沈む恋 呼び出された公園にその姿を見つけた。ブランコに腰掛けて俯くマトリフは、街灯にぼんやりと照らされていた。
ガンガディアは無言のままブランコまで歩き、隣の空いている方へと腰を下ろそうとして、子ども用のブランコでは座れないだろうと気付いた。仕方がないので向かいにあった柵へと腰を下ろす。
「それで?」
呼び出された理由は聞いていないが、大体の予想はつく。マトリフは顔を上げた。
「フラれた」
「だと思ったよ」
夜の公園に突然に来いと呼びつけられるのは何度目だろう。マトリフは惚れやすく、そしてモテなかった。フラれたと言っていじけるマトリフを毎度慰めるのはガンガディアの役目だった。
「オレのどこがいけねえんだ」
「下心が表情に出るところかな」
「オレは正直なんだよ」
「その正直さは美点ではない」
マトリフは心にダメージを負ったように呻いた。聡いマトリフのことだから理解しているはずだ。だが行動を律することは出来ないらしい。
半泣きで鼻水まで垂らすマトリフにティッシュを差し出す。マトリフはそれを受け取ると鼻をかんだ。
「君は賢いのに恋愛となると極端に愚かになる」
「傷心のダチにそんなこと言うのかよ」
「言うとわかっていて私を呼んだのだろう」
マトリフはむすっと不機嫌そうに口を結んだ。だがそれがポーズであるとガンガディアにはわかっている。マトリフは私の馬鹿正直な正論を聞きたいのだ。それが失恋の区切りになっているらしい。
「マトリフ」
「なんだよ」
「好きな相手に敬意を持って接することだ。胸のサイズの話題なんて適切ではない」
「こ、今回はそんなこと言ってねえよ」
「胸や臀部を見つめることも失礼に当たる」
「……そこにデカいのがありゃ目に入るだろ」
ガンガディアは呆れて長々とため息をついた。本当にどうしようもない、と思うものの、そんなマトリフをガンガディアは嫌いになれない。
ガンガディアはマトリフのことが好きだった。ずっと、ずっと前の、それこそ幼稚園で初めて出会ったときからずっと大好きだった。私だったら君を愛し続ける。その言葉を言えないまま何年も胸に抱えていた。
「なあって」
マトリフの呼びかけに思考から戻ってくる。
「なにかね」
「そう言うお前はどうなんだって。好きな奴はいないのかよ」
「いる」
「え……いるのかよ。聞いてねえぞ」
「ああ、君には言っていなかった」
好きなのは君だからね、と言ったらどんな顔をするのだろうか。ガンガディアはマトリフの驚く顔を想像する。
するとマトリフは不満そうな表情でガンガディアを問い詰めた。
「どんな奴なんだよ」
ガンガディアは少し考えるようにマトリフを見つめてから言った。
「……惚れっぽいくせに自分に向けられる好意には疎い人だよ」
「間抜けな奴だな」
「その通りだ」
思わず笑みが浮かんだガンガディアを、マトリフは訝しげに見つめる。マトリフは立ち上がるとガンガディアの前に立った。
「飲みに行こうぜ」
「飲むなら君の家に行こう。酔った君を運ぶのは面倒だからね」
腰を上げてマトリフの隣に立つ。マトリフがふざけてガンガディアを背後から蹴るが、鍛えているガンガディアには痛くも痒くもない。反対に蹴ったマトリフのほうがふらついていた。
「もう酔ったのかね」
「うるせぇ」
ぽつりぽつりと街灯が灯る。ガンガディアは恋心を深く沈めて愛しい人の隣を歩いた。
***
マトリフはじっとりと湿度を含んだ眼差しをハドラーに向けていた。その顔を見ているだけでムカムカと腹が立ってくる。マトリフは掴んでいるクッションをぎゅうぎゅうに握りつぶした。
「……貴様、鬱陶しいぞ」
マトリフの視線を遮るようにハドラーがファイルを立てて顔を隠す。その仕草にさえマトリフは苛立ちを覚えた。
「オレに話しかけるな」
マトリフは吐き捨てるように言う。ハドラーの額に青筋が立った。
「だったら失せろ」
「なんでおめえみたいな奴を……」
マトリフはぶつくさと言いながらキーボードを連打した。その音がハドラーを苛立たせていく。だが昔よりも短気ではなくなったハドラーは、マトリフの嫌がらせを無視することにした。
マトリフはハドラーが逆上しないとわかると、キーボードを叩くのをやめた。その様子をじっと伺う。少しでも付け入る隙を見つけたなら容赦しないつもりだった。
こいつのどこがいいんだよ、とマトリフはハドラーの頭から足の先まで視線を走らせる。背が高くバランスの取れた筋肉質な身体は、まあいいだろう。昔はトサカにしていた髪は今ではひとつに括られて背で銀の河を作っている。声は低く落ち着いており、部下たちをまとめる手腕はカリスマ性を感じられた。昔は簡単に煽られていた性格も、今では皮が一枚剥けたように腹が据わっている。探そうとしたが欠点が見つからなくて、マトリフはハドラーを睨め付けた。
ガンガディアはハドラーに片思いしているという。それを知ってからマトリフは言いようのない感情を抱えていた。
「オレみたいな奴がなんだ。はっきり言え」
