You can never cross the night, ドクタァ、と彼が自分を呼ぶ声には、酒に漬け込んだ果実の甘さがあった。これは不味いと身を引こうとしたところで、その足を尾鰭が掬い取る。バランスを崩した身体は重力に従うまま、彼に押し倒されるままだ。事務所のソファは想像よりも柔らかく、折り重なって倒れる二人を受け止め、彼は夜のように自分の上へと覆い被さる。照明もついていない事務所の中で、彼の瞳が双月めいて夜闇の中に灯っていた。それが何を燃やした光であるのか、瞳の裡にあるものに気づいてしまわぬように、と。目を逸らしたドクターは、しかし晒した喉元を長い舌で舐められて声を上げた。
「リー、やめてくれ」
はて、と言わんばかりに首を傾げて見せる男の、取り繕った無邪気さに腹が立つ。酔い醒ましに頬でも叩いてやろうかと思ったけれど、両手首はもうとっくに彼に絡め取られていた。喉笛に寄せられた唇の、微かな隙間から漏れ出す酒気に目眩がする。
彼は酒に弱い。それは知っていた。けれど羽目を外しすぎることも、派手な失敗をすることもなかった。吐きそうになれば席を外すし会計も自分で出来る。タクシーに乗るのは、時と場合に寄ったけれど。
だからお茶でも酒でも、なんでも付き合ってあげますよと言われた時に。自分は酒を選んだのだ。仕事では飲みたくない、と言っていた彼が、自分を酒に誘ってくれることが嬉しかったから。けれどこのザマはなんだ。飲んだ帰りに彼を事務所まで送り届けて、どうして自分は押し倒されているのか。
「どうしてです」
どうしても何も。夜が明ければ、傷つくのは彼の方だ。彼は、優しい人だから。けれども、肌に寄せられた歯の、その鋭さに背筋が震える。
「おれが後悔するとでも?」
くつりと彼の喉が鳴る。ドクター、と自分を呼ぶ声は先程よりも優しく、けれども底を流れるのは冴え冴えと輝く月光の冷たさだ。見るものを酔わせて、惹きつけて、狂わせる、曠然と空を揺蕩う支配者の。
「しませんよ、おれは」
あなたはどうなんです、と彼は問う。沈黙ではなく、受動ではなく。確かに、言葉と行為で伝えてくれ、と彼は囁く。
「――私は、」
答えを紡ぐ唇に、彼のそれが重なる。答えを飲み込んで、言葉を呑み込んで。うっそりと笑う龍は、きっとこの夜が明けても、傷を負うことはないのだろう。交わす情の嫋やかさが肌を舐め、一夜の過ちを千夜に変える。
嗚呼、こちらを睨め付ける鬱金の鮮やかさよ。夜闇でも覆い隠せない、煌々と光る情欲の熱さよ!