Loop1巡目
晴れた日の、高校の卒業式。
「桐ケ谷さん、マジ卒業するんっスね!」
「バカ、泣いてんじゃねぇよ」
ヤスやウロボロスのメンバーが涙を流しながら、おめでとうございますと祝ってくれる。それを笑いながら受け取って三年間通った校舎を、慕ってくれた後輩を、肩を並べた同輩に手を振り後にする。
これからの常工に心配がないと言えば嘘になるが、ヤスや生徒会の連中が上手くやっていくだろう。
心残りがあるとすれば、一つだけ。
もう会わないであろう後ろ姿を思い起こして、頭を振る。この道筋は、あらかじめ分かっていたことだ。お互い納得して、事を始めたのだから。
寂しくはないさと心の中で呟いて、それでも見納めに振り返って校舎を見上げる。いつものように嫌味にとっつきかかってくる姿が見えないのに安堵して、期待して、諦めて。
そして、踵を返した。
桜が舞っていた入学式の日に二人で通った校門を、一人で抜ける。
「じゃあな」
もう一度繰り返せるなら、もっとお前と一緒にバカしたかったなんて。
戻らない日々に、別れを告げた。
2巡目
ながい、ながい夢を見ていた気がする。
目覚ましのスヌーズが、何度も鳴っている。学校は昨日で終わったからいつまででも眠れるのに、スマートフォンの目覚まし機能を切り忘れただろうか。
「晃ー、いい加減起きな。入学式に遅刻するよー?」
母親の声が聞こえる。入学式と言っていたが、昨日高校の卒業式を終えたばかりだ。何のことだと瞼を開ければ、クローゼットに新品の青いブレザーが掛かっている。見間違えようがない、常陽の制服だ。
「あ?」
思わずベッドから起き上がると、枕元でスマートフォンが音を出して主張している。
目覚ましを切り、ホーム画面に戻ると違和感がある。
尻ポケットに入れているから、荒事ではよく落ちて画面に蜘蛛の巣が走っていた筈だ。それが、綺麗に治っている。画面だけではない、カバーに着いていた傷や汚れも、綺麗さっぱりなくなっている。それこそ、まるで新品のようだ。
「どうなってんだ?」
首を傾げていると、再びスマートフォンが鳴り出した。今度は着信で、刑部の名前が表示されている。
「――もしもし?」
『おや、起きていたか。だが晃のことだから、準備もまだなんだろう。早く制服を着て、いつものところまで来い』
「あ?ちょっとまて……切ってるし」
暗くなった画面を見つめて、更に首を傾げる。刑部もおかしくなったのか、制服で来いと言っていた。
あいつも昨日卒業したばかりなのに、だ。まさか、実は単位が足りなくて二人卒業できませんでした、とかではないだろうか。
だが相手は刑部だし、自分だって卒業証書を確かに貰った。貰ったよな?あれ、自信がなくなってきた。
「チッ、訳わかんねぇ」
刑部は制服を着て来いと言った。なら理由があるのだろう。新品の制服に腕を通して急いで待ち合わせの場所、昔はよく二人で落ち合っていた、三叉路へと向かう。
「刑部!」
見覚えのある後ろ姿が、同じく新品の制服を着て待っていた。
「来たか。さっそくだが晃、今が何年だか分かるか?」
「あ?20XX年だろ?」
「やっぱりか、スマホを見てみろ」
「は?なんで」
「いいから」
言われるがままスマホを見る。ヒビがなくなっている以外、なんともない筈だ。
「カレンダーを開け」
「開いた」
「何年になっている」
「あ?んなもん2000って、おい! どういうことだよコレ!」
カレンダーが表記している年は三年前、高校に入学した年になっている。
刑部と画面を交互に見ていると、やれやれと息を吐きながら眼鏡を上げた。
「どうやら俺たちは今、三年前の入学式の日に戻っているようだね」