ハドラーもここ数日マトリフに付き纏われて迷惑していた。マトリフは恨みのこもった眼差しを向けてくるだけで、他にはなにも言ってこない。ハドラーはマトリフの行動の意味がわからなかった。
「そういやおめえ、恋人はいるのか?」
マトリフはふと気が付いてたずねた。ハドラーに既に恋人がいるならガンガディアも諦めるだろうと思ったからだ。
「……はあ!?」
ハドラーは素っ頓狂な声を上げた。酷く驚いた顔でマトリフを見ている。
「はあじゃねえよ。いるのかいねえのか、どっちなんだ」
マトリフにとっては大事なことだった。ハドラーに恋人がいるなら、それをガンガディアに知らせて諦めさせるつもりだった。
それなのにハドラーはなぜか焦ったように怒鳴った。
「なぜそんなことを貴様に言わねばならんのだ!」
「オレの知り合いが知りたがってんだよ」
ガンガディアはそんな事は言っていなかったから、これは情報を聞き出すための嘘だ。するとハドラーは一瞬ほっとしたような顔をしてから、妙な顔になった。期待を悟られまいと平静を保とうとして失敗しているような顔だ。
「貴様の……知り合いだと」
ハドラーはそわそわしながら居住いを正す。こいつは何を勘違いしてるんだと思いながら、マトリフはハドラーが座る椅子を蹴飛ばした。
「さっさと言え」
「蹴るな! 恋人などおらんわ!」
「チッ……三流管理職め」
マトリフが悪態をつくとハドラーが立ち上がった。やるのかよとマトリフも立ち上がる。すると二人の間にアバンが割り込んできた。
「二人とも、喧嘩はいけませんよ」
咎めるように言われてハドラーもマトリフも身を引いた。ハドラーは何か言いたそうにアバンを見ている。
「来ていたのか」
「ええ、マトリフに用があって」
ハドラーはそわそわとアバンを見ているが、アバンはハドラーに背を向けてマトリフに封筒を渡してきた。その様子にマトリフはピンとくる。ハドラーに恋人はいないようだが、どうやらアバンに思いを寄せているらしい。
つまり、ハドラーとアバンがくっつけば、ガンガディアはハドラーを諦めるのではないか。
「……聞いてますかマトリフ」
アバンが呆れたように言う。
「全然聞いてねえ」
さてどうやってアバンとハドラーをくっつけようかとマトリフは考える。アバンがハドラーに塩対応しているのは普段から見て知っていた。今のところアバンは脈無しだろう。
そこでふと、マトリフはなぜ自分がここまで必死になっているのだろうかと思った。本来なら友人であるガンガディアの恋を応援すべきだ。それなのにガンガディアがハドラーを好きなことが嫌で、どうにか邪魔してやろうと企んでいる。
ガンガディアはマトリフにとって幼馴染で、友達で、大切な奴だ。だから、ずっとこのままでいたい。ガンガディアに恋人なんていなくていい。
マトリフは随分と自分勝手なことを考えているとわかっていた。だがガンガディアが恋人と一緒にいる様子なんて想像しただけで嫌な気分になる。
それが恋の始まりであることに、マトリフはまだ気付いていなかった。
***
カーテンが開く音と同時に、さっと部屋が明るくなる。マトリフはその光から逃れるように身を捩った。
「朝だ」
ガンガディアの素っ気ない声に、マトリフは呻き声を返す。朝が来ていることは理解したが、起きたくはない、という意思表示だった。
昨夜はガンガディアが泊まっていったのだと思い出す。新しいゲームを買ったから一緒にやろうぜ、と誘ったのだ。子どもの頃とやっていることが変わっていないのだが、それが良いのだとマトリフは思っている。
そのままマトリフがベッドで丸まっていると、台所から何やら音が聞こえてくる。それが調理の音であると気付く頃には、いい匂いが漂ってきた。
やがてガンガディアはマトリフから布団を剥ぎ取った。
「朝食ができた」
マトリフは布団を求めるように手を伸ばすが、ガンガディアにその手を掴んで引き上げられた。温まった素足が冷たいフローリングに触れて、マトリフは身を震わせる。
「さっみぃ……」
「冷めないうちに食べたほうがいい」
ガンガディアが食卓に並べた朝食はどれも湯気が上がっていた。それを見たマトリフは急に腹が空いたように思えた。
「……お前が恋人だったらな」
朝起こしてくれて美味しそうな朝食を用意してくれる。そんな恋人がいたらいいのにな、とマトリフはふと思った。するとガンガディアが深くて長いため息をついた。呆れているような顔にマトリフはムッとする。
「なんだよ」
「生活の補助が欲しいなら、恋人よりハウスキーパーを探すべきだ」
「惚れた相手に起こされたり、飯を作ってもらうってのはロマンだろ?」
「そういう事はよくわからない」
相変わらず堅物だなとマトリフは思う。幼い頃からの付き合いだが、ガンガディアはそういった俗っぽいことには興味がないようだった。
「だからよ」
と言いつつ、マトリフはガンガディアの大きな身体に寄り添った。しなだれかかるように筋骨隆々な胸に顔を寄せてガンガディアを見上げる。
