幸せに名前なんてなかったから3「断ってよかったのか?」
新三郎の言葉に、瘴奸は一度目を伏せてから、ゆっくりと頷いた。
死蝋は連絡先を教えろと言ってきたが、瘴奸ははっきりと断った。そのまま家の中へ逃げ込んだから、その後のことはわからない。貞宗が追い返したと言っていたから、諦めて帰ったのだろう。
「ほれ、アイスを食べるぞ」
貞宗が冷凍庫から出したアイスを持ってきた。差し出されたアイスを受け取ろうとすると、貞宗はそのアイスを瘴奸の頬に当てた。冷たさに思わず声が出る。貞宗はその反応に笑うと、すまんすまんと言いながら瘴奸の頬に手を当てた。ついた水滴を拭うように動く手に、瘴奸は頬を擦り寄せる。誰かの視線が背中を撫でたような気がして振り返ると、常興と目が合った。常興は小さくため息をついて背を向ける。今回は見逃してくれるらしい。
「ほれ、美味いぞ」
貞宗はアイスの蓋を開けるとスプーンでアイスをすくった。スプーンの縁でとけたアイスが垂れる。口に入れたアイスは甘く、バニラの優しい香りが涙を誘った。
その翌日、瘴奸は仕事の休憩に公園に立ち寄った。薄曇りで風の強い日で、風を避けながら煙草に火をつける。弁当包みには貞宗の握ってくれたおにぎりがあった。
瘴奸は俯いて地面を見つめる。蟻が一匹彷徨い歩いていた。何も考えずに煙草を喫むが、どうしても死蝋のことが頭を過ぎる。
すると、軽い金属音がした。見れば瘴奸が座るベンチに缶コーヒーが置かれている。顔を上げれば死蝋が立っていた。
「お前、ストーカーは犯罪だぞ」
昨日に続きまた姿を表した死蝋に、もしや発信機でも付けられているのではないかと思う。
すると死蝋は瘴奸の隣に断りもなく座った。
「ストーカーじゃないって。昨日のは後をつけたからだけど、今日のは違う」
後をつけて家を突き止めたことを白状した死蝋に、瘴奸は苦い顔をする。しかし死蝋には悪びれる様子がなかった。
「さっきそこのビルにいただろ」
死蝋が指差したビルは、先程まで瘴奸が窓拭きを行なっていたビルだ。瘴奸はゴンドラに乗って高層階を掃除する仕事をしている。
「俺、あそこのビルの中で働いてんの」
死蝋は首から下げていた社員証を見せてきた。その会社名には覚えがある。窓拭きの最中にその会社名を見ていた。
瘴奸は死蝋をまじまじと見つめた。死蝋はカジュアルなジャケットに大きなロゴの入ったTシャツを着ている。自由な気風の会社なのだろうか。ともかく、裏社会との関わりは無さそうだった。
「真っ当な職に就いてたのか」
「それどういう意味?馬鹿にしてんの?」
だってお前は前世で碌に字も覚えなかったじゃないか、と言いたくなるのを瘴奸は堪えた。死蝋は肩をすくめると「別にいいけどさ」と素っ気なく言った。
「俺がビビったわ。窓の外にあんたがいたんだもん。こっちは中にいて気づかれないし、昼休みに見たらいなくなってて……公園に向かうのが見えたから追いかけた」
前世で縁があった者同士は自然と引かれ合う。瘴奸が貞宗たちと今世で出会ったのもそのためだった。気まぐれな運命が死蝋と瘴奸を会わせたがっているのだろう。
死蝋の視線が刺さる。瘴奸は煙草を灰皿に押し込み、視線をそらした。立ち去ろうと弁当包みを手にする。
すると死蝋の手が瘴奸の手を掴んだ。
「俺、あんたに会ったことあるよな?」
目の前にいる死蝋に、昔の姿が重なる。瘴奸は口走りそうになった言葉をすんでのところで飲み込んだ。
「思い出せねえんだけど、会ったことある気がしてさ。あんたも俺のこと知ってる感じだし……教えてくれよ。あんた、誰なんだ?」
悪気がなさそうに笑う顔が昔と同じだった。同じなのに、何も覚えていない。それが酷く腹立たしかった。
「お前が思い出せばいいだろ」
突き放すように言って立ち上がる。胸が悪い気がして、ポケットから薬を探った。
「じゃあヒントちょうだい。名前教えて」
死蝋の手は瘴奸を離さない。その感触に肩が震えた。息が不規則になり、汗が吹き出すような感覚がして視線が泳いだ。とにかく逃れたくて口を開く。
「……平野」
「下の名前だって」
息が苦しい。泣き叫ぶ子どもの声が耳の奥で響いた。それを掻き消すように下卑た笑い声がする。それが己の声だと気付いて瘴奸は息を詰めた。
「……どうした。具合悪い?」
死蝋の声にはっとして、瘴奸は掴まれていた手を振り解いた。ようやく見つけた薬剤シートから錠剤を出して口へ放り込む。そのまま瘴奸は歩き去った。