再見する世界「似合わねぇよ」
「そう? 私はけっこう気に入っているけど」
カウンター越しに立つ夏油は、黒いシャツの上から黒のエプロン制服をつけている。からすの濡れ羽色をした髪を腰まで伸ばして、全身が黒につつまれるが、やぼったさは感じない。ガラス張りの壁から差しこむ朝日が、カフェ全体によさげな雰囲気を放つせいだろう。
「うさんくさすぎ。よくそれで面接通ったね。コネ採用?」
「七海の紹介だからね。コネ、になるのかな」
夏油はそういって体をかたむけて、五条の後ろに立つ七海に微笑む。
コネもなにも、急な任務が入ってシフトの穴埋めを頼んだのは七海である。感謝こそすれ、非難する筋合いはない。
「すみません夏油さん。五条さんも、勤務中のスタッフをくどかないでください」
「くどいてないよ。傑が暇そうだから相手してんの」
「オープン前は忙しいんですよ」
ろくにバイト経験がない五条には縁がないが、店内の清掃から仕込み、昨日の引きつぎとやることは多い。
五条はカウンターに腕をついて、気にせず会話を続ける。
「傑、髪伸びたよね。ハーフアップってやつ?」
「これ? 美々子と奈々子がやってくれたんだ。うまいよねぇ」
夏油は嬉しそうに目元をくしゃりとゆがめた。美々子、奈々子とは2年前、夏油に保護された双子の少女である。彼女らは施設に預けられたが、頻繁に夏油をたずねては身のまわりの世話をやいた。
「すこし前まで子供と思っていたけど、いやはや。若者の成長は早いね」
自分だって高専を卒業したばかりのくせに、壮年じみたことを言う。
五条は双子の名前が出たとたん興味を失って、「ふーん」とそっぽを向いた。隠しきれない不満をあらわすように、カウンターをとん、とたたく。これでも態度は軟化したほうだ。保護されたばかりのころは、夏油が取られると思ったのか、もっと敵意を向けていた。
最強の能力に反して子供っぽいところがある人だ、と七海は呆れるが、夏油にも非はある。五条が忙しい合間をぬって来るたび、双子の話ばかりしていた。
双子と夏油が出会った2年前の夏、その場に七海も居合わせた。
居合わせたといっても、現着したのは夏油より少し遅い。ちょうど、村人たちに攻撃の牙をむいた矢先だった。
止められたのは奇跡に近い。踏みこみがあと1歩遅ければ間に合わなかった。
夏油の後ろにいた双子は座敷牢に閉じこめられていて。閉鎖的な集落で何が行われていたのか、聞かずとも明らかである。
夏油は感情のともなわない目で村人を見ていた。いや、きっと、人と映っていない。もっと取るに足らない。せいぜい道端に落ちている虫を見下ろす感傷だろう。
「なにしているんですか、夏油さん」
七海の声をきいて、ようやく存在に気づいたらしい。
「七海? 危ないじゃないか。退いていなさい」
危ないもなにも、攻撃をしかけたのはあなただと言いたい。
「退いたらこの人たちを殺すでしょう」
「さぁ、どうかな」
穏やかな笑みを落とす夏油は、普段と相違ない。高専で「非術師は守るもの」説いたときと、同じ顔をしている。だからこそ異質だった。
五条の顔がよぎる。嫌な予感がする、と懸念するが任務を抜けられなかった。人を食ったように飄々とした人が、自分より弱い後輩に頼むのは屈辱だろう。それを微塵も感じさせず、「頼む」と必死に言った。
その信頼には応えなければいけない。たとえ目の前の人が、恐ろしくとも。
「夏油さん、呪霊をしまってください」
周囲ではあえぐような声を漏らす呪霊がうごめいている。低級が1体、2体ではない。いっせいに向けられたら村人はおろか、七海の命も軽く吹き飛ぶ。汗ですべりそうな呪具を握りなおすと、夏油はあっさり呪霊をしまった。息苦しさが消えるが、安堵には早い。夏油は強力な呪霊さえをおとりにして、術師自ら叩きにいく手をよく使う。