「え、いや戻ったって、えぇ?」
目を白黒させながら、歩きだす刑部に着いていく。確かに壊れたのでなければスマートフォンは三年前の入学式の日付だし、制服とスマートフォンはどう見たって新品だ。
「そんなことって、ありえるのかよ」
追いつかない頭で訴えるが、刑部は分からないと首を降った。桐ケ谷が知る限り、刑部が分からないことなんてなかったし、解決できないことなんてなかった。
それが今は、起きているのだろうか。
「皆がグルになって騙しているのでなければ、そうだろうね。ところで晃、お前昨日はいつだった?」
「いつって、高校の卒業式だったけど」
「俺もだ。……こうなったらもう、学校へ行ってみるしかないだろうな」
角を曲がると、常陽が見えてきた。二人で息を飲み顔を見合わせる。騙されているのなら、どこかでネタばらしがある筈だ。
周りを注意しながら向かうと、視界にチラチラと入ってくるものがある。それを認識した時、桐ケ谷からざっと血の気が引いた。
「……おい刑部」
「なんだ」
「昨日は卒業式で、三月七日だったよな」
「あぁ、それがなんだ」
「だったらなんで、桜が、満開なんだよ」
「!」
昨日みた桜は、まだ蕾もつけていなかった。それがどうして翌日に、こんなにも満開で花びらを散らせているのか。
「おい、これってほんとに戻ってるんじゃ……」
信じられない現実に、刑部も顔色を無くしている。そんな時、どこかで聞いたセリフが耳に入ってきた。
「まったく常工はヤンキーもハンパ、生徒会もハンパ」
それを聞くと、体が勝手に動いていた。
持っていた鞄で絡んでいる不良を叩きのめして、校舎を見上げる。
もしこれが、本当に三年前に戻っているとしても、それでも。
「どうにかしないと、ダメだろ」
学科ごとのため一旦分かれ、クラスの様子も見たが知った顔ぶれが初対面のように接してきた。向こうは本当に初対面なのだろうが、こちらには三年間の記憶があるので気安くなりそうなのを止めるのに苦労した。入学早々、変人のレッテルは貼られたくはない。
二度目の入学式とホームルームを終えて、この日は帰宅となる。さっそく刑部と落ち合って、桐ケ谷の家へと二人で帰ってきた。
「で、どうするよ」
テーブルの真ん中にパーティ開きをしたポテトチップスを置いて、あぐらをかいて頬杖をつく。
「どうするもなにも……、まだ理解が追いついていないんだが」
「んだよ、朝はお前の方が威勢よかったのに」
「どうせなにか絡繰があると思っていたんだ」
眼鏡を取り頭を抱える姿に、面倒くせぇ奴と眺めながらポテチを頬張る。
「の割には、新入生代表ではしっかり挨拶してたじゃねぇの」
「二度目だからな、あれぐらい空で言える」
「……そーかよ」
滅多に聞かない弱音を吐くから心配しかけてみれば、全然大丈夫なようだ。半眼になりながら、コーラを飲む。
「お前は立ち直りが早いな」
「そうか?理由はわかんねぇけど、なっちまったもんは仕方ねーだろ。それに、今の常工はやっぱりほっとける訳でもねぇしな」
「ふふっ、晃らしいね」
眼鏡をかけ直して、刑部は大きく息を吐いた。
「正直、一度目は色々穴があった。二度目をやり直せるのなら、次はより完璧に仕上げられる筈だ」
「お、やるか?」
「晃一人に任せておけないしな」
「うっせ、調子戻ってきたらそれかよ」
桐ケ谷はコーラを、刑部はコーヒーの缶を持って乾杯するように掲げ合う。
「んじゃま、三年間またよろしく頼むぜ。未来のセイトカイチョー様」
「こちらこそ。ウロボロスのリーダー殿」
理由はわからないが、またこうやって刑部と連んで話すことができて良かった。