「ようやく起きたのかよ、もう朝飯はできてるんだぜ?」
甘えたような声音でマトリフは言う。ガンガディアは驚いているのか目を見開いていた。マトリフはパッとガンガディアから離れて降参するように両手を上げる。
「……ってな感じで言われたらドキッとすんだろ?」
見ればガンガディアは僅かに頬を赤くさせていた。焦ったようにマトリフから目をそらせている。
「おい、なにエロいこと考えてんだよ。むっつりすけべ」
マトリフはニヤニヤしながらガンガディアを肘でつつく。いくら堅物でも関心が無いわけではないらしい。
ガンガディアは平常心を取り戻したのか眼鏡を押し上げていた。
「私はいつも朝食を作る側だ」
「じゃあ恋人を優しく起こしてやれよ」
「そのつもりだ」
そこまで言ってからマトリフはふと思い出す。ガンガディアが好きなのは、マトリフにとっては腹立たしい奴なのだ。マトリフはガンガディアがハドラーを起こして朝食を作るところを想像してしまい、顔が引き攣る。
「どうかしたのかね」
「なんでもねえよ」
マトリフは面白くない気分で食卓についた。並ぶ朝食は美味そうなのに、いつかこれをハドラーのために作るのかと思うと苛立ってしまう。
「そういえば、最近は失恋報告を聞かないな」
突然ガンガディアに言われてマトリフは咽せそうになる。
「以前は月に一回は聞いていたが」
「オレはもう恋なんてしねえんだ」
前回の失恋からマトリフは新たな恋をしていない。それはガンガディアの好きな相手であるハドラーに圧をかけることで忙しかったからだ。
ガンガディアは済ました顔でスープを飲んでいる。そして呆れたように言った。
「そんなことを言って、すぐにまた誰かを好きになるのだろう。君は惚れっぽいから」
「ひとを節操なしみたいに言うなよ」
ガンガディアはそれには答えずに肩をすくめた。マトリフはフォークでスクランブルを口に運ぶ。とろりとした卵は口の中でとろけていった。
***
マトリフにとって誤算だったのは、社内に想像力が逞しい噂好きがいたということだ。
マトリフはハドラーとアバンをくっつけるために、地道な努力を重ねていた。二人がさりげなく一緒になるように仕向けたりと、アバンにハドラーの良いところ(これを探すことに苦労した)を伝えたり、普段マトリフが仕事に向ける情熱の何倍もの熱意を持って取り組んだ。
ところがその努力の結果がこれだ。マトリフはどっと疲れてカフェスペースのソファに座り込んでいる。
原因はある噂だった。それは大抵の噂がそうであるように、事実無根だった。
マトリフはハドラーのことが好きらしい。
そんな噂が流れているという。それを聞いてマトリフは崩れ落ちた。自分の努力が明後日の方向に花咲いたと気付いたからだ。おそらくマトリフがハドラーに嫌がらせのために構ったり、アバンにハドラーの話を振ったらすることが、そういった誤解を生んだのだろう。
しかしその噂を声高に否定したら、余計に白熱するのが噂というもの。マトリフはこの噂がさっさと忘れられることを祈った。唯一救いだったのは、アバンはこの噂を信じなかったということだ。アバンに噂についてさりげなく聞いてみたら、おかしな噂ですねえと笑っていた。
つまりこの噂はマトリフへの精神的ダメージだけを大きく残して終わるはずだった。つまりそれだけでは済まなかったということだ。
マトリフはカフェスペースのソファに姿勢を崩して座る。社内といってもここはコワーキングスペースで、オフィスを持ってない者たちが共有して使っている場所だ。そのために利用者の業種は様々で、マトリフのようなフリーのカメラマンもいれば、アバンのような料理研究家もいた。大型のラウンジやミーティングルーム、それにカフェスペースも併設されている。利用者はある程度固定されているために、次第に打ち解けて仲良くなる者もいた。中にはそれが縁で仕事が舞い込んでくるものもある。マトリフもそれを狙ってこの場所を利用しているのだが、そういった関係であると噂話が流れてくることもある。いつもはそれに耳を傾けるだけであったマトリフだが、ついに標的にされてしまった。
そしてマトリフは運が悪かった。もしマトリフに彼の弟子であるポップの半分でも運の良さがあれば、こんなタイミングの悪い事は起こらなかっただろう。
コワーキングスペースに併設されたカフェスペースは一般客も来る店であった。そしてたまたま、ガンガディアが来た。ガンガディアからすればそこは幼馴染のマトリフがいるし、以前の勤め先での上司であるハドラーもいるので、足が向かいやすい場所ではあった。そのためにガンガディアはこれまでに何度もそのカフェに訪れており、コワーキングスペース利用者とも顔見知りでもあった。
ここからマトリフの運の悪さが加速する。
