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    はるち

    好きなものを好きなように

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    POIPOI 187

    はるち

    ☆quiet follow

    「どうも私は、死んだみたいなんだよね」
    イベリアの海から帰還したドクターは、身体が半分透けていた。幽霊となったドクターからの依頼を受けて、探偵は事態の解決に乗り出すが――
    「ご依頼、承りました」
    この謎を解く頃に、きっとあなたはもういない。

    という感じのなんちゃってSFです。アーミヤの能力及びドクターについての設定を過分に捏造しています。ご了承下さい。

    #鯉博
    leiBo

    白菊よ、我もし汝を忘れなば 青々たる春の柳 家園に種うることなかれ
     交は軽薄の人と結ぶことなかれ
     楊柳茂りやすくとも 秋の初風の吹くに耐へめや
     軽薄の人は交りやすくして亦速なり
     楊柳いくたび春に染むれども 軽薄の人は絶えて訪ふ日なし
     ――引用 菊花の約 雨月物語


    「どうも私は、死んだみたいなんだよね」

     龍門の夏は暑いが、湿度が低いためか不快感はさほどない。先日任務で赴いたイベリアの潮と腐臭の混じった、肌に絡みつくような湿気を七月の太陽が焼き清めるようだった。あの人がいたならば、火炎滅菌だとでも言ったのだろうか。未だ彼の地にいるであろう人物に、そう思いを馳せながら事務所の扉を開けると、冷房の効いた暗がりから出たリーを夏の日差しと熱気が過剰な程に出迎える。日光に眩んだ鬱金の瞳は、徐々に真昼の明るさに慣れる中で、有り得ざる人影を見た。
    「やあ、リー。突然なんだけど、私のこと見える?」
     自分の姿を認めて片手を上げるその人は、身体が半分透けていた。白衣の上から羽織った上着という格好は普段と――最後に会ったときと何一つとして変わらないのに。その姿は、アスファルトの上に浮かぶ陽炎のように揺らめいて、背後の景色を透過していた。その人の体を通して見る龍門の景色は見慣れたものと変わりなく、だからこそグロテスクだった。
     呼吸も忘れて凍りつく自分に、その人は――ドクターは、嬉しそうに笑った。
    「あ、目が合うってことは私のことが見えているのかな。良かった」
    「……、冗談も大概にしてくださいよ」
    「冗談じゃなくて現実だよ。残念なことにね」
    「ホログラム、でしたか。機械はさっぱりですが……レッドラベルの真似事ですかい?」
     言いながら、そんなはずがないと心の裡で声がする。ただこの人が現実だと嘯くものが、あまりにも受け入れ難いから、遠回りをしているだけだ。徒労にしかならない遠回りを。
    「ふふ。攻撃でもしてみる? もしかしたら物陰に隠れている本体に出会えるかも」
    「あなたにそんなこと、できるはずないでしょう」
     喉を突いて出た声は、自分でも驚くほどに鋭かった。ドクターが目を丸くする。冗談ですよ、と言い訳をする前に、その人は頬を緩めた。
    「……そっか」
    「それで、……どうしたんです」
     ひたひたと足元から這い寄る予感は、ほとんど確信へと変わっている。ホログラム、アーツによる攻撃、あるいは人恋しさが見せる幻覚。そのどれもが違う、と本能が理解している。目の前にいるこの人は、本当に本人だと。
     であれば、それは何を意味するのか。
    「うーん。実はね」
     どうも私は死んだみたいなんだよねえ、とその人は言った。耳に煩い、蝉の音が遠ざかり、ただ、ドクターの声だけが聞こえる。この大地の上に、それしかないかのように。
    「……じゃあ、おれのことを呪いにでも来ましたか」
    「まさか。逆はあってもそれはないよ。最後まで君をイベリアに留めずに、龍門へ帰るよう命令した私を、君が恨むことはあっても、ね」
     その人が首を傾げると、月光を束ねた白銀の髪がさらりと流れた。普段であれば、髪が頬や額に影を落とすが、今は光もドクターを通り過ぎるばかりだった。もう、太陽でさえこの人を照らすことは出来ないのだ。
    「じゃあ、どうしておれの前に」
    「探偵事務所の前に来る理由なんて、一つしかないだろう」
     不意に、ケルシーがこの人を連れて事務所に来たときのことを思い出した。あのときのドクターは、白痴さながらに虚ろな目をして、ケルシーに手を引かれなければ真っ直ぐ歩くことも出来なかった。理性を探して欲しい、とケルシーに依頼された日のことを。
    「依頼があるんだよ、龍門一の私立探偵にね。……引き受けてくれるかい?」
     この人は狡い。――死んでも尚、変わらず狡い。龍門に帰れ、と自分に命令したときと同じだ。それを自分が断ることは出来ないと知っている癖に。
     リーは天を仰いだ。夏の陽気をもたらす太陽だけが、何も変わらずに、この大地に生きとし生けるものを平等に照らしている。その恩恵に預かれないのはこの大地からあぶれてしまったものだけで、嗚呼、自分にそれを見捨てることなど出来ようか?
    「ご依頼、承りました」