終わりには別れが見えているが、今度は悔いのないように、過ごしていきたい。
まずはこの三年間、何があったか思い出せる限り書き出してみた。
「あ〜、もうすぐウロボロス閉まるのか」
「それまでは通い詰めればいい。お前が金髪に染めたのは夏だな」
「そんなことまで覚えてんのかよ」
暇つぶしで髪を染めた時の刑部の驚きようは、面白かった。また予告なく染めてみようか。
「……二度とするなよ」
そんなに嫌だったのか、釘を刺されてしまった。
「つってもお前とわざと不仲するのもストレス溜まるんだよ。憂さ晴らしぐらいさせろ」
「それは、そうだが」
言い淀む刑部を放って、冬に刑部がコンクール入賞を書き込む。
「今度はせっかくだし、一位目指してみたら」
「ダメだ、厄介ごとにしかならない」
「そーかよ」
わかっていたことだが、少しでも家の情報が表出ることに過敏だ。今度こそ悔いのない三年をと言っていた割には、さっそく躓いている。
「なんだ、不満そうだな」
「べーつにー? で、今回もオーケストラ入るのかよ? なんてったけ……」
「スターライトオーケストラかい? そうだな、入る機会があれば入りたいが」
何か考えだす刑部に、そう焦って結論を出すこともないだろうと笑いかける。
「そん時の気分で選んだらいいんじゃね?」
「そうだな……。あとは生徒会選と」
「野沢のおやっさんの事件だな」
二年の秋に起こった襲撃事件は、未然に防げるのであれば防ぎたい。
「ま、ざっとこんなもんか。よし、まずは景気付けにウロボロス行ってペット吹きに行こうぜ」
「まて晃、もっと傾向と対策をだな」
「そんなもん、出たとこ勝負でやるしかないだろ。今までもそうだったんだしさ」
「はぁ……、まったくお前は」
「んだよ」
「いや、案外それが正解かもしれないな」
勝手に一人頷いている刑部を急かして、ウロボロスへ向かう。記憶が正しければ、これが刑部と最後の演奏になる筈だ。であれば出来るだけ長く吹いていたい。刑部もその気持ちが強いのか、その日の演奏は二人より熱が籠った。
「くぁ……、暇だな」
無人となったウロボロスのソファに長身を沈めて欠伸を殺す。前回もこんなに暇だったろうか。確か、もっと喧嘩に明け暮れていたような気がする。今でも売られた喧嘩は買い取っているが、昔ほどイライラはしなくなった。イライラというか、何かに追われている焦燥感。今はそれがなく、落ち着いている。それも些細なきっかけで、簡単に剥がれ落ちるが。
「よぉ桐ケ谷。お前がここにたむろってるってのは本当だったんだな」
「チッ、客は呼んだ覚えないんだけどな」
笠高の同じ一年で、因縁を吹っかけてくる矢坂が手下を連れて店に入ってくる。ぞろぞろと数合わせばかりの集団に、起き上がった桐ケ谷の眉間の皺が寄る。ここがどんな場所が知らずに無断で踏み込んできて、腹が立つ。
「喧嘩なら表出ろよ」
「こんな寂れた店、壊したって問題ねぇだろ」
「うっせぇ!」
怒りと共に矢坂の顔面を思いっきぶん殴る。鼻血を出して転がる姿を視界に納めながら、早速頭を潰されて動揺している手下供を睨みつける。
「おら、まだやんのか」
「ひ、ひぃ……!」
威圧に飲まれてか、一人逃げ出すと矢坂を担いで全員逃げていった。
「ったく、憂さ晴らしにもなりゃしねぇ」
矢坂と共に倒れてしまったスツールを直しながら、埃の溜まったカウンターを撫でる。ここは、ここでしか自由になれない奴の大事な場所だ。あんな奴らに壊されてたまるか。
「はぁ……、演奏してぇな」
生徒会に入って着実に足場を固めている男を思い起こす。あいつの音が聞きたい。あいつとまた、ここで演奏したい。