マトリフはカフェの隅のソファで諦念の心境に至っていたので、ガンガディアが来たことに気付かなかった。ガンガディアはマトリフに気付いていたが、その様子から声をかけることを遠慮した。そして噂好きなある男が、ガンガディアに気付いてその隣の席に座った。その男はガンガディアがマトリフの幼馴染であり、ハドラーとは同僚であったことまで知っていた。そして知っていたからこそ、囁いだのだ。知ってるか? あの二人は恋人同士らしいぞ、と。それも噂の特性であるように、噂に尾鰭がついていて、マトリフの片思いから二人は恋人というまでに変化していた。
ガンガディアは驚きでソイラテをこぼした。思わずガンガディアはマトリフとハドラーを見た。マトリフはソファでこの世の終わりだと言わんばかりに放心しているが、見ようによっては気怠げに座っているように見える。一方ハドラーは、ちょうど椅子から立ち上がって腰を伸ばしていた。それはただ長時間同じ姿勢で座っていたために腰が痛んで伸ばしていただけなのだが、まるで昨日のベッドでの激しい運動にために腰が痛んだように見えなくもない。
ガンガディアはありもしない噂を聞いたために、ありもしない事を想像した。そしてそれが前々からの疑問を一瞬のうちに解決したように思えた。恋多きマトリフから失恋報告を聞かないのは、つまり、恋が成就したということなのではないか。
だがしかし、とガンガディアは正気に戻った。マトリフとハドラーが犬猿の仲であることは周知の事実だ。その二人が恋人同士になるはずがない。だがガンガディアは再び正気を失った。好きの反対は嫌いではなく無関心だという。つまり何かのきっかけで嫌い同士が好き同士になることもあるのではないか。
ガンガディアは人生最大の衝撃を受けているが、マトリフは何も知らずにソファで隕石の衝突を願っていた。全部無しにしてくれと短絡的な妄想に耽っていたのだ。だガンガディアが例の噂を聞いたと知ったら、自分から隕石に向かって衝突していたかもしれない。マトリフがその事実を知るのは翌日のことだ。
***
マトリフはこれまでの人生で反省というものをした事がなかった。過ちがなかったわけではない。だが、例えばいくら失恋しても、己の言動を省みることもなかった。傲慢だと罵られようが、マトリフはそういう生き方を選んできた。
だが、この二日間でマトリフは二度も反省した。一度目はマトリフがハドラーに片想いをしているというクソッタレな噂が流れたとき。そして二度目はその翌日。マトリフはガンガディアにばったり会った。ガンガディアは顔に酷いクマをこしらえていた。仕事が忙しかったのかと問えば、どうも違うらしい。ガンガディアは理由を言いたくなさそうだったが、なんとか聞き出すと、ガンガディアは例のクソッタレな噂を聞いた言った。しかもガンガディアが聞いたのは「マトリフとハドラーは恋人同士」という巨大な尾鰭が付いた噂だった。
「違うからな」
マトリフは即座に否定した。それがかえって怪しく聞こえるのだと思ったが、否定せずにはいられなかった。
ガンガディアはハドラーのことが好きなのだ。それを、マトリフがハドラーと恋人などと聞いてしまって、ショックで眠れなかったのだろう。そのとんでもない誤解を解かねばならない。
「……隠さないでくれ。おめでとうマトリフ。恋人ができて良かった」
ガンガディアは失恋の痛みを堪えながら、健気にマトリフを祝った。だがその失恋はマトリフに対してであり、しかし当のマトリフはそれに気付いていない。ガンガディアの片思いの相手はハドラーだと信じていたからだ。
「本当に違うんだよ。隠すとかじゃねえんだ。ただの勘違いなんだよ」
「勘違い?」
「周りの奴らが勝手に噂してるだけで、オレは誰とも付き合っちゃいねえ」
「……しかし、なぜそんなことに」
ガンガディアは疑うような視線をマトリフに向ける。マトリフが誤魔化すために口先だけで言いくるめようとしているのではないかと思ったからだ。
「それは……」
マトリフは言葉に詰まる。本当のことを話すわけにはいかないからだ。
マトリフはハドラーとアバンをくっつけようとしていた。そのために誤解されて噂になったのだが、ではなぜそんな事をしたかというと、ガンガディアがハドラーを好きだということが気に入らなかったからだ。つまりマトリフはガンガディアの恋路を邪魔した。
ガンガディアはマトリフの幼馴染みだ。大事な友人だ。それなのに、マトリフはその大事な幼馴染みの恋を応援してやれなかった。相手が気に入らないなんて、そんな身勝手な理由で。
言葉に詰まったマトリフに、ガンガディアは無理をして微笑んだ。
「幸せになってくれ」
それだけ言って去ろうとするガンガディアを、マトリフは焦って引き止めた。誤解は解きたいが、自分のやった事は言いたくない。言ったらガンガディアに嫌われてしまう。
「とにかく違うんだよ……」
それしか言わないマトリフを、ガンガディアは信じなかった。あまりの衝撃でガンガディアは寝不足であり、感情的だった。ガンガディアはマトリフを突き放した。
「いい加減にしてくれ!」
