倒幕しなかった1340年 赤沢常興は恐る恐る閉じていた目を開いた。聞こえていた雑踏の音から察していた通り、そこは賑やかな大通りだった。
彼はまず、自分がどこにいるのか確かめようとした。自分のよく知る、信濃でないことは確かだった。彼が元いた世界の殺伐としていた空気とは全く違う、戦の気配がない穏やかな町並みがそこにはあった。
そして彼はこの風景に見覚えがあると気付いた。鎌倉だ。しかし、倒幕によってこの町並みは一変したはずだ。だが眼前には美しい鎌倉の町並みが残っている。
そこで彼は本来の目的を思い出して慌てた。なぜ信濃ではなく鎌倉へと来てしまったのか。彼は貞宗がいる場所を目指してやって来たはずだ。この世界であれば、貞宗を救えると信じて。
宇宙は唯一無二ではなく複数平行して存在し得る。その胡散臭い言葉を信じて、常興は小笠原貞宗を救うために、多元宇宙を彷徨い、この世界にたどり着いた。
ともかく信濃に向かおうと彼は歩き出した。賑やかな通りを歩きながら、信濃へと通じる道を案内出来る者を探す。
すると、人の流れをすり抜けるように走る姿があった。常興の目はその少年を見逃さなかった。
「北条……時行」
三つ鱗の水干を着た北条時行が駆けて行く。常興は考えるより先に体が動いていた。大徳王寺で嫌というほど対峙した、その少年が目の前にいる。
時行は戦で見せる素早さで人混みの中を駆けた。常興は見失わないように必死で追うが、その背はどんどん遠くなっていく。
すると、常興と同じように時行を追う者がいることに気付いた。常興はその姿を見て瞠目する。時行を追いかけて走っていたのは小笠原貞宗だった。
常興が貞宗に目をとられていると、少し先で人集りができていた。人垣の中心にいる人物の姿に常興は思わず足を止める。それは足利尊氏だった。尊氏は時行を抱き上げている。
その光景を常興は呆気に取られて見ていた。尊氏も時行も、お互いに笑みを浮かべている。時行は常興が元いた世界で見たのと同じ年頃だが、雰囲気はどこか違った。鎌倉奪還の意思に燃えていた少年の瞳は、気弱な色をしている。
「また高氏に捕まってしまったな」
時行は走ったために上気した頬を緩めている。烏帽子を被った尊氏は朗らかな笑ってみせた。
「若君は相変わらずかくれ鬼が上手でございますな。ですが、あまり小笠原殿を困らせてはいけなせん」
尊氏が時行を下ろすと、そこへ貞宗が来た。貞宗は息を弾ませて汗を拭っている。時行はさっと尊氏の背後に身を隠した。
「若君、弓の稽古の時間ですぞ」
貞宗の言葉に、時行は首をすくめた。
「今日はちょっと……」
「昨日もそう言って逃げたではないですか。間も無く元服だというのに、いつまでもそのように逃げ回って」
貞宗は時行の腕を掴んで尊氏の陰から引っ張り出すと、尊氏に向かって頭を下げた。
「助かりました。高氏殿」
「いえ、ご苦労が絶えませんな、小笠原殿」
貞宗は時行を捕まえて引き摺っていく。常興は目の前で起こったことが信じられなかった。中先代の乱と呼ばれる戦いの最初の地で名乗りを上げた北条時行。その北条を滅ぼした尊氏がまるで兄のように時行を抱き上げていた。更に会話の内容から、貞宗が武芸指南役なのだと推測される。そして尊氏も、貞宗も、時行を「若君」と呼んでいた。
常興は酷く混乱した。あれほどの騒乱があった鎌倉に、戦の影は一切ない。この世界で何が起きたというのか。まさか、この世界では、幕府が――
「常興」
貞宗に呼ばれて常興ははっとした。貞宗がこちらに向かって歩いてくる。時行は逃げようともがいているが、貞宗の腕からは逃られないようだった。
「そち、なぜここにおるのだ。今朝方、信濃に発ったのではないのか」
不思議そうに訊ねる貞宗を見て、常興の頬には熱い涙が流れていた。病に臥せって日に日に弱っていく貞宗を見ていた常興は、時行を追って走れるほど健康な貞宗を見て思わず目頭が熱くなっていた。貞宗は声なども溌剌としていて、病など罹っている様子などまるでない。やはりこの世界で間違いなかったのだと、常興は感涙した。
突然泣き始めた常興に貞宗は驚いて眼を見開き「どうしたの」と狼狽えた。するとそこへ走ってくる者がいた。
「あー!兄上、こんなとこにいた!」
常興の腕を掴んだのは新三郎だった。旅装束に身を包んでいる。その顔を見て、常興はあっと声を上げた。
「お前、鼻……」
新三郎の顔には、あの覆いがなかった。山中で時行の郎党に無残に潰されたはずの新三郎の鼻は、傷ひとつない。
「鼻?何かついてる?」
慌てたように袖で鼻を拭う弟を見て、常興は言葉を失った。やはりこの世界は何かが決定的に違う。
「それより兄上、勝手にどこ行ってるんですか。また殿と離れたくないって駄々っ子してるんですか」
「なっ!」
「いいから、信濃に帰りますよ。俺だって本当はもっと鎌倉で遊びたいのに」
「気をつけてな、新三郎」
新三郎に腕を引かれ、貞宗から引き離される。貞宗も踵を返して時行を引き摺りながら行ってしまう。常興は貞宗に向かって腕を伸ばした。
「離せ新三郎!私は貞宗様のお側に!」
「だから、その貞宗様の代わりに信濃に帰るんでしょ。領地を守るために」
「領地を?」
「だから、また悪党が暴れてるって報告だったじゃないですか」
「悪党……」
悪党と聞いて常興の頭に浮かぶ人物があった。だがあの男は中先代の乱の緒戦で首を取られていた。
「あのクソ入道、また懲りずにうちの領地を狙ってきたんですよ」
新三郎の恨みのこもった声音に常興は確信に近いものを感じる。どうやら瘴奸はまだ悪党として跋扈しているらしい。その瘴奸が小笠原の領地を狙っているのだとしたら、これは一大事だった。
しかし、常興は貞宗を救うためにこの世界にやってきた。信濃は心配だが、貞宗から離れるわけにもいかない。しかし領地を失っては、貞宗を守ることもできない。一体どうすればいいのか――
すると常興は視線を感じた。心の臓が冷えるほどの感覚がして、常興は恐れのあまり青褪める。視線の主を探してあたりを見渡すと、遠くでこちらを見ている尊氏がいた。
尊氏は口元は穏やかな笑みを浮かべていた。しかしその眼はまるで冬の夜のように暗く、底知れない冷たさがあった。