あなたの舌の上にはおれが足りない「ぼくのことをよく知っていただいていて光栄ですよ、教授。だが、好奇心が執着に変わる一線があり、あなたはその線にとても近づいているのではと心配だ」――引用:シャーロック・ホームズとシャドウウェルの影 ジェイムズ・ラヴクローヴ
ドクターが味覚を喪失していることを自覚したのはチェルノボーグから帰還した数日後だった。
初めはいわゆるPTSDだと思っていた。硝煙や血の焦げる鉄錆に似た匂い、果てには人体も初戦は蛋白質から出来ているのだと訴えかける匂いを嗅いで、食欲が湧く方がどうかしている。かつての自分であればいざ知らず、記憶をなくした今の自分は戦場に有り様にショックを受け、それで一時的に食欲をなくしているのだと。そう解釈していた。
何かが決定的におかしいことに気がついたのは、アーミヤから差し入れのアップルパイをもらったときだった。シナモンで香りをつけ、カスタードクリームを敷いて焼き上げたそれは、きっととてもおいしいのだろう。しかし期待に目を輝かせているアーミヤの前でそれを頬張っても、自分の下は何も感じなかった。砂糖と共に柔らかく煮詰められた林檎の甘さもバターをふんだんに使ったパイの香ばしさも、何も。まるで粘土細工でも咀嚼しているようだった。けれども彼女を誤魔化すことは上手くいったのだろう。美味しい、と。パイを口いっぱいに頬張って微笑んで見せれば、彼女は嬉しそうに笑ったから。
すぐさまケルシーにそれを相談した。しかしどれほどの検査を重ねても、何の異常も見つからない。味蕾にも脳にも、だ。石棺がもたらした副作用、とケルシーは苦虫を百匹ほど噛み潰したような表情で診断を下した。石棺は記憶だけでなく、味覚もまたドクターから奪ったのだと。
けれどドクターといえば、正直なところそこまで不便は感じていなかった。食事の主目的はあくまでも栄養補給であり、食の楽しみというのは副次的な目的に過ぎないのだから。ある意味では、診断と治療法を探していたケルシーの方が余程この一件に心を砕いていたかもしれない。
ドクターは自分に欠損しているものはないとでも言うように、周囲から驚愕の目で見られながら砂虫の串焼きを食べ、ニェン達と火鍋を囲み、イフリータとおやつを食べていた。辛味という味覚は存在しない。辛さとは痛み刺激の一種だ。だからドクターにとっては、涙混じりに食事をすることこそが、一番人間的な「食事」に近い行為だった。そもそも人間が味として感じているものの半分以上は鼻にかけて抜ける嗅覚に依存するという報告さえもある。味覚がなくても自分は十全に生きていけるのだと、そう思っていた。
彼と出会うまでは。
「どうも初めまして、あなたがドクターですね?」
くたびれたような風貌に、紫煙の香りが混ざる。ア達が所属する探偵事務所の所長、リーと名乗るその人物と直接相対するのは今日が初めてだった。
「うちのガキどもがいつもお世話になってます、と。あいつら、皆さんに迷惑かけてませんよね?」
ああそうだ、と思い出したような声を上げ、リーは両手に抱えていた荷物を一旦床に置いた。腰から下げた鞄をまさぐり、一枚の紙を取り出した。
「これが事務所の名刺です、どうぞっと」
眼の前へと差し出されたそれに、けれどもドクターは反応せず。リーが二、三度、いぶかしげに瞬きをして、ようやくドクターは自分を取り戻した。
「……あぁ、すまない。私がロドスのドクターだ。ワイフー達にはいつも世話になっているよ」
名刺を受け取る。袖口からは金継ぎのような傷跡が覗いていた。
「ところで」
「はい?」
