ざっくり設定。
呪詛師五(α)にひょんなことから拉致られた野薔薇ちゃん(Ω)の話。
◇
「それじゃ、僕少し出かけてくるけどお利口にしていてね」
そう告げた五条は態とらしいウインクを一つ野薔薇へ投げてくるりと背を向けた後、何時も身につけている真っ黒の目隠しで双眸を覆い隠した。
隙だらけの背中。もし、今何か攻撃の一手を仕掛けたのならば通じるだろうか、と脳内でその未来を描きながら、手に持っていた空になったコーヒーカップを持ち上げ、投げてみようかと考えたが、そのような行為をした所で無駄である事は明白だった。
故に野薔薇は全てを諦め小さな溜息を一つだけ零す。
大きな背中。圧倒的な強者であるという雰囲気。
ソファーに座りながら野薔薇はその背中をじっと眺め、一つしかない扉から出ていくのを今か今かと待ち望む。
「…てかさ、行ってらっしゃいの一言くらいあっても良くない?」
不意に五条がくるりと野薔薇の方向へ首を向け、強請るように言葉を投げ掛けた。
その仕草に微かな苛立ちを覚え、再度溜息を零し、怒気を含んだ声色で野薔薇は「行ってらっしゃい」と言葉を紡いだ。
その言葉を耳にした五条は満足気に笑みを浮かべると今度こそ扉から外へと出ていった。
ぱたりと扉が閉まり、室内はしん、と静まり返る。静寂が包み込む中、野薔薇はぼんやりと今しがた五条が出ていった扉を呆然と眺める。
野薔薇がこの場所に連れてこられて約一週間。分かった事と言えばこの辺りには人の気配が全くしないという事。
人々が活動している生活音は全く聞こえず、偶に鳥や虫の声が耳に届く程度の音しか聞こえてこないのだ。
まるで世界から切り離されてしまった場所の様に思えて、野薔薇は一人頭を抱えた。
広々とした部屋に一人。考える事はただ一つ。
誰も居ないこの隙を狙って脱出を測る。
簡単に出られやしないだろうが、やらないよりもやる方がマシだ。
野薔薇はゆっくりとソファーから立ち上がり、五条が辿った道と同じ道を辿り、扉まで向かおうと決め、足を運ぼうとした。だがその足は一歩たりとも動く事は無かった。
突如として野薔薇の身体を異変が襲った。
「っ…は、巫山戯んな、こんな時にッ…」
この症状に身に覚えがある。どくりと血の巡りが早くなり、身体の奥底から熱がぶわりと広がりどんどん火照っていく。
間違いなくヒートだ。
普段抑制剤でコントロールしていたが此処に連れてこられてからは荷物は全て五条に奪われてしまった。もしかしたら中身は全て捨てられてしまっているかもしれない。手元に抑制剤が無い以上、ヒートを抑える術は一つしか残されていない。
千載一遇の機会だというのに、第二の性に縛られ身動きが取れない。野薔薇は奥歯をぎり、と噛み締め、ずるりとソファーへと項垂れるように身体を沈めた。
五条が居なくて良かったと思う反面、自分だけではどうしようも出来ないという焦燥感。次第に微睡む瞼に逆らえず、ただ身体の熱だけが燻る中、
αである五条の香が残った室内でただ行き場のない熱を身体に収めながら、野薔薇はゆっくりと瞼を閉じた。
◇
その日、呪詛師である男は幸か不幸か、あの五条悟のセーフハウスでとある時間帯だけ警護をしろ、というお達しを受けていた。
警護、と言ってもただの見張りをしておけというものだが。
日本に四人と言われる特級に値する呪術師。今は呪詛師側の人間だが。兎に角、彼からの命令を無下に出来るはずもなく、そのお達しに首を縦に振ったのは数日前の出来事。
そして今日がその警護の日である。
何故警護をしなければならないのか、何を警護するのか、諸々の理由は当然教えられる筈も無い。
若干の不満はあるものの、五条からの頼みという事実が男のやる気を引き出していた。
この任務を伝えられた際、五条は言っていた。
『君にしか言っていない、他言無用だ』と。
言うなれば極秘の任務。失敗は許されない。
幸い、時間は半日と短い。
終わりの時間まで何も起きないことをただ願うばかりである。
だが、何も起きない筈が無い。言われた場所へ辿り着いた瞬間、男の鼻腔を擽った何とも言い難い甘く、脳が蕩けるような香り。
そう言えば、絶対にセーフハウスには入るなと言われていたな、と脳裏に五条から伝えられていた言葉が過ぎる。
だがその言葉よりも男はこの場所から漂う甘い蜜の香りに狂わされていた。
男はは俗に言う、『ラット』状態に陥っていたのである。
セーフハウスの玄関には当然、鍵が掛かっている。なんなら何重にも重ねがけされた呪術も施されているが、男は呪詛師として生きてきた。故に多少の手間は掛かったがその呪術を解き、入ってはいけないとされていたセーフハウスの扉を易々と開けてしまったのだ。
室内に入り込めば気が狂ってしまいそうな程、甘い香りが充満していた。
理性を秒で溶かしてしまいそうな程の甘美な誘惑。それに釣られ、男はただこの香りを発している人物に近づいて行く。
その姿はさながら、甘い蜜に誘われた虫だ。
迷いなく匂いの根源へと辿り着くべく、男は足を運んでいく。
例えば、今この場に五条悟が現れたら。
間違いなく首が飛ぶだろう。
だが、そうなる未来が頭の中で描かれていて尚、男の足は止まらない。
あの五条悟が大事に隠していた何かを害する事で、一泡吹かせられるかもしれないという願望と、αであるが故の欲が男の心を支配していた。
熱に犯された淀んだ眼が捉えるはソファーの上で一人、力なく蹲る野薔薇の姿だ。
進めば進むほど鼻腔を擽る甘美な香り。
理性等この男には一変も残されていなかった。
支配欲に満たされた男は舌なめずりをし、甘く熟れう果実を手に取るべく、その手を野薔薇へと伸ばす。
「——、その子に触れるなよ、下衆」
だが、その手は野薔薇に触れる事無く空を切り、代わりに低く唸る低音が鼓膜を震わせた。
◇
野薔薇が人の気配を感じ、重たい瞼をあければ、視界に飛び込んできたのは見知らぬ男二人だった。
一人は呪霊によって身体のあちこちが吸われている。そしてもう一人、その様を侮蔑するような眼差しで見ている艶やかな濡れ羽色の長い髪を靡かせた男。
意識が飛んでいる間、多少ヒートが収まったのか気怠さが幾分かマシになっていた。
ゆっくりとソファーから身体を起こし、ソファーの背に背中を預け一度室内を見渡す。
室内に蔓延る刺さるような空気。息が詰まりそうになるくらい、殺意に満ちた空気。
そんな空気の中、長い髪を靡かせた男はその場に
似つかわしくない笑顔を浮かべながら野薔薇を見据えていた。
「初めまして、私の名前は夏油傑」
唐突に始まった自己紹介。夏油と名乗る男が名乗りとえると同時、室内に鉄臭い匂いが一気に充満した。
視界の端に写る鮮血、そして鼻腔を擽る鉄の匂いに野薔薇はくらりと視界が歪むのを覚え、再度瞼を閉じた。