本「よせよ、師匠」
ポップは悲痛な顔で呟いた。マトリフの行動を止めるように腕を掴む。ポップの伏せられた瞼が己の不甲斐なさに震えていた。しかしマトリフの意志は固く、ポップの手を取るとそっと腕から外した。
時刻は早朝だった。しかし清爽さとは無縁の鎮痛な空気が洞窟に満ちている。大魔道士が二人揃っても解決できない問題に直面していたからだ。数多の呪文も叡智もこの問題の解決は不可能だった。ポップは悔しそうに拳を握りしめる。
「おれにもっと力があれば……」
「そう落ち込むな。オレの魔法力で済むなら安いもんだ」
マトリフは書架から一冊の本を手に取った。皮表紙のそれは金文字で仰々しく飾られているが古寂びている。長い年月人の手にあったことを示すように落ち着いた色合いになったその本は、マトリフの手によく馴染んでいた。
マトリフの乾いた指が表紙を撫ぜる。彼に会うのはいつぶりだろうかという疑問が頭を過った。
「……出番だぜ」
マトリフは言いながら本を開く。同時にマトリフは本へと魔法力を送った。その魔力を受けて本は淡く光る。まるで生を受けたかのように浮かび上がり、目を眩ます光を放った。
「私の力が必要のようだな」
封印されていた魔物が解き放たれた。青い巨体は洞窟の中で窮屈そうに身を屈める。そのことを不満に思っているのかマトリフを驕傲に見下ろした。
「よう、元気そうじゃねえか」
デストロールのガンガディア。マトリフの放った呪文により消滅しかかったが、既の所で本に封印された。マトリフとは魔法力と引き換えに手を貸す契約を結んでいる。
「私を呼び出すということは、君の魔法力をたっぷりと頂くことになるが?」
「構わねえよ」
マトリフはガンガディアに向かって手を広げる。上に向けた掌から魔法力が放出された。それがみるみるガンガディアに吸収されていく。するとガンガディアは力を得たように肉体を震わせた。眼鏡の奥の眸が恍惚の色を帯びる。鋭い牙が見えるほどに口の端を吊り上げて、ガンガディアは喜びに震える声で言った。
「やはり君の魔法力は格別だ。今ならどんな願いでも快く受け入れよう」
「じゃあコレ頼むわ」
マトリフが差し出したモノにガンガディアは目を見張った。マトリフの手には何の変哲もない瓶が握られている。ラベルには最近パプニカで人気を博しているパン屋のロゴが描かれていた。
「……それはジャムの瓶かね?」
「苺ジャムのな」
「それをどうしろと?」
「蓋を開けてくれ。固くて開きゃしねえ」
マトリフとポップの背後の卓子にはトーストが二枚、香ばしく焼き上がっていた。まだ仄かに湯気が上がっている。マトリフとポップはトーストにジャムを塗ろうとしたのだが、瓶の蓋がどうしても開かなかったのだ。
「ジャムの蓋を開けるのかね?」
「早くしろって。魔法力は前払いしてんだろ」
ガンガディアは勿論よい心持ちはしなかったのだが、律儀な性格であったから瓶を手に取った。そっと蓋に力を込める。すると軽快な音を立てて蓋が開いた。
「あんがとよ」
ガンガディアの手からジャムを取ってマトリフは椅子に座る。それにポップも続いた。
「……他にすることはないのかね?」
そう言ったガンガディアはちょっと寂しそうだった。しかしマトリフは気にすることなくスプーンでジャムを掬うとパンに塗りたくった。
「今んとこねぇな」
「お、このジャム美味えよ師匠」
ポップはジャムをたっぷりと塗ったパンにかぶりついている。そのジャムとパンはポップが朝一番に買ってきたものだった。
「おめぇも食うか?」
マトリフがガンガディアに向かって言う。ガンガディアは苦悶の表情を浮かべた。ガンガディアが消滅寸前のところを本へと封印されてから、マトリフは事あるごとにガンガディアを呼び出しては、このような雑務を言い付ける。ガンガディアとしては、もっと緊張感のある、重大で火急の用向きで呼び出されたい。内心では憧れる大魔道士の役に立ちたいと思っているのだ。
「……頂こう」
ガンガディアはさらに身を屈めて座った。マトリフからジャムを塗ったパンを受け取る。ポップはメラでパンを丁度よくトーストしていき、洞窟内は食欲を刺激する芳香が漂った。