夜辺であなたを待っていた 空を飛ぶ羽獣を初めて見た時に、人が覚えるのは憧憬だろうか、羨望だろうか。或いは、水中を泳ぐ鱗獣を見た時は? 自分も彼らのように飛びたい、泳ぎたいと。願ったところでこの両腕は、翼となるには不器用が過ぎ、両足は、鰭と為すには不格好が過ぎた。けれどもそれで構わなかった。この両足で立って、戦場を見渡す目と戦闘を指揮する頭があれば、自分はそれで事足りたのだ。
大空を悠然と舞う羽獣のようになれずとも。
湖面を優雅に泳ぐ鱗獣のようになれずとも。
それで良かった、はずなのに。
届かないな、と思った。彼と、その前に立つ美しい人を見た時に。
無邪気に空を、水を、望むには、自分は年を取りすぎた。地を這いながら生きるしか無いと、骨身に染みて知っている。
だから。
あの時に、届かないものが、こうもうつくしく、かなしく見えることを知った。胸を差すあの美しさは、きっと失恋と呼ばれるものにとてもよく似ていた。
***
「こんなところにいたんですか、ドクター。今日の主役はあなたでしょう?」
ドクターがロドスに帰還して、早いものでもう三年が経つ。それを祝うパーティーだというのに、ドクターは会場となったホテルのバーで一人、グラスを傾けていた。
「いいだろう、もうお開きなんだから」
半ば言い訳でもするように、ドクターは目線を逸らしてグラスを煽った。パーティーは楽しかったし、オペレーター達から感謝の言葉をかけられるのは照れ臭くもあったが嬉しかった。しかし挨拶回りでどうにも気疲れがしているのも事実だ。こうして一人、パーティーの喧騒から離れて夜の静けさに浸っていても許されるだろう、今日の主役が自分だと言うのなら。
カウンターの隣のスツールに腰を降ろしたリーは、バーテンダーにサイドカーを頼む。何か用があって自分を連れ出しに来たというわけではないらしい。自分と同じく、今日の彼も余所行きの格好をしていた。違いと言えば、服に着られているような有様の自分とは違って、彼はそつなく品良く服を着こなしているということか。瀟洒な貴公子、という誰かの言葉を思い出す。本当に、自分は彼のことを知らないのだ。どんな過去を背負い、名を捨てて龍門へとやってきたのかも、何もかも。
ガラス張りの天井からは、夜空に浮かぶ花火がよく見える。別の催し物と図らずしもタイミングが合致していたらしい。バーの床を流れるようなジャズに混ざって、花火の打ち上がる音が店内に烟っていた。一瞬で散るそれは、フラッシュのように隣に座る男の横顔を目に焼き付ける。バーテンダーが彼にグラスを差し出す。
「改めて、おめでとうございます」
「どうも。私も君の事務所と提携を結べて喜ばしいよ」
「そりゃ良かった。……それじゃ、おれたちの関係がこれからも続くことを願って」
乾杯、とグラスのぶつかる音が涼やかに響く。仕事では飲みたくない、と言っていたが、それでもこうして祝いの席では付き合ってくれる。彼が秘書として執務室にいる時は、業務が終わってから二人で晩酌をすることもあった。
炎国人は情に厚い、と言っていたのはブラックナイトだったか。それは知っていた。彼もそうであり、だから、自分は勘違いをしていたのだろう。彼にとって、自分は特別ではないか、と。舞い上がって、思い上がっていた。彼が、三人の子どもたちに分け与えても尚余りある、滾々と湧き出る情の、お溢れに預かっていたに過ぎないのに。
「ねえ、リー。会場で言ってたことだけど。個人的な依頼をしたくてね」
あれだけ働かせておいてまた、という感情を隠そうともせず、リーはげんなりとした表情でドクターの方を見た。それに薄い微笑で応え、ドクターはその”個人的な依頼”を口にする。
沈黙があった。二人の間にある薄い硝子のようなそれを、外で打ち上がる花火の音が打ち砕く。
「勿論これは、指揮官としての依頼ではない。だから君もロドスのオペレーターとして従う必要はないんだ。気に食わなかったら断ってもらって構わないよ」