「高専に帰りましょう」
「今の光景をみて言う?」
夏油はわざとらしく周りをみわたして、いたずらが見つかったみたいに笑う。
特級の力を一般人に向けた。七海が止めければ死者がでた。死刑にはならずとも、近しい処罰はくだる。
それでも七海には、連れて帰る以外の選択肢がない。
「言い訳をしてください。衝動的なものだったと。微力ですが私も口添えします。この状況なら理解も得られる」
言いながら、そうだ、それがいいと、希望を繋いでいく。
護衛任務失敗と、灰原の死。全国的な残暑にともなった呪霊の増加が重なり、肉体的にも精神的にも疲労はピークを迎えていた。夏油は生来、平和的な思想を持っている。暴走は意図せぬものだろう。情状酌量の余地はある。
しかし、夏油はあっさり希望を打ち砕いた。
「ちがう。ずっと考えていたことだ。私のなかには、非術師を見下す自分がたしかに存在する。汚らわしい猿にみえるんだ」
七海に語りかける声は落ち着いている。意志はゆるぎない。説得は無謀に思える。
「私はもう、非術師を守る意味がわからなくなってしまった。自分の存在意義さえ、あいまいになる」
「でも。それでもあなたは、高専に帰るべきです」
「まだ言うか」
「五条さんはどうするんですか」
初めて夏油のひとみが揺れた。
「悟は、大丈夫だよ。1人でもやっていける」
「本気で言ってますか?」
「最強の、力だ。誰も疑いようがない。君だって、悟だけがいればいいと言っただろ。まぁ、多少性格に問題はあるけど。圧倒的な力の前では取るに足らない」
「そうですよ、五条さんは、性格が悪いんです。夏油さんにもいてもらわないと困ります」
軽口のように笑うが、七海は緊張に震えていた。
まったくもって嫌気がさす。絆されてくれない夏油に、厄介ごとを押しつけた五条、説得の術をもたない自分に。
「でも悟はあれで人に好かれるタチだから。実は、あまり心配してないんだ」
「私のせいですか?」
「え」
「あの人だけでいい、と言いました。だから」
「思い上がるな。きみの発言じゃない。私自身が決めたことだ」
夏油は冷めた目をむける。どこまでも優しい人だと思った。
「でも私は、一生後悔すると思います」
「おおげさだなぁ」
「止められなかったら、五条さんに合わせる顔がない」
「大丈夫だよ。悟もなんだかんだ、七海を気に入っているから」
引き留める立場の七海が、慰められている。
おかしくないのに笑いがこみあげる。口元がいびつに曲がって、うまく笑えなかった。
「呪術界はクソです。あなたみたいに優しい人から、すり減ってばかりだ」
「優しい人?」
「そうでしょう?」
「猿共を殺すことになんの躊躇もないのに? これからも、守ろうと思えない」
「でも、その子たちは救いたいんでしょう?」
夏油の後ろでは双子の女児が、互いをかばいあうよう抱きしめる。長年の虐待で顔は腫れあがり、青痣がめだつ。夏油をみる目にはおびえと、一縷の望みがにじんでいた。
「高専へ、帰ってきてください。その子たちも治療が必要でしょう」
夏油が従ったのは、七海にほだされたのではない。少女たちの怪我を気にしただけだ。
家入にあずけたら、きっと隙をみて逃走するつもりだった。それを止めたのが五条である。夏油が高専にもどってすぐ部屋に連れこみ、3日3晩出てこなかった。どう説得したのかは知らない。――あまり知りたいとも思わない。
再会したとき、夏油は「すまなかったね」と穏やかに笑った。心配したような処分も下らず、卒業まで無事に過ごし、今では特級術師のかたわら、七海のバイトを手伝っている。
カフェバイトだ。