     ***

    「さて。
    「君がこのファイルを再生しているということは、私はもう死んでいるのかな。
    「端末はどうやって操作している? クロージャに手伝ってもらったのか? もし周りに人がいるようなら、一旦出ていってもらってもいいだろうか。このメッセージはあくまでも君充てだからね。
    「……。もう行ったかな。今、これを見ているのは君だけか?
    「大丈夫かな。じゃあ、話し始めよう。
    「ああ、その前に。私の死亡は確実かな? 死体がない、あるいは見つからないという可能性は十分にあるけれど――、意識不明の重体とか植物状態という状況なのであればこのファイルの再生はここまでにしてくれ。そして私の回復を祈ってくれ。それがどれほど絶望的であっても。
    「……。
    「再生を続けているということは私は死んでいるんだね。
    「リー。
    「今から君に伝えるのは、ロドスの今後や鉱石病、龍門や君の事務所、テラの未来について――ではない。
    「これが最後だからね。本当に、最後の最期だ。
    「だから残すのは、極めて個人的なメッセージにした。極々個人的で、私的な話――。
    「つまり、私の話だ。
    「聞いてくれるかい?」

     ***
     
     執務室にある私物。
     それを処分して欲しい――というのが、ドクターからの依頼だった。白い小包らしい。中に何が入っているのか尋ねたが、それについては秘密だと突っぱねられた。
    「そんなに困るものなんですかい」
    「困るんだよ、私にとっては」
     ドクターの姿は、どうにも自分以外には見えないようだった。例えばサーミやサルカズの術師や、モルテという友人を大切にしているヴァルポの少女、或いは――ケルシーとアーミヤが本艦にいれば、話は違ったのかもしれないが。イベリアで起きた異変の前に、彼女達はテラの大地を奔走しているようだった。
    「おっと、失礼」
     こちらにぶつかってくる勢いで、一人のオペレーターが横を通り抜けていった。彼がドクターの中を通り抜けるのを見て、流石に心臓が嫌な跳ね方をする。龍門からロドスに向かうときも、通行人がドクターを文字通りすり抜けるさまを見てはいるのだが。見る度に、この人が現し世の存在ではないことを思い知らされる。声は聞こえて、姿は見えても。決して、この人に触れることは出来ず、この人ももう、何にも触れることは出来ないのだと。
    「大丈夫かい?」
    「……大丈夫です」
     ヘッドセットの位置を確認しながら答える。
     ロドスに自分が見える人間はいなかった、とドクターは言っていた。じゃあ艦にいる間はどうやってあなたと話せば良いんですか、独り言をぶつぶつ呟く怪しい中年だとみなさんに思われるのは心外ですよと言った時にドクターから提案されたことだ。ヘッドセットをつければ良い。艦内でも無線指示のために付けているオペレーターはいるから、例え君が私と話していてもそれほど怪しまれないだろう、と。
     そのアドバイス通り、今のところは順調だった。
     艦内を眺めるドクターの横顔を盗み見る。
    「またこうして戻ってこられるとは思わなかったよ」
     淡々とした言葉に、未練の色はない。
    「自分が死んだときのことは、よく覚えていなくてね。良かったのか、悪かったのかわからないけれど」
     でもまた戻ってこれて良かった、と。
     二人は、執務室の前に立った。
    「……で、どうするんですかい」
     自分の記憶する限り、この扉はいつも開いていた。中でドクターが仕事をしているときは、いつも。もう日付も変わろうかという時間にこの前を通りかかり、扉から漏れる明かりに驚いて中に入ったときに、書類の山に囲まれているこの人に出会ったこともある。
     だから。この扉が閉ざされているのを見るのは、もしかすると初めてではないだろうか。
    「ロドスのオペレーターにはIDカードが支給されるだろう? 私のカードがあればそれで開けられるんだけどね」
    「なるほど、つまりイベリアへ行けと?」
    「もう一つ方法がある。IDカードをかざすパネル、開けてみて」
     執務室の扉の横についているパネル、その下側のわずかに出っ張っている部分を引き上げると、そこにはテンキーがあった。成る程。カードがない時に備えたシステム、ということか。
    「一部のオペレーターには暗証番号を伝えていてね。私が不在のときに、書類や荷物を中に置いてもらえるようにしているんだ」
    「おれは伝えてもらっていませんが」
    「今から教えるからそれで許してくれないか。番号は――」
     不自然に言葉が途切れる。
    「ばん、ごう、は」
     ドクターが胸を掴むと、白衣がぐしゃりと皺に歪んだ。もう、この人は呼吸も鼓動も必要としないのに、酸素が足りないように喘ぐ。リーは周囲を見渡した。ドクターの不在を知らない人間は、恐らくこの本艦にはいない。だから普段であればドクターに陽のある人間が多く訪れては去っていくこの廊下も、今は人気がなかった。
     けれどそれもいつまで続くかわからない。何かの用で、ここを通りかかる人間がいても不思議ではない。
     だから自分たちは、早く中に入って、用を済ませなければならないのに。
    「……して……」
     どうして、思い出せないんだ、と。
     ドクターはようやく、それだけを喉の奥から絞り出す。
     記憶障害。
     ドクターが、死の間際を思い出せないと言った時に――その可能性を考えるべきだった。
     これ以上この場に留まるのは不味い。一旦ここから離れましょうとリーは言いかけ、しかし。
    「――君か」
     それは既に遅かった。足音を響かせてこちらへと向かってくるのは、ドクターと同じロドスのトップだ。隣でドクターが身を固くしたのが伝わってきた。けれども、ケルシーはドクターに一瞥もくれない。見えていないのだろう。他の大勢と、同じように。
    「ここで何をしている? ドクターが不在であることは、君も当然知っているものだと思っていたが」
    「……ケルシー先生。これはこれは。いやあ、とある筋からドクターが帰還した、って噂を聞いたもんで。ちょいと様子を見に来たんですよ」
    「そうか。君であってもデマに踊らされることがあるとは。その筋とは縁を切った方がいいだろう。……そのパネルを開けたのは君か?」
    「おれに機械が扱えるとでも?」
    「ふむ。さすがの君もそこまで機械の扱いが不得手だとは思わなかったが。認識を改める必要がありそうだ」
     それで、とケルシーは繰り返す。翡翠の瞳は、底の底まで見通すようで、寸分足りとも外れない。
    「君はここで何をしている」
    「……ドクターが不在だって言うんなら帰らせていただきますよ」
     扉から身体を離す。ケルシーの横を通り過ぎる一瞬、彼女は言った。
    「そのヘッドセット、電源が入っていないようだが。――誰かと話していなかったか」
    「言ったでしょう、ケルシー先生」
     自分の外套の影に隠れるように進むドクターは俯いて、表情を見ることは出来ない。
    「機械の扱いは苦手なんですよ」