あくまで個人的なものだからね、と冗談めかした軽い口調は、震えてはいないだろうか。唇は正しく孤を描いているか? わからない。ただこちらを見る鬱金色は、真意を問い正すようで、目を逸らしたら負けだということを痛いほどに理解している。
「……どうして、そんなことを?」
「私も石棺から目覚めて三年が経つんだ。そういうことに興味が出てくる年齢なんだよ」
「あなたの人間としての人生経験が三年だって言うなら、それでこんなことを言い出すのはとんだマセガキだと思いますがね」
「おや、じゃあ交渉は不成立かな」
残念だよ、と笑う。今ならまだ、冗談だよと言って引き返せる。パーティーの熱気に充てられていたんだとか、浮かれていたんだとか、そう言って。彼がそれを吹聴して回るような人間ではないと、もう短いとは言えない付き合いの中で、自分は知っているから。
「……構いませんよ。他ならぬあなたからの依頼ですからねぇ」
胸ポケットから煙草とライターを取り出し、そこから一本を抜き取った彼がそれを咥える。火をつけると、馴染んだ紫煙の匂いが漂った。香水と、煙草と、彼の匂いが混ざりあって一つの調和を形成する。
「ご依頼、承りました」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。本当に、と尋ねた声は、軽妙な彼の返答よりも余程深刻な色合いを帯びていた。聞けば魔法が解けてしまいそうで、それでも確かめずにはいられない。燻らせた紫煙の向こうで男が笑う。ふ、とこちらに向かって吹き付けられた白煙に思わず咳き込むと、くつりと彼は喉を鳴らした。
「それで、ドクターのこの後のご予定は?」
彼が本気だ、と。その鬱金色を見ればわかる。吐いた言葉は元には戻らず、夜の静寂に溶けた言葉は蘇り、耳元で木霊した。
――セックスのやり方を、教えてくれないか。
***
今日はロドス本艦には戻らず、ホテルに一泊して帰る手筈となっていた。龍門に拠点があるオペレーター、例えばチェンやショウ達は自分の家に帰ると言っていた。きっと彼も、その予定だったはずだ。
一杯だけでバーを出て、部屋に向かうまでは互いに無言だった。二人きりのエレベーターの沈黙は重く、胸を塞ぐ。冗談だと言って終われせられる段階は過ぎていることを、腰を抱き寄せる腕とふくらはぎを撫でる尾鰭が言外に伝えていた。
鍵を開けて中に入り、扉を締めて再び鍵をかけるまでの間は、夜が明けるほどに長く感じられた。
自分の泊まる部屋も他のオペレーター達と変わらず、だから人が一人増えるだけで途端に狭く思える。
「それで、どういう風の吹き回しなんです」
「それは」
どういう意味か、と尋ねる前に唇が奪われ、吐き出す言葉と息が飲み込まれる。彼の唇はウイスキーの味がした。唇を割って舌が口の中へと入り込む。紫煙の染みた彼の舌は苦く、わずかにウイスキーのバニラの香りがした。樽のスモーキーさと紫煙の味が混ざり合い、自分が何を感じているのか見失う。どうすればいいのかわからず、固まった自分の舌を彼のそれが絡め取り、吸い上げる。後頭部に回された手が、逃げることを許さない。ようやく唇が離れた時に、荒い呼吸を繰り返している自分を見て、彼は目を細めた。
「あなたはまだ、息継ぎのやり方も知らないでしょう」
「……だから、君が教えてくれよ」
その声がいやに掠れて、縋るような色を帯びるのは。自分が、口付けのやり方も、息継ぎの仕方も満足に知らないからだ。背伸びをして乱暴に口づけると、勢いをつけすぎたせいだろう。互いの歯がぶつかった。それを痛いと感じる前に、後頭部に添えられた手が髪を梳く。口が塞がれていても鼻で呼吸をすることはでき、つまりそうする限り永遠にこうしていられるのだろうか。彼から言葉を奪って、自分だけに向けさせることが。