突き飛ばされ、マトリフは尻餅をつく。ガンガディアが怒鳴ったのを見たのは初めてで、驚きと同時に怒りも感じた。
「……なんで俺の言うこと信じねえんだよ!」
マトリフは立ち上がると踵を返して早足で逃げるようにガンガディアから離れた。地面にぶつけた尻が痛い。だがそれ以上に胸が苦しかった。ガンガディアはいつもマトリフにとって味方だった。幼稚園で隣に立って手を繋いだあの日から、ずっとマトリフの友だった。喜びも悲しみも共有して、同じ時間を過ごしてきた。
マトリフは息が切れて立ち止まる。ガンガディアは追ってはこなかった。マトリフは浅い呼吸を繰り返して地面を見つめる。
「なんで……」
マトリフは自問する。なぜオレはあいつに嫌われたくないのだろう。それはあいつが幼馴染みだからだ。友だからだ。本当にそうか。本当にそれだけか。
マトリフは息を止める。思いついてしまった可能性を、信じられなかったからだ。それとも信じたくなかったのかもしれない。ガンガディアが友人であることは、ずっと変わらないことだと思っていたからだ。
ガンガディアのことが好きだ。マトリフは胸の内で呟いてから、それがすっと胸に沁みていった。急に霧が晴れたように、ガンガディアへの思いが見えた気がした。
そしてマトリフは悔いた。自分の気持ちにも気付かずに馬鹿なことをしてガンガディアを傷つけてしまった。あんな噂は全くのでたらめで、ガンガディアは悲しむ必要なんてなかったのだ。
***
マトリフはオフィスの椅子を回しながら天井を見ていた。こんな時に限って仕事は暇で、忙しさで感情を麻痺させることも出来ない。
マトリフはガンガディアへ恋をしているとようやく気付いたが、それは同時に失恋を意味していた。ガンガディアはハドラーが好きなのだ。いくらマトリフがガンガディアを好きでも、これは叶わぬ恋だ。もし今ここにハドラーがいたら八つ当たりしていたが、朝から姿が見えなかった。
机の上には現像された写真が散らばっている。アバンから依頼されて撮った料理の写真なのだが、いま見てみるとどうにも野暮ったく見えた。加工で誤魔化すか撮り直すか悩むところだが、決められずにいた。
アバンに聞こうにも、先ほどから姿が見えない。ここは大きなキッチンがあるから、アバンは大抵ここでレシピを考えたり料理したりしている。姿を見ないのは珍しいことだった。
マトリフは背もたれを大きくしならせる。ここでうだうだと考えていても埒があかない。マトリフは立ち上がると写真を集めた。アバンを探しに行くとしよう。ミーティングルームは下の階にあるからそっちにいるのかもしれない。
マトリフは下階へと向かうと廊下を進んだ。いくつかのミーティングルームがあり、ガラス越しにそれらは中の様子がうっすらと見える。アバンは特徴的な髪型をしているから見つけやすいはずだが、ミーティングルームにはいないようだった。
今日は帰ったのかもしれないとマトリフが諦めかけた時だった。小さくアバンの声が聞こえてきた。
「やめろと言っているでしょう」
それは遠く小さな声だったが、確かにアバンの声だった。マトリフは振り返る。ミーティングルームのさらに奥には小さな給湯室があった。
まさか、と思いながらマトリフはそちらへ歩く。その間も給湯室からは何やらゴソゴソと物音がしていた。さらにはアバンではない声も聞こえてくる。聞き覚えがあると思いながらマトリフは給湯室を覗いた。
「あっ……」
アバンが小さく声を上げる。そのアバンへハドラーが覆い被さるようにしていた。ハドラーの手がアバンの手を掴み、壁に押し付けるようにしている。マトリフは思わず二人がズボンを履いているか確認した。確認してからハドラーの尻を蹴った。
「てめえ何してやがる!」
すると慌てたのはアバンのほうだった。アバンはズレた眼鏡を直している。
「違うんですマトリフ、これは」
「邪魔をするな!」
ハドラーに噛み付かんばかりに言われてマトリフもキレる。見上げるほど大きいハドラーの胸ぐらを掴んだ。
「会社で盛ってんじゃねえこの三流筋肉!」
「マトリフ待ってください」
アバンに止められてマトリフはハドラーから離される。アバンは乱れた髪を直しながら、小さく息をついた。
「あの、こんな場所でするべきではありませんでしたが、無理矢理されたわけではありません」
アバンは顔を赤らめて気まずそうにしながら言った。マトリフは驚いて数秒固まってしまう。
「はあ?」
「……付き合っているんです、私たち」
「いつから!?」
「……ついさっき、です」
聞けばハドラーがアバンをこんな隅の給湯室に連れてきて、告白をしたのだという。マトリフが椅子をクルクル回している間にオフィスラブが発生していたということだ。
ハドラーの告白にアバンは頷いたという。感激のあまり二人は熱い抱擁、熱い口付けを交わし、勢い余ったハドラーがアバンを壁に押し付け、その身体に手を回したところでアバンの制止が入った。マトリフが聞いたのはその声だったらしい。
「はあ……まじかよ……なんだそれ」
