夢に風早巽が出てきた。内容は覚えていないがそれだけは確かで、目が覚めた瞬間ひどく気分が悪かった。
目覚めが悪いとまるでその日一日にケチがついたように感じられる。実際にはそんなことはないのだろうけれど、いつもより肌のコンディションが悪いような気がするとか、たまたま目にした根拠のなさそうな運勢占いで最下位だったとか、全てが悪い方に転がっているように感じられる。
苛立ちながらも予定されているレッスンに向けて準備をする。朝食は軽めに、身支度はしっかりといつも通りに。着替えをすませてベッドを軽く整えたあたりでHiMERUは目を背けていた事実を認めざるを得なくなった。体調が悪い。熱はなさそうだがいつもよりは体温が高くなっているのを感じるし頭も重い。今朝の最悪な夢もこのせいか、あるいは夢のせいで体調を崩したのか。どちらにせよ最悪には変わりない。
一瞬悩んだが、HiMERUは予定通りレッスンに行くことにした。レッスンは午前だけだし明日は取り立てて用事もない。休むほどつらいわけではないし、多少悪化しても問題ないだろう。
そう思ってレッスン室に行って燐音と顔を合わせた瞬間機嫌悪そうだなァなどと言われてしまった。悪いのは機嫌ではなく体調だが、この男の観察眼に内心舌を巻きつつ素知らぬ顔を貫く。何を言っても墓穴を掘ることにしかならなさそうなので、聞かなかったことにするのが一番手っ取り早い。無視された燐音は気を悪くした様子もなく、愉快そうに笑っていた。
「おはようございます」
こはくに声をかけると溌剌とした挨拶が返ってきて少し心が慰められた。ニキはまだいない。バイトに精を出す彼が遅れ気味なのはいつものことなので今さらそれを気にかけるメンバーはいなかった。
全員が揃ってレッスンが始まると重く全身にへばりついていた倦怠感は気にならなくなった。目の前の課題に集中すれば簡単に忘れてしまえる、その程度のもの。そのうちに今朝の夢のことも燐音の言葉もすっかり忘れていた。メンバーもいつも通りで、HiMERUの体調に気づいた様子はなかった。
「──HiMERUはお先に失礼しますね」
「おう、お疲れさん」
レッスンが終わり、復習をするこはくとそれに付き合うつもりの燐音、エネルギー補給と言って軽食を食べ始めたニキを置いてシャワールームに向かう。気分は悪くなかったがいつもより汗の量が多いので、やはり影響はあるようだ。寝込むほどではないにしろ今日はもうゆっくり過ごすべきだろう。
「おや、HiMERUさん」
「──巽」
廊下の向こうから歩いてくるその姿を目にした瞬間、まざまざと朝の最悪な気分が蘇った。せっかく忘れられたのに、まったくタイミングが悪い男だ。そんなHiMERUの内心などつゆ知らず巽は話しかけてくるしHiMERUも知られたいとは思わない。結果、表面的には旧知の穏やかな会話が生まれることになる。けれど今日はそんな見せかけの会話すら煩わしかった。すみませんがと巽の声を遮る。HiMERUはレッスン着のままで、汗もかいている。それが意味することに巽はすぐに気づいた。
「ああ、こちらこそすみません。シャワーに行かれるところだったのですね」
「そうですね」
「しっかり温まってくださいね」
「分かっています──それでは」
巽の横をすり抜けやれやれと息を吐く。どっと体が重くなった気がした。早くシャワーを浴びて、部屋に戻る前にドリンクや食料を買いに行った方がいいだろうか。
「──あの、HiMERUさん」
嫌な出会いを忘れるべく様々に算段を立てていたのに後ろから声をかけられ唇を噛む。嫌々ながら振り向くと、心配そうな表情の巽がこちらを窺っていた。
「もしかして体調がよろしくないのですか?」
一瞬思考が止まる。そしてすぐさま先程の会話とも呼べない会話を思い返す。何かしくじっただろうか。いつもより取り繕う気力が少なかったのは事実としても、そこまであからさまだっただろうか。
「──そんなことはありませんよ。何故ですか?」
「いえ、体調が悪いのに自覚がない子どもたちの雰囲気と似ているような気がして……俺の勘違いだったようですな。呼び止めてしまい申し訳ありません」
「……いえ、お気遣いありがとうございます」
笑顔はいつも通りだったはずだ。声色も。シャワーを浴びながら、部屋に戻りながら今日の自分を振り返っても大きな問題は見つからない。
偶然だ、そうに決まっている。部屋に到着すると同時にそう結論づけたはいいが、売店に寄るのをすっかり忘れていた。再び部屋を出るのはあまりにも億劫で、まあいいかと諦めた。ただの水なら買い置きがある。ベッドに腰を下ろすと一層体が重く感じられた。柔らかな布団の誘惑に抗えずこのまま一度眠ってしまおうかと体を倒そうとしたとき、ドアがノックされた。今室内にはひとりなのでHiMERUが対応するしかない。一瞬居留守してやろうかという誘惑が過ったが、同室者への用件である可能性もあるのでそれはできない。
「──よォ、さっきぶり」
「……はあ」
体を引きずるようにしてドアを開くとそこにいたのは燐音だった。何か伝達事項でもあるのだろうか。けれど燐音は何も言わず、じっとHiMERUを見つめるだけ。用事があったのではないですかと促すと、にっと広角を上げた。
「なーんか調子悪そうだったからな、オミマイ」
「──」
「心配しなくても二人は気づいてねェよ、多分。まあこれ飲んでしっかり寝とけ。じゃあな」
スポーツドリンクのボトルを押し付けると燐音はあっさり去っていった。釈然としないままドアを閉じ、キャップを捻る。冷えたスポーツドリンクが体に染み渡った。まだ半分以上残っているボトルをベッドサイドに置き、今度こそベッドに潜り込む。目を閉じるとすぐにとろとろとした眠気がやって来た。
眠りの淵を揺蕩いながら考える。巽に気づかれたこと、燐音に気づかれたこと。それを自身の不手際と見るべきか彼等の観察眼故と見るべきか。どちらにせよHiMERUにとって嬉しくない事実だ。
けれど、巽だけじゃなく燐音も気づいたということは多少HiMERUの心を慰めた。もしも巽だけが気づいたなんてことになったら──それを悪くないと思ってしまったら。
そこから先は考えることを放棄するようにHiMERUは眠りに落ちた。