🧛kicg2 ハンター仲間にピアノを弾けるひとがいた。そのひとは千切より縦にも横にもひと回り以上大きくて、大きな背中を丸めて宿にある古びたピアノを弾いてくれた。その風体とは裏腹に奏でる音は優しくて、それがなんだかおかしくて会うたびに千切はピアノを弾いてくれとねだった。レパートリーは少なくて、どれも耳で聞いて覚えたから正しくないかもしれないし曲名も知らないと言っていた。曲名も正しい楽譜もどうでもよかった。ただそのひとのピアノが好きだった。
千切がねだると少し困ったような、でも嬉しそうな顔をしてピアノを弾いてくれたあのひとはもういない。数年前に吸血鬼に殺されてしまった。
「──……」
ピアノの音が聞こえる。目に入ってきた見慣れない天井に、眠っていたのだと遅れて気付いた。普段泊まる宿とは明らかにランクが違う内装の天井、壁、そして寝心地のいいベッド。異常事態であると、それは把握できるのに焦りは生まれない。このままもう一度眠ってしまいたいくらいだったが、ここはどこだろうとゆっくりと視線だけを動かす。室内は薄暗く、小さなランプがいくつか灯っている。窓らしき場所には重厚なカーテンがぴったりと閉じられていて朝か夜かも分からなかったが、なんとなく太陽が出ている時間なような気がした。
「──起きたか?」
「!?」
気配のないところから急に声をかけられて反射的に起き上がろうとしたが、力を入れただけでぐるりと目が回りそれは叶わなかった。夢から覚めたように急激に意識がクリアになったのに体が追いつかない。見知らぬ場所で眠っていたという事実に遅れて焦りが生まれた。
「急に動かない方がいいと思うぞ」
遅かったようだけどな、と笑い交じりの声が聞こえた方になんとか顔だけを向ける。薄暗い部屋に男がひとり立っている。どこかで、と記憶の糸を手繰ってすぐに思い出した。昨晩狙った獲物、吸血鬼だ。
「お前……」
「カイザーだ。名乗ったのだからちゃんと呼んでくれ、ヒョウマ」
ベッドサイドまでやってきたカイザーは千切を抱き起こし、背中にクッションを挟んでくれた。その手つきは慈しみに溢れていて、額にかかった前髪をそっと払う手も優しく、それが千切には恐ろしいばかりだった。何故見知らぬ部屋に吸血鬼と一緒にいるのか、肝心なところの記憶は曖昧だ。
「しばらくは大人しくしていろ。人間に血を与えたのは初めてで、俺もどうなるかよく分からないんだ」
「血……」
「覚えていないか? 俺の血をおいしそうに舐めていただろう」
ここから、とカイザーは自分の首筋を指さす。そこには鮮やかな青い薔薇が描かれており、それを見た瞬間どっと記憶が押し寄せた。夜の薔薇園、ナイフ、むせ返りそうな薔薇と血の香り、青。
「思い出したようだな」
カイザーはまるで古くからの友人のような気軽な口調で話を続けた。体調が落ち着くまではここにいろ、その間の面倒は俺が見る、という言葉だけを聞けば親切な男だという感想だけで終わっただろう。しかしこいつは吸血鬼だ。ハンターになったときから吸血鬼に殺される覚悟はしているが、こうして家に招かれて看病される覚悟はしていない。かすれた声でどういうつもりだ、と聞くとカイザーは笑みを濃くした。
「ヒョウマが気に入ったんだ」
「……」
「気に入ったのならそばに置いておきたいと思うのは普通のことだろう?」
「……俺を、吸血鬼にしたのか」
吸血鬼は人を襲い血を奪う。しかし稀に自身の血を与えて人間を吸血鬼にすることもある。それができるのはある程度力がある吸血鬼に限られるから事例はそう多くない。しかしこいつはかのミヒャエル・カイザーなのだからそんなことはお手の物だろう。何より、本能的に悟っていた。自分はもう人間ではない。
吸血鬼にされたという事実を嘆くべきなのだろう。ハンターとしての千切が根底からひっくり返ってしまう。なのに、どうにもそういう気持ちにならない。混乱はしているが、それだけだ。それはもう千切が吸血鬼になってしまったからなのか。カイザーを恐ろしく思う気持ちは恐怖ではなく畏怖なのか。もう人間ではないと分かるのに、意識だけはまだ人間のままでいるような感覚が不快だった。
「さて、俺にもよく分からない」
「え?」
「俺は人間に血を与えたことなんてないからな。おまけに手順もめちゃくちゃだ。あんな方法で血を取り込んだ人間の話なんて聞いたことがない。だからヒョウマがどうなるか、俺にも分からない」
悪いな、とまるで悪いと思っていない顔で言われて、それに怒りが湧くこともなかった。ただこの男は千切のことを気に入ったといいながらどうでもいいのだと理解した。
「多分、肉体的にはほぼ吸血鬼になっていると思う。だが正確には吸血鬼と人間が混じっている状態というのが近いだろう」
「……なんだそれ」
「さあな」
訂正する。どうでもいいというより、このまま千切がどうなろうとそのままそれを受け入れるのだろう。人間交じりの吸血鬼が物珍しいだけだ。千切が興味深い生き物として生きていればそれなりに扱い、死んでしまったらおしまい。その過程と結果を面白がっているのだ、この吸血鬼は。
ぼんやりとしていた心にじりと焼けるような感覚が沸き上がった。
「喉が渇いた」
唐突な千切の言葉に少し目を丸くしたカイザーは、すぐに分かったと立ち上がった。
「血と水、どちらがいい?」
「水」
即答した千切に笑いながら一度部屋を出たカイザーは、数分で水で満たされたグラスを持って戻ってきた。飲ませてやろうと言われて抵抗したかったが、まだ体に力が入らず受け入れるしかなかった。始祖様に世話を焼かせていると思って溜飲を下げるしかない。よく冷えた水が喉を落ちていく感覚に、自分が渇いていたことを自覚させられた。
「──さあ、疲れただろう。もう一度眠るといい」
「別に平気だ」
「いいや、お前は眠いはずだ」
本当に眠くない。そう思っていたはずなのに背中からクッションを抜き取り横にされるととろとろとした眠気が忍び寄ってきた。部屋が暗いのがよくない。そう思うがカーテンを開けて欲しいとは思えない。その向こうにあるだろう太陽を想像すると嫌悪感が生まれた。
「側にいるから何かあったら声をかけろ」
カイザーにそう言われるころにはもう半分眠っていて、夢うつつに遠ざかるカイザーの気配を感じた。側にいるというのは本当のようで、ドアの開閉音は聞こえない。ギッと何かを引きずるような音がして、やがて楽器の音が流れ出した。ピアノだ。あまり起伏のない穏やかな旋律に空気を揺らすだけの音量は子守唄のようだ。
夢の世界に向かいながら、目を覚ます前に見ていた夢のことを思い出した。古びた壊れかけのピアノの音。ところどころ調律がおかしくて、でもそれすらもひとつの音楽のようだった、あの優しいピアノ。
音がおかしくても旋律が間違っていても、千切はあのひとのピアノが好きだった。そのはずなのに、今自分が思い浮かべている旋律があのひとのものなのかカイザーのものなのか、千切には区別がつかなかった。
優しい旋律は鳴り止まない。薔薇の香りがするような音に包まれて、千切はことんと眠りに落ちた。