マトリフは行き場のない感情が昂った。こっちは自覚したばかりの恋が失恋したばかりだというのに、オフィスでラブしてカップル成立とはどういうことなのだ。ハドラーばかりがモテるのはおかしいだろう。確かにハドラーはいい身体をしているし、長い銀髪は見事だ。鼻水さえ垂らしてなければいい面構えかもしれない。だがマトリフは納得できなかった。
「大丈夫ですかマトリフ」
「大丈夫じゃねえんだよ」
マトリフは持っていた写真をアバンに押し付けた。リテイクが必要なら言ってくれと言い残してマトリフは給湯室から出る。マトリフはそのままエレベーターに向かい、外へと出た。
***
遊び場といえば公園だった。幼い頃のマトリフとガンガディアは毎日のように近所の公園に集まっては、日が暮れるまで遊んだ。
マトリフは日が沈んだ公園のブランコに腰掛けていた。この公園は幼い頃に遊んでいた公園ではないが、マトリフの家から徒歩数分の距離にあって、ガンガディアの家からも近い。二人が揃って上京したときに見つけた公園で、それ以来ここの公園はマトリフがガンガディアを呼び出して失恋報告をする場になっていた。
街灯に虫が集っている。近くは住宅地だから静かだった。いつもはカップルや中高生がベンチにいることもあるが、今夜はマトリフ以外に誰もいなかった。
マトリフはぼんやりと明かりを見つめる。ガンガディアへの失恋は初めて知る痛みを伴っていた。これまでの失恋だって十分に悲しかったはずなのに、まるで初めての失恋であるかのように胸が痛い。
「マトリフ」
その声にマトリフは飛び上がった。慌てて振り返ればそこにいたのはガンガディアで、驚きのあまりマトリフは声が出なかった。
「驚かせてすまない。君の家に向かってたら姿が見えたから」
「……何の用だよ」
ガンガディアは以前のようにブランコの周りにある囲いに腰を下ろした。マトリフも浮かせた腰をブランコへと下ろす。
「ここで何度も君の失恋を聞いた」
「だからなんだよ」
今まさに失恋中のマトリフはつっけんどんに言い返す。しかも目の前にいる相手に恋をして失恋したのだ。この失恋は報告できないだろう。
「昨日のことはすまなかった。今日は私の失恋を聞いてくれないか」
苦笑しながらガンガディアが言った。そこでマトリフはハッとする。ハドラーとアバンが恋人になったことをガンガディアも知ったのだろう。昨日は噂のせいでマトリフとハドラーが恋人だと思い込んでいたが、その誤解もこれで解けたはずだ。
「いいかねマトリフ」
「ああ、好きにしろよ」
ガンガディアは俯きがちにぽつりぽつりと語り始めた。その内容は恋をした相手がいかに素晴らしいかというもので、頭が良いとか笑顔が素敵だとか言葉は尽きない。それは恋をした者が陥る罠であるが、ガンガディアは恋をした相手を相当に美化して見ているようだ。ガンガディアにはハドラーがそんな風に見えていたのかと思うと悲しみが深くなる。本当は自分がそんな風に愛されたかった。そう思うと涙さえ滲んでくる。
「……そこで、だが」
たっぷりと語ってからガンガディアは一区切りつけた。
「その好きな人には恋人ができたわけだが、私は告白もしていないし振られてもいない」
「だから?」
「気持ちを切り替えるために、告白しようと思う」
「振られるとわかっているだろ?」
ガンガディアは頷いた。マトリフにはわからない。わざわざ悲しみが増すことをする意味があるのだろうか。
だが今夜は無理だろうとマトリフは思う。あの二人は今夜、給湯室の続きをしているだろう。今度こそ邪魔をすればただでは済まない気がする。マトリフは控えめに提案した。
「だったら明日にでも……」
「いや今夜だ」
食い気味に言われてマトリフはガンガディアを見る。ガンガディアからは強い決意が感じられた。ガンガディアは真面目だが、一度思いを決めたら猪突猛進なところがある。マトリフはなんとか説得しようとした。
「いや、今夜はまずい」
「なぜ」
ガンガディアは真剣そのものだった。これまでずっと片思いを貫いていたくせに、いざ失恋したら告白するとはどういう心境だ。マトリフは給湯室で見たことを言おうかとも思ったが、さすがに憚られた。
「なぜって、オレに言わせんなよ。邪魔したら悪いだろ」
ガンガディアは訝しむようにマトリフを見つめ返した。
「私はずっと片思いをしてきた人に告白する」
「わかってるって」
何回も言うなとマトリフは思う。ガンガディアがハドラーを好きなことくらい知っている。それを思い出す度に胸がズキズキと痛んだ。
「だから、それをせめて明日にしろって言ってるんだ」
「今すぐに出来るのに?」
「電話か? お前なら会って直接に言うのかと思った」
電話なら無視されて終わりかもしれないが、もし最中に出たらややこしいことになる。マトリフはうっかりその状況を想像してしまって口を曲げた。
「電話? なぜわざわざ電話を?」
「じゃあどうやって言うんだよ」
