶にある通りに、画面に映るオレは雑誌を開く。すると何かを踏んだように足が滑った。バランスを崩してそのまま転倒し、頭を歩道に打ち付けている。手に持っていた雑誌は弾みで歩道横の空き地に飛んでいった。少し待つとコンビニの店員が出てきてオレに気付き、救急車がやってきた。
「というわけで事件性はないと判断しました」
「エロ本を読んでて転んだんだから、犯人はエロ本ってことでいいんじゃねーの?」
ポップが生意気に言う。あとで覚えてろよ、と思いながらそれより重要なことがある。この二人に釘を刺さねばならない。
「……このことはガンガディアに言うんじゃねーぞ」
「言ってはまずかったのか?」
ヒュンケルが軽い驚きを表しながら言う。オレは頭を抱えた。頭をぶつけてから今までで一番頭が痛い。
「だいたい、ガンガディアのおっさんがいながら、なんでエロ本なんて買ってんだよ」
「ポップ、それは二人の問題だから口を出すことでは」
ヒュンケルはポップを宥めるが、逆にそれがつらい。
「ソレとコレとは別の問題だろ。別にいいじゃねーか、エロ本くらい。それにあいつが嫌がるからこっそり買ったんだろ」
家に帰って読めば夜勤から帰ってきたガンガディアに見つかると思い、ちょっと道端で開いてみたのだ。不運にも足元にゴミが落ちていて、おそらく投げ捨てられたバナナの皮なのだが、それで足を滑らせた。
「あれ、師匠もしかして思い出したのかい?」
ポップが勢いよく椅子から立ち上がる。オレは隠すように顔をそむけた。あのエロ本の表紙を見た途端に記憶が一気に戻ってきたのだ。
「いや。なーんも覚えてねえ」
「嘘つくんじゃねえ! このエロジジイ!」
「やかましい! お前だってエロ本の十冊や二十冊持ってるだろ!」
「病院では静かに」
ガンガディアの声に振り返る。ガンガディアはドアを少し開けてジト目でこちらを見ていた。
「オレたちは帰ろう」
「そうだな」
ヒュンケルとポップが揃って立ち上がる。オレは慌てて二人に手を伸ばした。
「おいおい、急いで帰るこたあねえだろ」
「仕事があるので」
「おれも大学に戻らねえと」
「オレを見捨てる気か!?」
「マトリフ、話があるのだが」
ヒュンケルとポップが病室を出ていった。ガンガディアがマトリフの前に立ち塞がる。マトリフはひくりと顔を引き攣らせた。
「嘘はいけないのだったな?」
「ああ……」
「どれくらい思い出した?」
「……全部」
「全てか。だったら……」
ガンガディアはずいと身を寄せる。大きな背を屈めてオレを覗き込んできた。これは逃げられないとぎゅっと目を閉じる。
「もう抱きしめても構わないかね?」
「ん?」
目を開けて見ればガンガディアが腕を広げて待っていた。淋しさに耐えた瞳がじっとこちらを見下ろしている。どんな罵詈雑言が飛んでくるのかと身構えていたのに拍子抜けだ。忘れたことを責めもしないし、ハグ一つに許可を取ってくる。こいつはこういう奴だったと思い出して思わず笑った。
「いいぜ」
その腕の中に身体を預ける。大きな背にそっと腕を回した。抱きしめる腕に遠慮がちに力が込められる。
「卑猥な本については後で話し合おう」
「うぐ……」
しばらくは離さないとでも言うように、ガンガディアはぎゅうぎゅうとオレを抱きしめた。