     ***

    「私。
    「まずは私とは何か、定義の確認からしようか。
    「そんな顔をしないでくれよ。……顔は見えないだろうって? もう浅い付き合いでもないだろう。君が今、どんな顔をしているかくらいはわかるさ。
    「回り道に思えるだろうけれど許してくれ。どうせこれが最後だからね。
    「まずは思考実験だ。スワンプマン、って効いたことはあるかな? こんなエピソードだ。昔々あるところに、一人の男がいました。ある日、男は落雷に打たれて死んでしまいました。すると何という奇跡でしょう! 男が死んだ場所の近くにあった沼にも雷が落ち、雷と泥と化学物質の偶然により、沼から男と全く同一のコピーが生まれたのです。同じ分子講座の体、同じ記憶を持つ"沼男"が。
    「さて。
    「リー。君はこの沼男は、死んだ男と同一の存在だと思うかい?」

     ***

    「そんなに落ち込まないでくださいよ」
     たまたま通りがかった喫煙室に人影はなく、だから一旦の逃げ場としてそこを選んだ。
    「……」
     ドクターの反応はない。外套のポケットから煙草を取り出そうとして、結局はやめた。
    「……忘れていた」
     身長差もあり、俯いたこの人の表情を伺い知ることはできない。けれどどんな顔をしているのかは手に取るようにわかった。
     だからこそ、もうこの人の頭に触れて宥めることも、慰めることもできないのは、胸を掻きむしられるようにもどかしかった。
    「誰だってあるでしょう、記憶違いは。特にあなたは……、まあ、状況が状況ですからねぇ。混乱していても――」
    「私は、自分が忘れていることも、忘れていたんだ」
     ドクターはようやく、その顔を上げた。透き通り、ロドスの館内を映す相貌に浮かぶ色は――、恐怖と怯懦だった。
    「私は――他に何を、忘れている?」
    「……ドクター」
    「目を覚ましたとき……、自分が【死んだ】と理解したとき、思い出したのが君のことだった。そう思った。でも私は――、それ以外の全てを、忘れてしまったんじゃないか?」
    「ドクター」
    「なあ、リー、答えてくれ」
     今の私は。
     まだ君の知っている君のままか――、と。
     記憶喪失。
     それは、石棺から目を覚まして以降、失われたものの重さと罪悪感、この人を過去へと縛り付ける空洞の名だ。目を覚ましてから、記憶を失うことを病的に恐れるようになった、この人を苛む闇の名だ。
     ドクターは自身の震えを抑えるように、自身の両腕を掴んでいた。それは自分で自分を抱きしめているようで。
     手を伸ばせば届くこの距離は、けれども手を伸ばしてももう二度とこの人に届かないことを証明する距離に他ならない。
     嗚呼。
     どうしてこの人の前で、煙草を吸う気になれないのか、ようやくわかった。
     それがあまりにも、線香の煙に似ているからだ。
     