「……、それはワイフー達へのお土産?」
ああ、とリーは床に置かれた紙袋を見て、嘆かわしそうに首を振った。
「あいつらのために買ってきたんですがねぇ。……そうだ、ドクターも一つどうです? 龍門の名物ですよ」
「……いや、いい。もうすぐ彼らも休憩に入る時間だ。顔を見せてきたらどうだ?」
社交辞令ならばこれで十分だろう。ではお言葉に甘えて、と男は片手をひらひらと振りながら廊下を去っていった。リーの影が見えなくなった後で、ドクターは深呼吸をした。まだ大気中には煙草の匂いが残っている。そしてそれに混ざる、甘い何かの香りも。きっと彼が買ってきた土産物から漂う匂いか、それとも彼自身の香水のものなのか。蜂蜜、バニラ、それとも砂糖とバターが混ざって焼ける匂いだろうか。そのどれもがもっともらしく思えるが、同時に的はずれである気がした。だって自分は厨房から漂うどんな香りにも、こんな衝動を抱いたことはない。
口腔内に唾が湧く。ドクターがそれは食欲と呼ばれるものであることを思い出したのは、大気中に残る彼の痕跡を全て呼吸し終えてからだった。
***
余談だが。
あの日彼が買ってきたのはきちんと包装された月餅で、匂いがするようなものではなかった。
ではあの匂いは何だったのか。彼の香水か、はたまた直前まで作っていた料理の匂いか? 仮説はいくつか思い浮かぶが、しかしそのどれもが間違っていると直感が囁く。あるいは、もっと本能に近い何かが。腹の底から、焦燥感に似た何かとと共に訴えかける。
それは飢餓感であると、今のドクターは理解していた。
そして、彼と任務に出るごとに、彼が秘書を務めるごとに、彼のそばにいるごとに、それが増していることを。
急かされるように、ロドスの閉架書庫、医学系の論文が収められている場所にドクターは足を踏み入れた。夜も遅い時間で、医療部のオペレーターが時折姿を表すその場所には今は誰もおらず、ひやりとした夜の静寂だけが頬を撫でる。思えば、自分の罹患した疾患、味覚が失われた理由を真面目に調べるのはこれが初めてだった。主治医であるケルシーがいるから――というのは、どこまで言い訳になるのか。ただ単に、優先順位の問題だ。自分自身のことよりもやるべきことがあり、そして今はそれをひっくり返す存在がある。
だって、おかしいだろう。
自分以外の人間を――おいしそう、と思うなんて。
この感情は気づかれていはいないだろうか。鼻腔をくすぐる甘やかさに、心臓が期待に脈打つことは? あの肌から匂い立つ香りを嗅ぐ度に、口の中が唾液で満ちることは? あの肌に舌を這わせたらどんな味がするのか、考えないようにするために絶えず仕事をしていなければならないことは?
急き立てられるままにドクターは本棚へと向かい、目当ての論文を探して文献の一冊を抜き出す。探しているのは食人嗜好についての論文だ。異常心理の一つとして扱われる精神疾患。その中に、奇妙な症例報告があった。
――フォークという俗称で呼ばれる、味覚を喪失した人々について。
彼らは先天的、或いは後天的に味覚を喪失している。代わりに、ある特定の人間――彼らはケーキと呼称される――に対してのみ、味を感じることができる。肌や体液を舐めるだけで済んでいれば良い方で、場合によってはもっと悲劇的な、それこそ肉や骨を見ることになる。なにせ彼らが食欲を感じるのは、ケーキに対してだけなのだから。
論文を読みながら、ドクターは心臓が煩いほどに跳ねるのを感じていた。嗚呼、この論文に書いてあるのは、果たして誰のことなのか? 誰と、誰のことなのか?