二人の間に微妙な空気が流れる。話が噛み合っていないときに感じる独特の気まずさに、二人は見つめ合った。ガンガディアが先に口を開く。
「……君に今夜予定が? すぐにどこかへ行くのかね」
「は? オレ?」
なぜ急にオレの話になったのだとマトリフは首を捻る。
「お前はハドラーに告白するんだろ?」
するとガンガディアはあっと口を開けた。それは何かをうっかり忘れていて、今やっと思い出したという様子だった。マトリフは何かが食い違っていたのだとようやく気付く。
するとガンガディアが咳払いをした。気まずさをどうにか凌いでいるようでもある。マトリフはガンガディアの言葉を待った。
あたりがしんと静まり返る。街灯に照らされて、世界に二人きりでいるようだった。鼓動が速くなる。ガンガディアはマトリフを見つめて言った。
「私は君が好きだ」
***
「え? オレ?」
意味がわからなくてマトリフは声が裏返る。思わずブランコから立ち上がっていた。ガンガディアは冗談を言っている様子はない。
マトリフは混乱する。以前にマトリフはガンガディアに片思いの相手がいると聞いて問詰めた。そして相手がハドラーだと聞き出したのだ。だからこそマトリフはハドラーに圧をかけたり、アバンとくっつけようと画策してきた。
「お前が好きなのはハドラーだろ!?」
「それは嘘だ」
さらりと言ったガンガディアにマトリフは目を剥く。理解が追いつかなくなってきた。なぜ嘘を言う必要が、と思ったが、そこでマトリフは自分がこれまで散々にガンガディアに失恋話を聞かせてきたことを思い出した。好きな相手の失恋話を聞かされる辛さをマトリフは体験したばかりだ。それにマトリフはしつこくガンガディアの片思いの相手を聞き出そうとした。そのようなことの積み重ねがガンガディアに嘘を言わせたのかもしれない。
「すまない」
頭を下げるガンガディアにマトリフは手のひらを向ける。ちょっと待ってくれというジェスチャーのつもりだったが、ガンガディアは何を思ったのかマトリフの手を両手で掴んだ。
「君のことが好きだマトリフ」
「待て待て待て。オレはてっきり、アバンとハドラーがくっついたからお前は失恋したのかと」
「アバンとハドラー部長が恋人になったのかね!?」
今度はガンガディアが素っ頓狂な声を上げた。どうやらガンガディアはその最新オフィスラブを知らなかったらしい。ガンガディアはまだ例の噂を信じたままで、マトリフがハドラーと恋人だと思っていたようだ。
そこで二人は一旦冷静になって状況を整理した。アバンとハドラーが恋人同士。ガンガディアがハドラーを好きだと言うのは嘘。そこまで話してから、ガンガディアは気の毒そうな顔をした。
「……つまり、君はまた失恋ということだね」
「は?」
「ハドラー部長はアバンと恋人になったのだろう。ということは君は……」
「ちょっと待て。オレがハドラーを好きだなんていつ言ったんだよ。あの噂はまるっきりデタラメだ」
「そ、そうだったのかね」
ガンガディアはようやく理解したように頷いた。そして今度はマトリフがガンガディアに訊ねる。
「で……お前はオレのことが好きなのか?」
「ああ。私は昔から君のことが好きだった」
ガンガディアは昔を懐かしむように目を細めた。マトリフもつられて昔のことを思い返す。マトリフの一番古い記憶にいるのはガンガディアだ。はにかんだ笑みを浮かべるガンガディアと一緒にいた覚えがある。
「幼稚園で君とはじめて手を繋いだときのことを覚えているだろうか」
言われてマトリフは思い出そうとするが、手を繋いだという記憶はあるものの、それがどんな状況だったかは覚えていなかった。
「入園式が終わってすぐのことだ。教室に戻るために隣の人と手を繋ぎましょうと先生が言った。しかし私の隣の子は私と手を繋ぐのを嫌がった。あの頃から私は体が大きかったし、見た目から怖がられることが多かった。私はまたかと思っていたが、やはり悲しかった」
そこまで聞いてマトリフはその時のことをぼんやりと思い出してきた。マトリフは後ろでそれを見ていたのだ。ガンガディアは大きな背を丸めて、繋がれない手は震えていた。
「すると君が手を繋いでくれた。一緒に行こうと言って手を引いてくれた」
「そんなこと」
「私は嬉しかった。本当に、嬉しかったんだよ」
マトリフは大それたことを考えやったわけではない。みんながガンガディアを避ける理由がつまらないと思っただけだ。
マトリフは妙に照れ臭くなって、茶化すように言った。
「幼稚園が初恋って……お前……結構マセガキじゃねえか」
マトリフはふざけて笑いながらも、その笑みが本当の笑顔に変わっていった。マトリフの恋は失恋ではなかったからだ。しかしガンガディアは表情を曇らせた。
「すまない。私に好かれても迷惑だろう」
突然に謝るガンガディアに、マトリフは首を傾げた。
「なんでだよ」
「私は思いを伝えて気持ちの区切りをつけたかっただけだ。さあ振ってくれ」
