「んぅ……っ」
夢の世界から突如浮上した盧笙は、くぐもった声を上げ身じろぎをする。
身体が重い。特に腰が。ヒリヒリする。あぁ、また無理をしたか。俯せに寝転がったまま、盧笙のため息はシーツに注ぎ込まれる。
「う……?」
ゆるゆると重い瞼を持ち上げ、ぱちぱちと瞬きする。真っ暗な闇に段々目が慣れてくると同時に、眠る前に我が身に起こった出来事を思い出し、温かい気配を感じる右隣に顔を向ける。
「……おぉ……」
眠る前に情を交わした男が、目の前で、色違いの目を閉じて肩を規則的に上下させている。珍しい、と盧笙は思わず感嘆の声を上げた。
普段飄々としており、むしろ馴れ馴れしいと感じるほど人懐っこい(と感じているのは盧笙くらいだが)目の前の男――天谷奴零の寝顔を、盧笙は初めて見た。
幾度も身体を重ね、幾度も夜を共にしてきた二人であったが、大抵先に眠りにつくのは盧笙であり、朝目を覚ました時、零は大抵ベランダで煙草を吹かしており眠っている姿を見たことが無かった。
特段今まで思うことも無かった盧笙だったが、今目の前で、隙を見せない男が寝息を立てて無防備に眠っている。
「……」
盧笙よりも20も年が上のこの男の顔をこうして時間をかけてまじまじと見ることがあまりなかった。彫りの深い目元、歳を重ねてきた証左である目元の皺、かと思えば年齢不相応にすら見えるきめ細かく整った肌。昼夜は軽口を叩き、ベッドの中ではかりそめの愛を嘯く薄い唇、整えられた箇所以外からも覗く髭。
こんなに隅々までこの男を構成するパーツを見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「……」
そわり、と盧笙の胸の中に巣くう好奇心が顔を覗かせる。盧笙は堪えきれず、布団の中で温まっていた手をそっと伸ばす。
まず盧笙の指が触れたのは、右眉の端を切り裂く傷の痕。柔らかい皮膚の感触が心地よく、眉の毛に沿って指を滑らせ毛と皮膚の感触の違いを楽しむ。
「……」
愉しい。楽しい。盧笙の口元が綻ぶ。
右の眉、左の眉と交互に触る。毛の流れに沿って触るときもあれば、あえて毛の流れに逆らい触れ、ざらざらとした感触を楽しむ。
次に盧笙は、額の上に二房垂れる前髪の内の一房を指で摘まむ。
起こさないように、慎重に。軽く引っ張り、伸ばす。盧笙と違い緩くウェーブがかかったその髪は引っ張ると思ったより長い。くるり、と指に一回巻き付けるが、すぐに指から前髪は逃げてしまう。
「……」
これもまた、楽しい。
決して背が低い方ではない盧笙より10センチ弱大きい零の髪に触れることなど平時ではまずあり得ない。
相手は珍しく眠っている。これは存分に触る好機。盧笙の胸が子供のように弾む。
「……」
撫でるように、頭の頂点から耳元にかけ髪を梳く。指に引っかかることが無いその髪の隙間から、盧笙が愛用しているシャンプーと煙草の混ざった匂いがした。零を象徴するようなその香りは、盧笙が好きな匂いだった。
くしゃり、と軽く髪を握り、離す。元に戻すように、撫でつける。
これは、楽しい。すっかり覚醒した盧笙は、零の髪の感触を堪能する。
「……何時や、今」
ふと今が夜中の何時なのかが気になり零から視線を離し、ぽつりと呟いた盧笙は携帯に顔を向ける。
「!」
その瞬間、盧笙の身体が太い何かに捕らわれ引き寄せられる。腰と後頭部を押さえられ、咄嗟に逃げられなかった。
「んぅう……っ!」
声をあげそうになった盧笙の口は息をつく暇もなく塞がれ、驚きのあまり引っ込んでいた舌は熱を持った肉厚な舌に根元から捕らわれ締め上げられる。
「ん、ぅぐっ……」
「いっ……っ!」
息ができない。苦しい。
我が物顔で勝手に盧笙の口腔内を暴れるそれの持ち主である目の前の男の後ろ髪をきつく握り引っ張ると、男は小さくうめき声をあげてようやく盧笙を解放した。
「痛ぇなおい」
「おっ……お前、起きてたんか!?」
不満げに毒づく零の、灰と緑のオッドアイが開く。その目に真正面から見つめられた盧笙の背がぞわりと粟立つ。誤魔化すように唇を戦慄かせると、零は愉しげに目を細める。
「随分熱っぽい視線向けながら好きにいじくってくれたな」
「い、いつから起きてたん」
「ん?お前がため息つく前から」
「最初からやないか……!」
くつくつと喉を鳴らし、零はいつも容易く拘束を解く。熱が離れる。布団で温まっていたはずなのに、触れられたところに一瞬隙間風が通る。ふるり、と盧笙の身体が無意識に震えた。
腰の拘束は解いた零の腕だったが頭を抑えた腕は離れること無く、太く長い指が盧笙の髪をゆるゆると梳く。先程、盧笙が零の髪にしていたように。
普段は緩くオールバックにされた盧笙の髪を指に巻きつける。先程、盧笙が零の髪にしていたように。
全部バレていた。零は最初から起きていて、盧笙の好きなようにさせていた。
その変わらない事実に、盧笙の体温がじわじわと上がり、顔に熱が集まっていく。
「触りたきゃいつでも触れ」
くしゃりと髪を握り込まれ、後ろに引っ張られる感触は僅かな痛みを伴った。
歪められた唇が紡いだ言葉は、零に触れることを許すもの。
盧笙の胸は勝手にどきりと鼓動打つ。まるで本物の、恋人のような。まさか、そんな。
「ん?」
目の前の男は何度も盧笙のしなやかな髪を後ろに何度も撫でつけながら、枕の上に肘をつき自らの手に頭を乗せ、俯せたままじっと零を見上げている盧笙を見下ろす。
その目は穏やかに緩んでいる。優しい、とすら感じる。果たして目の持ち主である零にその自覚はあるのだろうか。
「……」
自惚れるな、期待するな。きっとこの男は、DRBが終われば自分たちの元からーー終わる前でも用済みだと判断したら、きっと、目の前から何の躊躇いもなく消えるだろうから。
この関係だって、そう。終わるんだから。
「アホやなぁ」
盧笙は目を細め、零の前髪をお返しと言わんばかりに掴み、引っ張った。
まるで自分に言い聞かせるように盧笙は笑い、痛ぇと抗議の声を上げるために開いたその薄い下唇に歯を立てた。
朝はまだ、来ない。二人の夜は、続いていく。