それが叶わない願いだとわかっているから、桐ケ谷は不貞腐れるようにまた長身をソファに埋めた。
簡単に桐ケ谷とバレないよう、帽子と眼鏡で変装してコンクール会場までやってきた。刑部は前回と同じようにコンクールに参加している。それを応援するためだ。
前回は来なかったが、せっかくなので今回は来てみた。やはり、あいつの音は心地いい。聞いていて音が違うとわかる。
他の受験者には悪いが、刑部が辞退しなければ一位優勝は間違いないだろう。
全員一曲目の演奏が終わった所で、アナウンスが入った。それはあらかじめ予想していたことで、桐ケ谷は席を立つ。
「やっぱ辞退したのかよ」
「……来ていたのか」
冬の凍える中、会場の入り口で待っていれば案の定、一人出てきた刑部に声をかける。
「何か、言いたそうな顔だな」
「……別に」
唇を尖らせてそっぽを向くと、刑部が先に歩いて行ってしまう。置いていかれまいと桐ケ谷も急いで歩きだすが、どうしても一定の距離を置いてしまう。無言で追いかけっこの真似事をする二人以外に、歩道を歩いているのは誰もいない。
振り返った刑部が、「晃」と呼びかける。
「んだよ」
「水戸じゃないんだ、隣を歩いたって誰も見てないよ」
「わかってる、わかってんだけどよ。なんつーか、しっくりこねぇんだよ」
「……そうか」
頷いた刑部が寂しそうに笑うと、もう振り返らずに前を向いて歩いていく。それを追うように桐ケ谷も歩く。さっき見た笑みが気になり追いつきたかったが、何故だかそれは叶わなかった。
一年の冬が過ぎ、二回目の二年の春が来た。刑部は前回同様に二年で生徒会長に就任し、桐ケ谷は久々に懐かしい顔と再会した。
「桐ケ谷さん、俺安田っていいます! よろしくお願いします!」
ウロボロスに溜まる内、似たような奴らが集まるようになった。そんなメンバーに安田たちも合流だ。
「おぅ」
可愛いがっていた後輩達にまた会えるのは嬉しい。機嫌良くいると、後輩の一人が顔を赤くしながら手を挙げた。
「あの、俺ずっと桐ケ谷さんのトランペットを聞いてみたくて」
「いいぜ」
薄汚れたステージに立ち、一人でトランペットを吹き奏でる。この場にもう一人いないことには、もう慣れた。そんな感傷的な桐ケ谷の心情なんて知らずに、安田達が演奏に聞き惚れている。
あぁ、ここにお前がいればもっと凄いものを聞かせてやれたのにと思うが、それは吹き込んだ息と共に飛ばしてやった。
夏休みに入り、刑部からスターライトオーケストラが解散したことを知った。
一年目と、同じルートを進んでいる。
「お前はそれで、満足なのか?」
久々に刑部が一人で済むマンションを訪れ、問いかける。
「満足もなにも、終わったことだよ」
「ちげーだろ。お前なら、別のオケにだって行けるだろ」
「解散の理由は他のオケからの引き抜きだ。……俺に話が来なかった理由は、わかるだろう?」
良く見る表情を浮かべられて、何も言えなくなる。
「だったら! ……だったらたまには、ウロボロスで吹きに来いよ。あそこは、俺たちのステージだ」
絞り出した願いに、刑部は諦めたように首を振る。
「フルフェイスを被ってにトランペットを吹く芸当は流石に持ってないな。……俺があそこに立つことはもうないんだよ、晃」
言い聞かせるような物言いに、心底腹が立つ。何が一回目より悔いがないように、だ。そこら中、悔いだらけだ。
「そーかよ、わかった」
これ以上ここに居ても、喧嘩するだけなので早々に出ていく。
常工は、確かに一回目よりも良くなっている。刑部の生徒会がより活動的になり、効率的に動いているからだろう。
だがそれでも――。