「こんばんは」
だから。
静寂を切り裂いて差し込んだ光は、自身を見つめる金色の眼差しは、全てを白日の元へと晒し、暴き立てるようだった。
「……リー」
「こんな時間まで調べ物ですか? 全く、あなたがそんなに仕事熱心だとは思いませんでしたよ」
一歩一歩、足音を響かせながら、リーは閉架書庫内の一本しか無い通路を歩いてくる。本棚の間に身を潜ませるように立っているドクターは、逃れようもなかった。
「ちょっと気になることがあってね」
手にしていた本を乱雑に書棚へと押し込む。もういいんですかいとリーが問いかけるので、もういいんだとドクターは無理矢理に笑ってみせた。早く、ここから出なくては。彼と二人きりであるこの空間から。
「調べ物の答えは見つかりましたか?」
「目処は立ったよ。こんな時間だ。リーも早く休んで――」
「それじゃあドクターは、自分がフォークであることに気づいたんですね」
「――は、」
眼の前の男は、今、何と言ったのか。
「お察しの通りおれはケーキですよ。ドクターは身を以てわかってるとは思いますが、フォークは一部の例外を除いて味を感じることが出来ない。そういう連中は食堂にはあまり来ないもんでね。目眩ましに丁度いいんです」
今日の夕食を食堂で他のオペレーター達に振る舞っていたときに、レシピを尋ねられて説明していたのと同じ口調だった。
嗚呼、そうだ。どうして忘れていたのか。
料理が上手だとかオペレーターだとか、ケーキだとかいう以前に。
「それで。ドクターもそろそろ、腹が減ったんじゃないですか?」
彼は、探偵なのだ。
ドクターが努めてリーのことを意識しないように振る舞っていることに。彼が側にいるときだけ動きが固くなるくせに体温が高くなることに。やけに唾を飲み込んでいることに。鼓動が嫌に早いことに。
「食べてみますか」
彼が、気づかないはずがないのだ。
するりと彼が手袋を外す。反射的にドクターは引き下がろうとしたが、本棚にそれを阻まれる。平時であればドクターを守ってくれる知識の壁は、今は追い詰める鉄格子でしかなかった。
「リ、ィ。頼む、やめてくれ……」
顔を背けようとしても、眼だけはそれから離せない。嗚呼、だって、こんなにも、美味しそう!
「なぜです? 美味しいものを食べたいと思うのは自然なことでしょう。あなたにはその権利がある」
リーは鞄から何かを取り出した。白熱灯の光を受けるそれは果物ナイフで、いつかに彼が林檎の兎を作ってくれたことを思い出す。どうぞと彼が差し出したそれよりも、彼のほうが余程魅惑的に感じられたことも。
その刃を、彼は指先に食い込ませた。つぷりと肌が裂け、赤い雫が滲む。こんな自傷行為は止めなければならない。そんなことはわかっている。けれど、空間を満たす芳醇な香りが、理性を酩酊させる。
残るのは、純然たる欲求と渇望だけだった。
それは、食欲と飢餓感だった。ドクターが、リーと出会ってから絶えず腹の底に抱えていた。
「ほら。ドクターが食べないと、無駄になっちまいますよ?」
いいんですかと彼は嘯く。指先から流れる赤い液体は、放っておけば滴り落ちて床を汚すだろう。夢の中で迷子になったような足取りで、ドクターはリーへと歩み寄り、そして、差し出されるままにその指先を咥えた。
「うまいですか?」
答える声はなく、ドクターはただ荒い呼吸を繰り返しながらリーの指をしゃぶっていた。第一関節では足りずに第二関節までを飲み込み、母乳を求める子猫のように懸命に。リーは用済みになったナイフを仕舞い、空いた手でドクターの頭を撫でた。もう自分の声を聞こえていないドクターを見下ろして、リーは鬱金色の瞳を細めて声を出さずに笑う。
どれほどの時間、そうしていたのか。ようやく満足したのか、ドクターが咥えていた指を離す。舌と指先を繋ぐ銀の糸が切れる。
口の内から舌へと流れ、螺旋を描きながら食道を伝って身体の中へと落ちていくそれは、全身を巡って指先までを満たしていく。求めてはならない、地獄の味わいがした。
そしてそれを知った自分はもう、その地獄で生きていくしかない。
ドクター、と彼が囁く。
「もっと食べたいですか?」
けれどそれは甘美な地獄だった。無味無臭の世界で生きるよりも、ずっと。
そして自分を地獄へと手招いた男は、うっそりと微笑んだ。
「あなたに食の喜びを教えることができて嬉しいですよ、ドクター。……もっと、一緒に楽しみましょうか」