     ***

    「精神と身体。
    「この二つが自己を規定する上で重要な要素であることは言うまでもないだろう。もう一つ、考えられる要素はあるが……。これを完全に証明することができないので、今は置いておく。
    「人間はおおよそこの二つで構成される。しかし、不変というわけではない。
    「まずは身体から話をしようか。人間の細胞は二年で入れ替わる、というのは聞いたことがあるかな? それでも二年前の君と今のが別人として取り扱われないのは、不変性はないけれど連続性があるからだ。
    「子どもの君と大人の君の身体が別人のように成長していたとしても、人生という連続帯の上にあるからこそ、それを【リー】という一人の人間だと我々は認識する。
    「精神についても同様だ。……ここはもう少し範囲を狭めて、記憶についての話をしようか。精神は身体と違って実体がない分、どうにも話が散らかりやすいからね」
    「記憶というのは曖昧で移ろい易い。例えば、君は一昨日の夕食を覚えているかい? ……ふふ、直接君の顔が見られないのが残念だよ。
    「まあ、私のように過去の全てを忘れても、かつての【ドクター】と同じ存在として取り扱ってもらえるのは、ひとえに私が以前の私と同じ身体を有しているからだよ。人間は精神と身体からなる物だからね。片方の連続性、同一性が失われていても、もう片方で【自己】を証明できる――。
    「さっきの話で言うと、石棺で眠っている間に、私の細胞がすっかり入れ替わっていても不思議じゃないんだけどね。全く、細胞も別物、記憶は無くしているなんて、沼男の劣化コピーにも程があるな。
    「それでも皆、私のことを【ドクター】だと呼んでくれる。
    「だけど。
    「もしそれが紛い物だとしたら、どうする?」

     ***
     
     一旦事務所へと引き上げることにした。ドクターは鍵のかかった扉でも通り抜けることができるが――幽霊らしく――、自分にはそんな芸当はできない。ただでさえケルシーには目をつけられているようなのだ。迂闊に目立つことはできない。
     それにしても、とリーはうなじのあたりを撫でた。執務室を去る時に、廊下を曲がるその時まで翡翠の視線が刺さっていた場所だ。敵意とまでは言わないが、あの視線はどういう意味だったのだろう。
     相変わらず紙のように真っ白な顔色のこの人は、滑るように廊下を歩いている。幽霊には足がない、というのはあくまで俗説のようだったが、しかし足音はもうなく、気配を隠すことのできなかったこの人が、自分の手の届かない領域にいることを思い知らされる。共に茶を飲むこともできないだろう。あるいは、供物であればこの人にも届くのだろうか。リーが、ドクターの薄っぺらい肩を押しつぶさんばかりにのしかかる沈黙を軽くすべく、口を開いたときに――
    「――ドクター?」
     別の、かぼそい、ソプラノの声が聞こえた。かすかに震えて、届けば消えてしまうのではないかと、それを恐れるような声。
     振り返る。そこにはロドスのCEO、ドクターが我が子同然に大切にして、そして彼女も実の親のように慕っていたコータス――アーミヤがいた。
    「どうして、そこに……」
     ――見えているのか。ドクターの方を見る。彼女の視線はドクターを正しく見据えていた。瞳は動揺に揺れている。縋るようにドクターに向かって手を伸ばし、一歩足を進める。
    「――ッ!」
     けれど。
    「ドクター?!」
     リーの驚愕と、アーミヤの悲鳴が重なる。ドクターが選んだのは、相対ではなく逃走だった。踵を返して、アーミヤとは反対側に、脱兎の勢いで走り出す。
     逃げるものを追いかけるのは、動物としての本能か。床を蹴ったアーミヤは、しかし不可視の何かによって弾かれた。
    「すいませんアーミヤさん、事情は後からお話ししますんで!」
     立ち上るのは山吹色。符と糸を基盤としリーが展開した結界は、アーミヤの華奢な身体をこれ以上進ませまいと立ちはだかる。逃げていくドクターの背中に向かって投げられたアーミヤの叫びは、切実さと悲痛さに満ちていた。
    「待ってください、ドクター!」
     その声には聞き覚えがある。親においていかれた子どもが、その背中を求める声だ。舌打ちを隠さずに、リーもまたドクターの背中を追いかけた。この人を抱えて走れないことがもどかしい。何故この人が逃げようとするのか、その理由はわからない。わからない、が――。自分は、ドクターの意志を尊重する必要がある。
     ――それは、どうして、と。頭の端で誰かが尋ねる。
     依頼だからなのか、取引先の上役だからなのか、それとも――
    「――そこまでだ、リー。……ドクターもいるのか」
     そんなことだろうとは思ったが、と嘆息混じりに出てきたのは、先程振り切ったはずの人影で。
    「……一日に何度も、奇遇ですねえ」
     間違い探しのように先程と異なる点は、ケルシーが背負う黒い影、こちらへの敵意を隠そうともしないMon3terと――、彼女が手にしている、白い小包だった。
     ドクターが息を呑む。それこそが、ケルシーの持っているそれが、自分たちの探している物であることの証左だった。
     前門の虎、後門の狼とは言うものの、と懐から取り出した銅銭剣を握る手に力が入る。前門の猫、後門の兎を、果たして自分たちが突破することはできるのか――
     しかし。
    「……」
     瞬きの後、ケルシーの背後にあったMon3terの姿が掻き消える。短く息を吐いたケルシーは一度だけ目を伏せ、やがてリーを正面から見据えた。
    「こちらに敵対の意志はない。……リー、君に見せるものがある」
     着いてきてくれるだろうか、という言葉は問いかけの形をしていたが、そこに拒否という選択肢はなく。
     ドクター、という。背後から追いついたアーミヤの声に促されるまま、リーもまた嘆息した。肺の中身を、全て吐き出すほどに深く。
    「はいはい、行きますよ」

