Hunter’s dream 「私達は顔見知りだし、くだらない初めましてなんていらないわよね」
扉を開けて執務室に入ってきた彼女は、もうかつての彼女ではなかった。朽ちた教会の、あの虚ろな美しさは既になく。
「でも、まだ互いに理解し合っているわけじゃないわ」
ハイヒールの足音を響かせながらこちらに歩いてくる姿には、自身の生を謳歌する狩人の力強さがあった。煌々と輝く紅玉の瞳は、廃墟の美学ではなく強者の論理を宿している。
スペクターと呼ばれた彼女は、遠いイベリアの地で、本来の自分自身を取り戻したのだ。彼女の友人として、指揮官として。私はそれを言祝ぐべきなのだろう。
しかし。
「私の記憶が確かなら、陸の人たちが理解を深め合う方法はそれほど複雑なものじゃないはず」
いつの間にか、彼女は目と鼻の先、触れれば手の届く距離まで近づいていた。早速やってみましょう、と囁いた彼女の指先が、魅入られたように動けない私の手を掬い上げる。雪花石膏の肌には、けれども確かな血が通っていた。私の体温よりもいささか高く、それが彼女の興奮と昂揚を伝える。絡まる指先とは逆の手で、彼女が私の頬をなぞった。
彼女は狩人だ。しかし彼女は捕食の為に狩るのではない。生存のために、彼女自身の美学の為に戦っているのだ。
そして、今の獲物は――
「――スペクターさん、探しましたよ」
こんなところにいたんですか?と呆れたようなくたびれたような声が、扉の開く音と共に執務室へと飛び込んでくる。ようやく紅玉の瞳から目を逸らすことを許された私は、向けた視線の先に彼を見る。
「……あなたは確か、リー、だったかしら?」
「覚えてもらってなによりです。食堂であなたの歓迎会をやるって連中が探してましたよ」
人捜しは確かに探偵の領分だ。亡霊だった頃とは異なり、今は確かな自分の意志で気ままに艦内を闊歩する狩人を見付けようと思ったら、確かに彼に頼むのが一番だろう。
数日前にスズランを初めとする何人かが、イベリアから帰還した彼女達とオペレーターと新たに着任したオペレーターの歓迎会を開きたいと言っていたが、あれは今日だったのか。エーギルとアビサルハンター、そして裁判所の関係は薄氷の上でダンスを踊るように繊細で絶妙なバランス感覚を要求される。それが少しでも安定したものになるように、という配慮だろう。
「君の言っている、陸の人間が理解を深め合う方法の一つだよ」
行ってきたらどうだい、と促す言葉に、彼女はわずかに目を細めた。覗く紅玉が色を濃くする。金属の上で冷えて固まる血のように。
「……そうね、あなたが言うのなら」
するりと指先が解け、私は息を詰めていたことを自覚する。ダンスのステップを踏む軽やかさで身を翻した彼女は、リーの横を通り抜けてこの部屋を後にする。
「続きはまた今度にしましょう、ドクター」
たっぷりと蜜を含ませた流し目が最後に私へと向けられる。水面下で海を掻き乱す奔流に似た彼女が去って行き、リーは後ろ手に扉を閉めた。
「奔放な方ですねぇ」
「……あれが本来の彼女なんだよ」
「随分と気に入られているようで」
「彼女がスペクターだった頃からの付き合いになるからね」
共に過ごしてきた時間だけで話をするならば、リーと過ごしたそれよりも長い。ならばやはり、私は今の彼女のことを言祝ぐべきなのだろう。――向けられた笑みと、あの瞳を思い出し、わずかに背筋が震えた。それが弱者としての本能に起因するものなのか、それともそれ以外の何かなのか、私にはわからない。
ローエンティーナ。その響きを舌先で転がしていると、いつの間にか目の前に立っていたリーが私の手を取った。目眩にも似た既視感に、視界が回転する。ワルツの優雅さでソファに引き倒されたのだと、彼の肩越しに回るシーリングファンを見て理解する。
「……えーっ、と。これはどういうことかな」
「いやね。あの嬢ちゃんが言ってた、理解を深め合う方法を試してみようと思いまして」
スペクターが言ってたのはこういうことじゃないと思う、という反論は海面に浮かぶ泡沫よりも儚く、重なった唇から彼の口の中へと消えていった。
私を見つめる金の瞳は、正しく狩人のそれだ。捕食のために、本能のために、愛情のために、獲物を狙う、狩人の。