落ち着いて、と離れる唇の合間に彼が囁く。纏っていた互いの服は一枚ずつ剥がれ落ちて床に散らばる。彼の前に晒されているのは剥き出しになった身体だけだろうか? そうであってほしい、そうでなくては困る。
だってこれは、一夜限りのことだから。
「ドクター」
その声に潜む熱に、背筋が震える。外気に晒されて、寒いはずなのに。この身の裡だけが、燃えるように熱い。
何度目かの口付けは、煙草の苦さがある癖に、蕩けるように甘かった。
きっとこうして彼は、今までにも、誰かと夜を過ごしたのだろう。熱を分かち合って、情を交わして、夜を明かしたのだろう。彼は情が深くて、優しい人だから。
だから。
彼が過ごしたいくつかの夜の、その一つになれるなら、それで充分だった。
水面に浮かぶ月を求めて溺れ死んだという詩人は、それでも幸福の中で息絶えたのだろう。
だってこんなにも、溺れる夜は心地良い。息が止まりそうなほどに。
***
極値に至った感情は、後はもう減衰に向かうことが約束されている。
それが恋と呼ばれるものであれば、一旦燃え上がってしまえば燃え尽きるばかりだ。最後に残るのは灰、良くて炭火がせいぜいだろう。
だから手っ取り早く全てを燃やして、灰にしてしまいたかった。
なのに。
「あ、起きましたか?」
目が覚めて、まず真っ先に目に入ったのは鬱金色だった。全身を真綿のように倦怠感が纏わりついているが、不思議と不快ではない。心地良い疲労感があった。やけに温かいと思ったら、自分はまだ彼の腕の中にいた。てっきり、夜が明ける時には、もう彼はいないと思っていたのだが。
「……あ、そうか、支払いの」
「はい?」
「対価の話を……していなかったから」
夢と現のあわいにある意識を、現実の側に引き戻したくなかった。まだ夢の残滓に浸っていたかった。けれどカーテンの隙間から差し込む朝日はしらじらと、夜の終わりを告げている。金銭でも何でも、形のある何かをやり取りすることは、後腐れのない「清算」のようだ、とぼんやり思う。ひとときの夢を引き換えに、自分は彼との関係も、きっと支払いを終えてしまうのだろう。
「ありがとう。よくわかった。君のおかげで、良い夢が見られた」
美しい夢だった。
大空を悠然と舞う羽獣になれたような、湖面を優雅に泳ぐ鱗獣になれたような、彼が鑑賞するに足る、美しいものに、自分もなれたような。
「それで私は、何を渡せば――」
続くはずだった言葉が、彼の口の中に飲み込まれる。いつの間にか腰に巻き付いた尾がその強さを増し、痛いほどだった。一晩で上達したとはいえ、程度は知れている。口の中を蹂躙されるままに呼吸のやり方を忘れた自分は、陸に打ち上げられた鱗獣と大差なかった。
「……おれがほしいのは、ドクター」
剥き出しになった胸に、彼の手のひらが重なる。
「あなただけですよ。……だからどうか、あなたもそうだと言ってください」
一夜限りの夢ではなくて。
このひとときを、永遠にしたいと。
そう望んでくれと男は言う。
「……私、は。美人でもないし、肉付きも、いいとは言えないし」
口からぽろぽろと溢れる言葉は、みっともないほどに震えていた。胸板を押して距離を置こうにも、そもそもの膂力が違いすぎる。抱き寄せる腕も絡みつく尾も優しいけれど、逃がす意思はそこにない。
全てを焼いたはずなのに。どうしてこんなにも、胸が熱いのか。涙が溢れそうなほどに、焦がれる心は。誰のためのものなのか。
「出来ることは戦場の指揮くらいで――それくらいしか取り柄もなくて、君も、君の子どもたちも戦場に駆り立てて、多くの人間を殺して、最後にはろくでもない死に方をすることが、約束されている人間だよ」
「ええ」
その程度の逡巡は終えている、とその鬱金色は揺るがない。取り戻せない過去があり、贖いきれない罪を背負い、いつかその罰を受ける日が来るのだとしても。
今、その隣にいるのは、自分なのだから、と。
「おれは、あなたが欲しいんです」