     ***
     
     てっきりそのまま拷問部屋にでも案内されるのかと思ったが、どうもそういうわけではないようだった。いくつもの廊下を曲がり階段を登ってはおり、ケルシーがロックを解除して進む先は、間違いなくロドスの最奥、心臓部だった。移動するまでの間、誰も一言も発しない。のしかかる沈黙は先程の比ではなく、リーでさえ背骨が折れるかと思うほどだった。
    「ここだ」
     だからケルシーの声と、電子錠の外れて扉が開く音は、さながら福音だった――、部屋の中心にあるものを見るまでは。
     リーは言葉を失った。自分は――、自分は直接、それを見たわけではない。しかしそれを知っている。作戦記録の中で、あるいはドクターの話で。何度も、くり返しその存在を聞かされていたから。
     それはドクターが、二年の歳月を過ごした場所――石棺だった。
     部屋にはそれしかない。漂白されたように白いこの場所は、そのためだけに用意されているのだ。
     ケルシーが足を進めるままに、リーもまたそれに近づく。予感があった。ケルシーに案内されているときからずっと、あるいはその前から。そしてそれはいよいよ、確信へと変わる。
     石棺の蓋には窓のように透明になっている部分があった。丁度中に横たわっている人間の顔が覗ける位置だ。そこにあるのは、中にあるのは、石棺が閉じ込めているものは、ただの空白でも空虚でもなく。
    「――ドクター?」
     今、リーの隣に立っている人と、全く同じ顔をした【誰か】だった。
     
     ***

    「名前の話をしよう。
    「何においても、名前というものは大事だからね。
    「ドクター。それは私の名前でもあり、識別名称でもある。医師ではなくて博士という意味だが、ここにはもう一つ意味があってね。
    「精神と身体の話をしただろう? どちらかの連続性が保たれていれば、片方に瑕疵があっても自己を証明できる。記憶に欠損があっても、身体が同じものであれば同一の個体としてみなすことができる。
    「ならば、身体の連続性が失われていても、精神の連続性が保たれていれば、それは同一の個体と――同じ人間であると言うことができる。
    「そのために用意されたのが石棺だ。
    「私の身体の弱さは君も知ってのとおりだ。だから、【ドクター】という個体が致死的な損傷を負った時に、それを修復する機構として、あれは開発された。勿論治療には限界がある。致命傷がそのまま死因になることもある。
    「その場合には、登録されている遺伝情報を元に、クローンを作る機能が搭載されている。
    「次に問題となるのは精神、あるいは記憶だ。同じ身体を作っても、中身が引き継がれるわけじゃないからね。
    「その問題を克服したのが、DWDB-22一Eだ。――言ってみれば外付けのハードディスクのようなものだよ。ああ、ハードディスクはわかるかい? 君が機械があまり得意ではなかったね。
    「まあ要するに、外付けの機械に【ドクター】の記憶を記録させておく、ということだよ。
    「それを使って、空っぽのクローンに記憶を転写する。
    「そうして“ドクター“という個体の連続性を保つ。
    「実を言うとね。ドクターというのは役職名ではないんだ。
    「Download original character to order Reconquista」
    「プロジェクト名の頭文字を取って、doctor――」
    「それが、私。
    「【ドクター】と呼ばれる個体の、中身だ」