「お前が報われなきゃ、意味ねぇだろうが」
呟きは、夏の蒸し暑さに紛れて消えた。
久々にとちった。
大場商業の連中に囲まれたと思えば、縛られてどこかの廃工場跡に転がされていた。
「あー、これは後がうるせぇやつだ」
幸いに縛られているのは腕のみで、腹筋を使って起き上がり周りを観察する。
多分、連絡しなくても今頃刑部が動いているだろう。なぜか昔から、桐ケ谷が窮地に陥ると鉄パイプ片手に迎えに来る。何か怪しい発信機でもつけられているのかと一時期は疑っていたが、心外そうにしていたので多分違う。
「お、目が覚めてやがる」
どこかに行っていたのか、大場商業の連中がぞろぞろと列をなして工場に入ってくる。見覚えのある顔にため息を吐いて隙なく立ち上がる。
「で?俺を縛って捕まえて、どうするつもりだ」
「決まってんだろ。今までやられた分をお返しすんだよ。――やっちまえ!」
号令と共に囲まれるが、近づかれるより先に桐ケ谷が長い足で一人ずつ沈めていく。徐々に呻き声が増える中、焦った一人が喚いた。
「何してやがる。桐ケ谷は手が使えないんだ! 背後を取れ!」
「チッ」
頭が回る奴がいたようで、残っていた連中が連携を取り桐ケ谷の背後を取ると押し倒してきた。
「クソっ」
「はっ、こうなりゃいくら桐ケ谷でも動けねぇだろ。おい、アレ持って来い」
顔に砂利がつくのもお構いなしに頬を地面につけて睨みつけると、指示を出していた男の手には、大型のハンマーが握られている。
「お前、トランペット吹くんだってな。楽器する奴が指の骨折ったら、どうなるんだろうなぁ?」
見せつけられるハンマーよりも、男の言葉にゾッとした。そんなことをすれば、今までのように吹ける保証はない。
「くそッ! 離せ!」
もがくが桐ケ谷よりも重量のある男達にのし掛かられれば、動きようがない。縛った腕を頭上に挙げられ、男がハンマーを振りかざす。
「――っ!」
衝撃に身を固くするが、ハンマーは手のすぐ側に叩きつけられた。
「くそッ、なんだぁ?」
目標がズレたのは、工事の入り口を叩きつける音に反応してらしい。何度か鉄の扉が凹むと、派手な音を立てて扉が壊された。
「なんだテメェは!」
「おいこいつ、桐ケ谷の右腕の」
「くそ、なんでここがバレた!」
フルフェイスのヘルメットを被った刑部が、瞬時に男達を沈めていく。これで安心だと力を抜いた瞬間、指に痛みが走った。
「くっ!」
「動くなよ桐ケ谷、テメーもだ羅刹! このまま桐ケ谷の指粉々にしてやろうか!」
踏みつけられた掌の上に、ハンマーが乗っている。
「ふざけんな! 離しやがれテメぇ!」
「動くなっつってんだろうがっ」
もがくと、顔面に蹴りがくる。
「ぐっ!」
唇が切れたのか血の味がするが、今はそれどころではない。振り上げらたハンマーを見上げて、絶望が襲う。
「くそッ――!」
身構えた瞬間、体が軽くなった。脅威だったハンマーは、手から離れた地面に音を立てて落ちている。思わず閉じていた視界を開くと、桐ケ谷を踏みつけていた男がすっ飛んで意識を飛ばしている。それを刑部が更に踏みつけ蹴り飛ばしている。
見れば、起きているのはもう二人だけのようだ。
「……刑部、刑部って!」
声を張り上げ、呼びかける。鉄パイプを振り翳し、男の頭に当たる前の寸前で止まった。
「刑部、もういーから」
無事だった手で手招きすると、鉄パイプを放って近づいてきた。痛む背中に注意しながら立ち上がると、ヘルメット越しに刑部が傷の検分を始めて頬に手が添えらる。
「唇切ったぐらいで、他はなんともねーよ。手も、無事だったしな」