ガンガディアは振られる前提で告白をすると言っていたことを思い出す。しかしそれはマトリフに恋人がいると思っていたからだ。恋人なんていないのだから可能性はあるだろうに、ガンガディアは変わらず振られる気でいるらしい。
「オレはまだ返事を言ってねえだろ」
「しかし」
「しかしもヘチマもあるか。オレもお前が好きなんだよ」
マトリフは言ってから顔が熱くなるのを感じた。だがガンガディアはスンと澄ました顔をしている。
「そういう嘘はいけない」
「お前が言うな。それに嘘じゃねえよ」
「しかし」
「おめえはそれしか言えねえのか」
マトリフはガンガディアの顔を両手で挟んだ。そのまま勢いよく唇を重ねる。そのまま唇をこじ開けて舌を差し込めば、ガンガディアの舌先に触れた。その舌を絡めて身体を擦り寄せる。最初は驚いていたガンガディアだったが、次第に自ら舌を動かし、顔の角度を変えてさらに深く唇を重ねてきた。いつの間にかガンガディアの手はマトリフのうなじに回っている。反対の手はマトリフの腰にあり、それはまるでマトリフを逃さないようにしているかのようだった。
マトリフはだんだん息が切れてくる。しかし身体を離そうにもガンガディアの手に押さえられて離れられなかった。
「がっ……ん、っ!」
マトリフはガンガディアの身体に縋りつく。ちょっと待ってくれという言葉さえ口付けに飲み込まれていった。
***
ハドラーは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の老ぼれを除かねばならぬと決意した。ハドラーにはガンガディアが言うあの老ぼれの良さなどわからぬ。アバンの友だという理由だけで今まで狼藉を見逃してきたが、もう我慢の限界だった。
「まあ、いいじゃないですか」
アバンは大らかに言う。
「私たちがこうしているのは、マトリフのおかげでもあるんですし」
そう言って繋いだ手をぎゅっと握るアバンを、今すぐにでも抱きしめたいのをハドラーはグッと堪えた。
ハドラーは長い期間をアバンに片思いしてきた。ハドラーなりにアバンへ自身の存在をアピールしてきたが、一向にアバンが靡くことはなかった。それが今日になって突然に二人が恋人同士となったのは、マトリフの存在があったからだ。マトリフは何故かハドラーとアバンをくっつけようと、あれこれ手を回しており、それがきっかけでハドラーは思い切ってアバンへと告白した。
「マトリフはいわば、恋のキューピットですよ」
「あんなキューピットがいてたまるか」
ハドラーはマトリフの意地の悪い顔を思い出してムカムカした。確かにマトリフの行動がなければ、ハドラーは告白出来ていなかった。だが、告白に頷いたアバンを抱き寄せ、熱い口付けをかわしていたハドラーの尻をマトリフが蹴ったことを、ハドラーは怒っていたのだ。
そこでハドラーは決意した。マトリフに蹴り返さねばならないと。
「本気なんですか?」
アバンが呆れたように言う。しかしこれは沽券に関わる問題なのだとハドラーは思った。そこでハドラーはオフィスでマトリフを探したが、マトリフは既にいなかった。もう帰ったのでしょうとアバンが言うから、アバンに道案内を頼んでマトリフの家に向かっているところだった。
「それ、どうしても今日にやらないと駄目なんですか?」
アバンは不満そうに言う。既に日は暮れていた。アバンとしては昼間の給湯室の続きをしようと思っていたのに、ハドラーがどうしてもマトリフの尻を蹴飛ばしたいという。ここは保育園じゃないんですよ、と思わず言いたくなるほどだった。
「こっちで道はあっているのか?」
「ええ、ほらそこの公園のすぐ近くなんですよ」
アバンは少し先に見えた公園を指差す。以前にマトリフの家に行ったときに目印にした公園だった。公園は電灯で明るく照らされている。
「でもハドラー、あなたが本気でマトリフを蹴ったら大怪我ですよ。あなたはマトリフに蹴られても痛くないでしょう」
「痛いとか痛くないとかの問題ではないわ。これを放っておくとあの老ぼれがつけ上がる」
だからって家にまで押しかけるなんて、と呆れるアバンの視線に驚くものが飛び込んできた。アバンはなんの気はなしに公園を見ていたら、ブランコのすぐそばにマトリフがいたのだ。それも一人ではない。ガンガディアと一緒にいるのだ。それもただ一緒にいるだけではない。二人は抱き合ってキスしている。
「あ……」
アバンは思わず短い声を上げた。するとハドラーがあたりに視線を走らせ、公園の二人を見つけた。
二人は思わず立ち止まっていた。ガンガディアはマトリフのうなじと腰に手を回し、何度も角度を変えて口付けを交わしている。マトリフはガンガディアの身体に縋りついているようだった。
「……今からあいつの尻を蹴っていいよな」
同じ状況で尻を蹴られたハドラーが言う。
「いや、終わるまで待ってあげましょうよ」
「終わりそうにないぞ」
「彼らもこうなるまで色々あったんですから」
訳知り顔でアバンは頷く。ハドラーは苦虫を噛み潰したように二人のキスを見つめていた。