     ***
     
     イベリアで観測された【ドクター】の死を契機として、その石棺は作動したのだという。
     そして中の【ドクター】に、アーミヤの能力で記憶を移しているときに――事故が起こったのだという。記憶の一部が逃げ出す、という事故が。
    「……これが、私、なんだね」
     石棺の中を、ドクターが覗き込む。二つの顔は鏡合わせのようにそっくりで、違いといえば目を開けているか否か――透けているかどうかだけだった。
     ケルシーは言っていた。前回、石棺が作動した時。すなわちチェルノボーグ事変以前は、DWDB-22一Eをアーミヤが使いこなせていなかったために、ドクターの記憶が不完全なまま覚醒させることになったのだと。
     しかし今は違う、と。
     【ドクター】を、かつての形そのままに、蘇らせることができる、と。
     その再生を良かったということは、リーにはできなかった。
     あなたはまだ死んじゃあいない、その身体に戻って、早く目を覚ましてくださいよ、と。
     だってそれは、あまりにも――
    「――機械みたいだよね」
     薄く、唇に乗った笑みは、剃刀のように鋭利だった。例えば自爆を繰り返すTHRM-EXが、ボディだけを修復して変わらずあるように。
     それは、あまりにも機械的で――非人間的な在り方だ、と思ってしまうのは。自分が古い人間だからなのだろうか。
    「……どうしたいんですか。あなたは」
    「私? ……そうだね」
     ドクターはそっと、石棺の表面を撫でた。その表情には見覚えがあった。イベリアへの出立が決まった時、自分に龍門へ戻れと命令した時、――私はここに残ると、そう告げたときの表情。
    「私はどこまでが”人間”なんだろうね。このシステムが有る限り、未来永劫存在することのできる生物は、果たして本当に人間と――生きていると言えるのかな?」
    「……」
     リーは答えず、ドクターの傍らに立った。アーミヤとケルシーは席を外している。全ての事情を聞き終えた後で、しばらくリーと二人にして欲しいと言ったドクターの意志を尊重してのことだった。
     かつてのドクターから零れ落ちた記憶の意志を。
    「私は、以前の私が羨ましいよ。……記憶の引き継ぎに失敗したから、今の私があるわけだけど……。それは、以前の私は、自分だけの人生を生きて――死んだってことだからね」
     何故、命は尊いのか。
     それは一つしか与えられないからだ。人生は一度しかない。やり直しがきかないからこそ、人は懸命に、自身の生を燃やしながら、人生を駆け抜ける。
    「ねえ。リーは、この中で眠っている私は、今ここにいる私以外の記憶を持った私は、私と同じ存在だと思う?」
    「――それは」
    「私はね、思えない」
     ドクターの笑みは静かに凪いでいた。冬の湖面のように静かな覚悟を湛えて、いくらその水面を叩こうとも、決してその有り様を揺るがすことはできないと、こちらに突きつける。
    「これは私じゃない。君にジェイの魚団子を奢ってもらった私じゃない。作戦の時に庇ってもらった私じゃない。一緒に戦った私じゃない。君と酒を飲んで、君に茶と手料理を振る舞ってもらった私じゃない。――私は、たったひとりの私として、生きて、死んでいきたい」
     この人に死という終わりはない。この機構が破綻するまで、この人は存在し続ける。
     永遠に、ドクターという役割に縛られたままだ。
     けれど。
    「私は、この”私“の唯一性の証明のために、消えていきたいんだ」
     役割から離れた存在として。
     責任から離れた存在として。
     今自分の目の前にいるのは、Doctorとしての責務を背負ったひとではなく――ただひとりの人間としての、■■■だった。
     だから。
    「我儘だって笑ってくれても、罵ってくれても構わない。私は――」
    「――受け入れますよ」
     リーは。
     その人に触れられないとわかった上で、寄り添うように、肩を寄せた。
     幽霊とはなんだろうか、と考える。目に見えて、存在はしているけれど触れられないもの。その有り様は、以前に見たアーミヤの頭上に浮かんでいた黒いアーツ――黒の王冠のように見えるそれと、酷似している。人々の記憶から構成された記録装置だというそれ。
     未練、妄念、情念からなる幽霊もまた、ある意味では記憶そのものと呼べるのかもしれない。
     ならば。
     自分のことを覚えていると――自分が死んだと理解したとき、思い出したのが君のことだったと言ったこの人が、自身の証明と呼んだ記憶は、果たして誰とのものなのか。
    「依頼だから?」
     冗談めかすようにその人は笑う。――嗚呼、光はもう、この人を照らさないのは。もしかすると、この人自身が光になってしまったからなのだろうか。目の端に滲むそれは、月の雫のようだった。
     この人は、死なないと、自分の願いを口にすることも、許されないというのなら。
    「あなたの、願いだから」
     自分はそれを叶えたい。
     ドクターの横顔は、もう目を凝らしてもほとんど見えなくなっていた。魔法の解ける時間なのだ。――あるいは、未練の消える時が来た。
     少しずつ、雪が溶けるように、その人の輪郭が曖昧になる。もうその表情を見ることはできず、しかしその人がどんな顔をしているのかは、例え触れられなくともわかる。
     それで充分だった。
    「――おやすみなさい、■■■」

