空閑汐♂デイリー【Memories】16 手を伸ばせば後少しで届きそうだった夢が、指先から零れていったあの日から一年が経った。傷跡こそ残ったが、後遺症と言えるような不具合もなく――医者からもう大丈夫だと言われた日に「鉄棒で大回転も出来ますか?」と訊いてみた空閑へ、医者は笑って頷くという太鼓判でもって放免されていた。
「空閑、明日の授業俺の代わりにやってもらって良いか?」
「一年の航空機概論でしたっけ? 良いですよ」
そうして空閑は、古巣でもある国際航空宇宙学院日本校の高等部へと戻り吉嗣のアシスタントとして日銭を得ているのだ。
空閑が軌道ステーションの医療センターから地球へと移る入院先に決めたのは、日本校に併設された医学部附属病院で。そこで空閑を迎えてくれたのが、吉嗣だった。
「実家と関係良くなかったのは担任だったから知ってるし、お前が此処を選んだって事はどうせ色々拗らせてんだろ」
そう面倒臭そうに口にした吉嗣は入院に関する手続きの殆どを対応し、退院後の住居として教員宿舎に与えられた自宅の一部屋を提供し、更にはそのまま此処で働けばいいと空閑へと提案してくれて。
「まぁ、最終学歴が航宙士学院中退になっちまってるから正職員じゃなくて非常勤のアシスタントみたいな扱いになるけどな。この先の事を落ち着いて考える時間にして、道を決めたら辞めれば良い」
「……何で、ここまでしてくれるんですか」
リハビリに通いながらどこか焦燥感に苛まれていた空閑に、なんでも無いようにそう提案した吉嗣へ思わず問えば彼は不思議そうに瞳を瞬かせ「三年間お前らの――お前の頑張りを見てきたからなぁ」と言葉を紡いだ。
「お前は俺の教え子だし、入学から卒業までトップクラスの成績を維持してたのも知ってるし、その努力がたった一つの躓きで全部ダメになりそうだって事を知ってて無視出来る程薄情じゃないだけだ」
重ねられた言葉に、空閑はあぁ、と息を吐いていた。目指していたものが指から零れ落ちたあの日、空閑は全てを喪ったと思っていたのだ。パイロットになる夢を絶たれ、半身のようにも思っていた愛する男を突き放して、自分にはもう何も残っていないと。
それでも空閑には、七年半で得た知識とリハビリで不自由なく回復した身体がある。それを教えてくれたのは、吉嗣だった。そして、ようやくあの軌道ステーションで告げられた言葉を思い出したのだ。
――リハビリで全快したらウチに来てくれないかなって下心だから。
それは軌道警察局に所属する男の言葉だった。その言葉が社交辞令だったのか、本気だったのかは解らない。それでも、空閑にとってそれは新たな道標となっていた。
パイロットになれなくても、オーベルトで暮らす手段はある。最後に交わした汐見との言葉を、思い出す。涙を流しながら、それでも空閑の言葉を尊重し――絞り出すように、口にした言葉を。
「吉嗣先生。俺、来年軌道警察局の試験を受けて見ようと思うんです」
三十八万キロ先で、再び出逢う事が出来たなら。そして彼が、空閑を探してくれたなら。その時はもう一度、心の中で燻る恋を告げようと決めたのだ。