「どうぞ、お入りください」
馥郁たる紅茶に琥珀の蜜をひとしずくたらしたような、やわく甘い声が耳に響く。
久々に直接顔を合わせて、ホテルで食事を楽しんだ後、部屋に招き入れられる。自分のことを、友人として以上に好きだと告げる相手から誘いを受けるその意味を、流石に理解しているつもりだ。
チェズレイのいる部屋の中と、僕が佇んでいる廊下。
隔てる扉の内側に足を踏み入れることがどういうことがわかっているからこそ、思わず足を止めた。
そんな僕に気付いているのに、視線で促されることすらなく、チェズレイはただその場所に在り続ける。
いっそその手で引き寄せてくれれば……! 責任転嫁みたいに浮かぶ考えに、小さく溜息を吐いた。
このまま回れ右をして踵を返しても、きっと目の前で薄く微笑んでいる美しい人は僕を引き留めたりはしないだろう。表情を変えることさえなく、見送られてしまうに違いない。
――今までと、同じように。
「……ボス?」
間を置いたことで、不思議そうな声がかかる。
僕が動かなければ、彼との関係が変わることがないことをこの身の裡に刻まれて、全てを明け渡すつもりで一歩踏み出した。
キスをして、抱きしめられて、深くまで探られて。
どこかぼんやり霞んでいる思考をまとめられないまま、さらりと頬をくすぐる感触に肩を竦める。その動きを追うように、肩口も細い銀糸にくすぐられて身を捩った。
清潔なシーツの上に放り出された寄る辺のない身体に、掬い上げるように丁寧な愛撫が施されていくのを、何故かどこか遠くから見ているみたいに知覚していた。
きっと自分はぐしゃぐしゃの顔になってる。汗や、涙や、他の色々なもので汚れているのに、チェズレイは僕に触れることをいとわない。潔癖症だと言っていたのに、大丈夫なんだろうか。ダメだと言われて放り出されたら、どうしたらいいかわからない。
視界を遮るチェズレイの髪が肌をくすぐる度に、触れた場所がじわりと疼く。色素の薄い髪に閉じ込められてでもいるようで、身じろぎも出来ずにいた。
僕の上に乗り上げたチェズレイの額に、僅かに汗が浮いて、髪の毛が一筋はりついている。うつくしい紫の瞳にけぶるような睫毛の銀が重なり、濃い影を落とした目元はほんのりと朱を帯びて見えた。
普段なら決してそんな姿を見せることはない、髪のひとすじさえ完璧に整った、陶器でできた人形みたいなうつくしいひとが見せる、僕だけが今この時、見る事をゆるされた姿だ。
だから、もういい、と思えた。
ずっと触れてみたかったその髪に手を伸ばした。指に絡んだそれは、絹より滑らかだ。焦がれた髪を引き寄せて、その一房に口付ける。
「チェズレイ、好きだよ」
口にしてしまった言葉が、道の交わらない彼との垣根をあっさり取り払う。
そう、信じて疑わなかったのに。
虚を衝かれたように、宝石のような目が見ひらかれて、パチパチと忙しく瞬いた。行為とは別に、頬の赤みが広がっていく。
あからさまに表情を変えて狼狽える姿に驚いていると、ぎゅう、と抱きしめられる。
「えっ、あの」
「……嬉しいです」
言葉も、容姿も、飾ることに長けたそのひとの言葉と行動があまりに率直で。
たとえ道が交わらなくても、この恋を終わらせられない自分に、きっとその時ようやく気付いた。