     ***

    「文章として無理があることは許して欲しい。略称まで考えてプロジェクト名をつけるとなると、これが限界でね……。
    「個人的にはReconquistaというのも気に食わないんだけどね。もうテラの大地は旧人類じゃなくて、テラ人類のものなんだから――。
    「……。
    「まあ、そんな話は今はよそう。
    「これからの話をしよう。
    「リー。君がこれを見ているということは、私は――、この私はもう死んだということなんだろう?
    「なら、次の私がもう作られているはずだ。前回は上手くいかなかったけれど……、いや、すまないと思っているよ。だって今の私は、かつてのドクターとはほぼ別人――、というか別人だからね。身体は量産品だし、記憶は欠損しているし。みんなを騙してきたようで申し訳ないよ。
    「でも今回はきっと上手くいくだろう。ケルシーとアーミヤならね。
    「もしかしたら君はこれを非人道的な行いだと思うかもしれないけれど、仕方がないんだ。彼女たちを責めないでほしい。
    「今のロドスには、ドクターが必要だからね。
    「君がどう思うかわからないけれど、次の私とも上手くやってほしい。まあ、記憶の連続性が保たれる限りは、きっとこの私とはそんなに変わらない個体だとは思うんだけど。
    「……。
    「どうしてこんな話をしたのか、と思っているんだろう?
    「そうだね。
    「正直に言うと。私は自分という存在の在り方を知らなかった。忘れていたんだ。けれどイベリアでの任務の前に、ケルシーから知らされた。まあ、死ぬかもしれないからね。
    「でも大丈夫なんだよ。私は死んでも問題ないんだ。次の私が用意されるだけだから。
    「でも、ね。
    「怖くなったんだ。
    「次の私は――、本当に、今の私と、同じ存在なのかな?
    「だから――そう。君に聞いてほしかった。
    「これは懺悔で、告解で、告白なんだよ。私は今君に、きっと一番矮小で卑怯な方法で、告白している。……私のことを、知ってほしいって」
    「リー。
    「私は、君のことが――」


    「ああ、ケルシー、おはよう。早速だけど二つお願いがあってね。君が本艦に戻ったら、執務室にある小包を処分してくれないか。きっとそろそろ届く頃だと思うから」
    「……それは構わないが。昨日君が遅くまで部屋で話していたのは何のためだ?」
    「何だ、立ち聞きなんて人が悪いな。聞いていたのか?」
    「あんな時間まで明かりと声が漏れていればな」
    「君の安眠を妨害して心苦しいよ。今回の任務は危険度が高いからね。他のオペレーター達みたいに、何かあったときのためにメッセージでも残そうと思ったんだけど」
    「それはどうした」
    「削除した」
    「何故」
    「呪いにしかならないから」
    「……人の感情というものは、君が録画データを削除するようにはいかないと思うが」
    「ケルシーに言われると重みが違うなあ。まあ、それはいいんだよ」

