I'm great./It's grate.「ソーンズと付き合っているんですか?」
窓硝子を一枚隔てた向こうからは、グラウンドを走る生徒達の声が聞こえていた。走り出すタイミングを知らせる陸上部のホイッスル、時折混ざるフルートやトランペットは校舎の中で練習中の吹奏楽部のものだろう。自分の胸元に顔を埋めている彼女の喉からは注ぎすぎた水のようにあえかな声が零れだし、学校の喧騒へと溶けていく。
「そんな訳、ない……でしょ」
伸ばした足は、自分の脇腹でも蹴ろうとしたのだろう。しかし見当違いの方向へと伸びた愛は虚空を蹴るばかりで、ローファーがリノリウムの床に落ちる。からん、と乾いた音は自分たちの呼吸よりも余程騒々しく、埃っぽい室内に響く。
「昨日も夜遅くまで、二人きりで理科室にいたって聞きましたけど」
「ソーンズの、実験の手伝いをしていただけ、だよ」
「本当ですかあ?その割には最近、色気づいてきたじゃないですか」
空いた手で唇を撫でると、指先にべたつく感触があった。校則に引っかからない程度のお洒落、色付きのリップの類だろう。色の乗った唇は、これが彼女でなければ微笑ましいと眺めていたもののはずだった。今、噛みつきたいと思うのは、それが果実に似ているからだろうか。
何もない、という声は、溺れるものの息継ぎに似ていた。
「リップクリームも、アーミヤにもらったんだよ。……リンゴの匂いがして、いいでしょ」
第三釦まで外されたシャツからは下着と素肌が覗いており、舌を這わせると腕の中で彼女の体が震えた。それは寒さに凍えるようで、けれどもしっとりと汗ばんだ肌からは彼女の匂いが立ち上っている。エアコンの効きが悪いこの部屋では、二人の熱を冷ますものは何もなく、こんな場所でという背徳感は甘い禁忌の味がした。こんな場所、学校の、自分たち以外には立ち寄らない準備室に、鍵をかけて。
自分が抱えあげると、床に足の付かない彼女は自分に縋るしかない。命綱をそうするように、首へと腕が回されている。
「……誰に聞いたの、そんなこと」
「ウタゲさんから」
流行り物と学校中のゴシップに詳しいのが女子高生としての嗜みだとでもいうように、彼女はこの学校で起こっているありとあらゆる人間関係に詳しい。こんなことがあったらしいですよぉ、とプリントを渡すついでに言った彼女は、あの眼鏡の向こうで自分を観察していたのかもしれない。自分たちのことについて、どこまで勘づいているのか。
「っ、」
肌に痕を残すような真似はしない。けれど歯を立てるくらいは許されるだろう。甘噛の淡い痛みに、彼女は喉の奥で声を詰まらせた。その仕返しに、というように、首筋に痛みが走る。彼女が爪を立てたのだろう。怒っただろうか、拒むだろうか。けれども、聞こえてきたのは、花びらがひそひそと散るような笑い声だった。
「……変なの」
ねえ、先生。もしかして、嫉妬しているんですか?
自分を見つめる瞳には、好奇の輝きがあった。年相応の少女のように無邪気で、無知を装う子どものように悪戯な。乱れた衣類と肌を掠める吐息、そして熱に浮かされた頬にはむせ返るような色香がするのに。花開く前の蕾は、いつだってかぐわしい。
ええ、そうですよ、と。答える声は震えてはいなかっただろうか。彼女たち、生徒が自分を評してよく言うように、飄々として聞こえただろうか?
「嫉妬しているんですよ」
だってそうだろう。生徒同士の恋愛ならば、余程健全で健康的だ。自分たちのように、生徒と教師の間柄よりも、余程。品行方正で、文武両道とはいかないが成績優秀な生徒と、やる気のなくてだらしのない教師である自分とでは。
それでも。
くすくすと彼女が笑う。無垢に。無邪気に。首に回された腕から力が抜ける。しがみつくのではなく、抱きしめる強さで。
重なる唇は、知恵の果実と同じ味がした。もう手放さない。もう手放せない。例え楽園を追われても、喩え地獄に落ちたとしても。――だって、そうでしょう?今はもう自分の記憶の中にしかいない、かつてドクターと呼ばれていた存在に語りかける。
ここにはあなたがいる。――ここには、まだあなたがいるのだから。
「私が好きなのは、先生だけだよ」