ぐっぱと手を動かすと、多少の擦り傷はあるものの、骨も筋も大丈夫そうだ。その手を取り工事跡を連れ出され、刑部のバイクに乗せられる。用意していたのか、もう一つのヘルメットを被さられ、運転する刑部の背中にくっつく。
今回も無事に迎えに来てくれた安堵からか、刑部の体温を感じてほっと息を吐く。あのまま、手を潰されていたらと思うとぞっとする。
そして、さっきから一言も発しないこいつも不気味だ。それほど怒っているのか。なんと声を掛けていいのか分からず、バイクは刑部のマンションへと向かった。
消毒液の匂いが鼻に付く。顔や背中を見られた後、そっと掌を取られた。
「痛みは」
「ねーよ。手は無事だから、安心しろよ」
ほっと安堵する刑部に、桐ケ谷もやっと肩の力を抜く。碌に言葉も発さず怒ってますと態度に出しながら傷の手当されると、居心地が悪い。
「肝が冷えた」
きゅっと取られた手の指が組まれて、肩に頭が乗ってくる。
「うん、わり。助けに来てくれて、サンキュな」
労るように頭を軽く撫でながら、礼を伝える。本当に、刑部がいなければ今頃どうなっていたか。
「お前が捕まるのはよくあることだが」
「おい、誰がよくあるって?」
怒りを込めて聞き返すが、真面目な話だと頭を上げてきたので黙る。
「一度目の喧嘩で、手を潰そうとした奴は今までいたか?」
「いや……、いねぇな」
不本意ながら捕まっても、殴る蹴るばかりで手を潰すなんて考えの奴はいなかった気がする。
「もしかしたら、一度目とは少しズレているのかもしれない。晃、気をつけろよ」
「……おぅ」
確かに、また似たような奴らが現れないとも限らない。だがそれは、刑部だっておなじだ。
「お前も気をつけろよ。俺より喧嘩っ早いんだから、指なんて怪我すんじゃねーぞ」
軽い気持ちで忠告すると、くすりと笑った刑部は首を振った。
「俺は問題ないよ」
「いや、あるだろ。ペット吹けなくなったら大変だろうが」
「俺はもう、ペットは吹かないよ」
「は?」
告げられた言葉が理解できず、思考が止まる。吹かない。トランペットを。なんで?
「オケもないし、吹く場所もないしね」
「場所ならいくらでもあるだろう。家でもどこでも、ウロボロスでだって吹けばいい」
「晃、ウロボロスはもう、俺の居場所じゃないんだよ」
「ふざけんな!」
気づけば馬乗りになって、刑部の胸ぐらを掴んでいた。
「あそこは俺たちのステージだろ、なんでそんな、諦めたみたいなこと言うんだよ」
声を発する度に胸が苦しくなって、かがみ込むように刑部に胸へ顔を埋める。宥めるように、大きな手が頭を撫でて髪を掬う。
「今更、俺があそこに行けないだろう」
「行く行かないじゃなくて、あそこはお前の居場所だろ」
どうしてこいつは、こんなに頑ななんだろうか。俺が決めたルールがこいつを縛り付けているのだろうか。
今度は悔いなく過ごそうと言い合ったのに、諦めてばかりじゃないか。だったら。
「次!またループしたら覚えておけよ!お前を生徒会長なんかにしてやらねぇからな!」
「怖いことを言ってくれるね。もうループはこりごりだよ」
「はっ、言ってろよ。二度あることは三度あるっつーだろうが。目にもの見せてやる!」
跨ったまま、指差して宣言する。
刑部はどこか、楽しそうに笑っていた。
二度目の卒業式。
見送る安田達を背に、校舎を見上げる。
結局、ウロボロスに刑部は一度も顔を出さなかった。
トランペットを辞めてしまったのかは、聞いてはいない。
けれど三度目があれば、必ず、きっと。
まだ硬い蕾の桜は、綻びそうになかった。
三年の五月のある日、校庭脇に見慣れぬ、空色のバスが止まっていた。
時計の針が、動きだす音がした。