    「小包の処分と、もう一つ、君に頼みたいことがあって――」

     ***
     
     山花開似錦、澗水湛如藍。
     ドクターが手にした玉佩には、そう刻まれていた。
     リー、と呼びかけると、自分と同じように事務所を片付けていた彼が手を止める。ドクターの手の中にあるそれを見て、嗚呼、とため息のような、郷愁のような声を溢した。
    「どうしたの、これ」
     自分が以前に彼にもらったものと良く似た意匠だ。しかし刻まれている文言が違う。これには但思善悪、無問吉凶と刻まれているが。
    「どういう意味なの?」
     それはですねえ、と傍らに歩み寄った彼に玉佩を手渡す。黒と金の縞瑪瑙、その表面にある文字を、彼の指がなぞる。そこにある意味を読み取ろうとするように。
    「――山一面の錦のように咲いた桜は、永遠の美しさのようですが。三日見ぬ間の桜かな、と言うでしょう? 結局は刹那のものなんです」
     相槌を打ちながら、ドクターはその言葉に耳を傾ける。イベリアでの任務の後、昏睡状態となっていた自分は、チェルノボーグとまではいかずとも軽度の記憶障害を患っていた。その煽りを一番食ったのが彼だ。かつての自分が信を置いていたというオペレーターである彼のことを、何故か自分は忘れていたのだ。
     それでも、彼は自分に優しかった。きっと、かつてと変わらずに。
    「谷の底に湛えられた水も同じです。藍の如く静かに、波一つないその水は、変わらないように見えますが、滔々と流れているんです。決して不変のものでは、ない」
     けれど。
     花は季節が巡ればまた咲き、水の流れが絶えることはない。
     流転こそ万物の基本。しかしその流転の中にこそ、永遠はあるのだ――と。
    「ま、おれじゃなくて極東の宗教の教えなんですどねえ、これ。サガさんに聞いたほうが早いと思いますよ?」
    「……彼女からもらったの?」
     この玉佩は、どうにも彼が自分で選んだものには見えなかった。だからそう尋ねると、リーはわずかに目を見開いて、やがて違いますよと柔らかく微笑んだ。
    「昔依頼されたときの品で……、結局おれが引き取ることになったんですよ」
     はあ、と吐いた息は、けれども面倒事を押し付けられたというものではなく。胸に溜まった安堵が、少しだけ溢れだしたように温かなものだった。
     ふうん、とそれ以上深入りして良いのか迷う素振りのドクターを見て、リーは玉佩を手に身を翻した。
    「片付けはこの辺にして休憩しましょうか、ドクター。茶でも淹れますよ」
    「桃酥は?」
    「まだ棚にあったと思います。出しといてください」
     並んで台所へと向かう。自分より頭一つ分は低いところにあるその姿だけが、目の裏に残るかつての誰かと何も変わらない。
    「リー?」
     不意に足を止めたリーを、ドクターが振り返って見上げる。玉佩は自分の体温を吸って、すっかりぬるくなっていた。
     いえね、とリーは明るい声を出す。
    「捨ててくれって言われたんですがねえ。――こりゃ、一生かかりそうだ」

     ***
     
     次の個体には、リーとの記憶を引き継がないでほしい。
    「何故」
    「気づいているだろう、ケルシー、君ならとっくに」
     そんな感情は私には不要だと。紙のように薄っぺらな笑顔を浮かべるドクターを、ケルシーは普段と変わらず冷厳に見つめ返した。この目が苦手だ、とドクターは内心で嘆息する。皮膚を貫いて腹の底までも透かすような眼差しの前では、患者、あるいは実験動物にでもなった気分だ。
    「……そうだね、まあ、いくつか理由を付け加えるなら。……嫉妬かな? だってほら、この私が死んだ後に、彼と仲良くする私が出てくるんだろう」
    「……」
    「なんてね。嘘だよ、嘘。そんな顔しないで」
     努めて空気が重いものとならないようにと、ドクターが意図的に戯けた話し方をするのは、一体誰の影響だろうか。
    「新しい私を、きっと君もアーミヤも、今の私と連続性を保った私と見なすだろう」
     君たちはそうするしかないから、という言外の声には耳を傾けない。それは聞くものが立っている地面がどれほど不安定かを思い出させ、正気を崩して狂気へと誘う、月の呼び声だ。
    「私は、彼の記憶と一緒に死にたいんだよ」
     それだけが、私の、この私が確かに存在したことの、証明になるから。
    「それにね、ケルシー」
     もし。次の「私」が。彼と出会って、同じ感情を抱くのなら。
     0と1で記述される私が。
     代替可能な身体を有する私が。
     そのあわいに、記憶を記録した記述の隙間から、こぼれ落ちる何かがあるのだとすれば。
    「……」
     続く言葉を聞いて、ケルシーは押し黙った。
     そんなものは証明にはならない。そんなことに、眼の前で淡く微笑む人間はとっくに気づいているだろうに。
     同じような環境で、同じように出逢えば。同じような人間関係を構築するだろう。
    「私と君がそうであるように?」
     それについての反例は、あまりにも身近にあるだろう、とドクターは笑い。ケルシーは沈黙で、それに答えた。
     
     ――窓を開けた拍子に、そんな過去を、もう二度と戻らないかつてのことを思い出した。
     開け放たれた窓から、春の日差しが雪崩込み、珈琲の匂いが満ちる淀んた室内を陽気にかき混ぜては新鮮な空気を肺にもたらす。
     ケルシーは窓の外を見下ろした。甲板には二人の人間が、寄り添うように並び立って、テラの大地を眺めている。この距離では、二人が何を話しているのかも、笑い声も届かない。だからケルシーの耳に蘇るのは、今はもうこの場所にいない誰かの――この大地にはいない誰かが、最後に残した言葉だった。
    「信じてみたいんだよ。魂というものの存在を」


    ”cogito, ergo sum” is Q.E.D.
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