空閑汐♂デイリー800字チャレンジ：26.1　受験シーズンもそろそろといった三年の秋、放課後になっても教室から出ていく生徒は少なかった。そしてそれ故にその暴挙のような男の言葉を耳にした生徒というのもまた、少なくなかったのだ。
「ヴィンツェンツ・シエン・フェルマー！　俺と浮気してくれ！」
「わかった！」
　勢いよく教室の引き戸が開かれたと思えば、フェルマーの名を一字一句違わず口にする頬を腫らした男が自慢の腹筋をフルに利用したような伸びのある大声でとんでもない事を叫ぶ。そしてその相手であるフェルマーもまた、神が自画自賛する程の美貌に笑みを湛えて頷いて。そんな唐突に繰り広げられた謎の寸劇とも思える会話に、教室はどよめいていた。
　教室がどよめこうが静まろうが、高師は基本的に我関せずを貫く事が多いものの――流石にこの出来事を無視出来る程の図太い神経は持ち合わせていない。何故なら、この教室をどよめかせた二人の男のうちの片割れは同じ部活の同期という関係で、もう一方は普段高師を懸想していると公言して憚らない男であった為である。
「……篠原、何が起こってるんだ」
　こういう時は篠原だ、とばかりに同じクラスで同じ部活に所属していた男へと囁く。彼もまた困ったように笑みを浮かべながら「多分だけどな」と口を開いた。
「九割九分、空閑と喧嘩しただろアレ」
　アレ、と指差したのは浮気しようなどととんでもない事を口にしていた汐見で。篠原が指で示した人物は完全に殴られたものと分かるような頬の腫れを気にする事なく教室の入り口で彼の元へと駆け寄ったフェルマーと戯れている。
　あれ、パイロットコースの汐見だろ。汐見って彼女持ちだったのか！？　あんな堂々とした浮気宣言見たことねぇよ。汐見君とフェルマー君って絵になるんだけど、汐見君は顔どうしちゃったの？
　そんなクラスメイト達の囁き声が高師の耳にも届き、横目で入口へと視線を向ければ戯れのようなハグを交わす汐見とフェルマーの姿。そしてそれを取り巻くギャラリーの一部は何故だか自身の端末で写真撮影までしている。そんなギャラリーすら気にする事なく側から見ればいちゃついているように見える二人の男に篠原はため息混じりで足を向け――仕方なしに高師も同じように自身の机から重い腰を上げた。
「お二人さん、とりあえず静かな所に行くぞ。あと汐見お前、空閑はどうしたよ」
　汐見へと呆れたように声を投げた篠原に、舌打ちひとつ零した汐見は「道場の床に沈めた。まだ居るかは知らん」と冷たい声で言葉を放つ。その声色には彼の怒りが滲んでいるようで、高師は自身の頬が引き攣るのを感じていた。
　そもそも、汐見の顔を殴るような芸当が出来る人間は、この学校に一人しかいない上、その一人もどうしようもない程に頭に血が昇らなければ彼の顔を殴るような事はしない。
　汐見を殴る事が出来るであろう唯一と言ってもいい空閑は、高師から見れば温厚を絵に描いたような人物で。時折人を煽るような言葉を意識的に使う事もあるが、そんな彼が汐見を殴るというのは一体どんな喧嘩をしたのだか。思わず高師は大きな息を吐き出していた。
　高師の隣で同じようにため息ひとつ溢した篠原は「俺は空閑の方様子見てくる、高師はそっちの浮気カップルの事情聴取頼むわ」とだけ言い残し、三人の男たちへと背を向け道場へと足を向けたのだ。