確か李典がいたのは、乾いた土が煙を巻き上げるような平地の戦場のはずだった。
　しかし今李典が居るのは、木々が生い茂る森の中。
　パラパラと小石が降ってくる。李典はその方向を見上げる。崖の下だ、と李典は直ぐに悟った。
　何故このような場所にいるのか。此処はどこなのか。戦はどうなったのか。李典の身体にじわじわと焦燥感が満ち、冷や汗が全身を伝い始める。
　早く戦場に戻らなくては。くらくらと痛む頭をそのままに李典は立ち上がる。
「兄上、兄上！」
　遠くから聞き慣れた声が聞こえてきた。
　この声は。急な目眩に襲われた李典は、再びその場に尻餅をつく。
「あぁ、兄上！こちらにいらっしゃったのですね、探しましたよ！」
　座り込む李典の傍に駆け寄ってくる影が、徐々にハッキリとした形になる。
　茶色い髪、日に焼けた肌、自分が身に着けているのものとよく似た首巻きをはためかせた、その姿。
「楽、進……？」
　間違えるはずが無い。
　長く片想いを続けてきた、楽文謙。その姿を見間違えるはずは無いが。
「兄上が崖の下に落ちていった姿を見たときは肝が冷えました……ご無事で良かったです！」
　様子が、おかしい。
「兄上……って、何の冗談だよ、楽進……？」
　目の前の楽進は、李典の聞き覚えが無い呼び名で呼ぶ。
　兄上。何度も繰り返されれば、それが自分を指していることは分かる。しかし、どういうことだろうか。自分はいつ楽進の兄になったのだろうか。烏滸がましい。恋人にすらなれなかったのに。
　李典はそこまで考えると鼻で笑ったが、ずきりと後頭部が痛み、呻き声を上げ身体を丸める。
「あ、兄上、大丈夫ですか！すぐに戻って医者に診せましょう！」
「ちょ、ちょっと待てって……！」
　李典の腕をぐいと両手で引っ張る楽進を、慌てて言葉で制する。
　楽進のその言葉で動きを静止させるが、心底心配そうに揺れる瞳は焦りの色を帯び、今すぐにでも駆けたいという焦燥感が重々伝わってくる。
　しかし、李典はまず置かれた状況を確認しなければいけない。
「あー、その、頭ぶつけたから、記憶がぶっ飛んでるみたい、なんだよ……色々、確認させてくれっか？」
　李典が誤魔化すように頭を掻きながら笑う。ぬる、滑りを帯びた何かが指に触れる。
「なんと……！怪我は、怪我はいかがですか！」
　ぐっと顔を近づけた楽進から、李典は反射的に顔を逸らす。ずっと、抱きしめたい、口付けたいと思っていた楽進の姿が、手の届くところにある。あろうことか、自ら近づいてきた。しかし、今目の前にいる楽進は、李典が何よりも知っている楽進とは様子が違う。李典は少なからず警戒していた。
「だ、大丈夫だから、離れ」
　頭を掻いていた手を楽進の前にかざすと、楽進は一点を見つめその表情を強張らせる。
「え……」
　強張った表情の楽進に目を瞬かせた李典は、自らの指の隙間に見える赤い液体の存在に気がつき、言葉を失う。
　紛れもなく、指についていたのは血だった。
「ち、血が……！兄上、やはり今すぐ医者に、帰って医者に診せなければ、兄上が死んで……！」
　混乱状態に陥った楽進は慌てて立ち上がり、李典の腹に腕を回すと自分の背より大きな李典の身体を肩に担ぎ上げ、走り出した。
「ちょ、がくし、頼むから、馬……！馬に乗せてくれ、馬でここまで来たんだろ……！」
　ガクガクと揺さぶられ、腹部を圧迫されたことで吐き気がこみ上げてきた李典は楽進の背を何度も叩き制止を呼びかける。
「そ、そうでした！急いで帰りましょう兄上！」
「お、下ろしてくれ、吐きそう……！」
　楽進は悲鳴を上げる李典を抱えたまま、馬を繋いであるの方角まで走り出した。

＊

　慌てふためく楽進を窘めながら楽進から話を聞き、李典は少しずつ状況を掴めてきた。
　今李典が居るのは、李典が生きた世界とはまた何かが異なる世であることが分かった。