卒業後は一般企業に就職したい七海は、経験値を積むためにカフェでバイトはじめた。店主は引退した術師で、任務への理解もある。シフトに穴をあけても快く承諾してくれる人格者だが、七海は罪悪感が募った。迷惑を重ねるくらいなら、いっそ辞めるべきか悩んでいると、夏油が言った。
「私が代わろうか?」
猫の手も借りたい状況で、入ってくれるならありがたい。しかし唯一にして最大の懸念がある。夏油は術師を続けているが、あの日から非術師嫌いは変わっていない。猿とよび、嫌悪する様をみた。そんな彼が、非術師も集まるカフェで働けるのか。
五条に相談すると、「いいんじゃない?」とあっけらかんとしていた。
「本人が言い出したんだし。七海が迷惑じゃないなら、好きにすれば?」
拍子抜けである。意外と他人行儀なんだなと思ったが、こうして任務の合間をぬって会いに行くをみるに、気になってはいるのだろう。
五条はカウンターにちらばったメニューを見下ろす。
「僕もここでバイト始めようかな」
「特級術師兼、五条家当主兼、カフェ店員? 肩書き多すぎ。ちょっとは自重しな」
「僕ならできるよ」
「カリスマ店員が2人もいたら、ほかの店員に迷惑だろ?」
「それもそうか。じゃあやめとこ」
七海は冷ややかな目を送るが、五条と夏油はなにが楽しいのか笑いあった。付き合いの年数を重ねても、2人の笑いのツボはいまいち理解できない。
「冗談はさておき。せっかく来たんだから、なにか買っていく?」
「甘いのある?」
「いちごのスムージーは?」
夏油は一番の高額商品をすすめた。ちなみに売り上げに応じたインセンティブはない。店に協力的というより、お金のあるところから巻きあげたいだけだろう。
「じゃあそれにしよっかな。七海は? コーヒー?」
「お願いします」
「まかせて。とびきり美味しいの淹れてあげる」
七海の会釈に、夏油はウインクを返した。厚意はありがたいが、五条のじめっとした視線を感じて素直に喜べない。
「傑さぁ、七海に甘くない? 僕には?」
「スパイス少なめにしといてあげる」
「……ヤッター」
五条は棒読みに喜び、夏油を挙動をみつめた。アルコールランプに火をつけて、沸騰待ちのあいだに、凍ったいちごとヨーグルトをミキサーにかける。
コーヒー粉をロートにいれて、煮立った湯の上にセットした。粉に湯が浸透して、ぽこぽこと茶色い液体が泡立つ。木べらでまぜると、店内に香ばしいコーヒーの香りが広がった。
「手慣れてるね」
「何回か、代わってもらいましたから」
七海が答えると、五条は「ふーん」と気の抜けた返事をする。夏油をじっと眺めてそらさない。
「任務だけど、七海と補助監督で先に向かわない? 僕は傑の接客を見とどけてから追いかけるよ」
「見とどけんでいい」
「授業参観ってこんな感じかなぁ? 我が子の活躍を見守りたい親の心境?」
「いてたまるかこんな親。あまり七海を困らせるなよ」
「七海は困ってないよなぁ!?」
七海は、肩を組んできた五条を手で押しのける。目で助けを求めると、夏油は苦笑して、五条をたしなめた。
「ほら悟。いいことしてあげるから」
「いいことぉ?」
「カップにメッセージ書いてあげる。ほんとは追加料金払わないと書いちゃダメなんだけど、特別だよ」
「マジで!?」
「いや、そんなサービスありませんけど」
勝手におかしなオプションをつけないでくださいと言った七海はスルーされた。五条はあっさり離れて、機嫌よくカウンターに肘をつく。
「僕の好きなところ10個書いてよ」
「どうしようかな」
夏油は思わせぶりな笑みをうかべて、ペンを走らせた。五条の後ろに、ぶんぶんと大きく振れた尻尾がみえる。まるで飼い主に「待て」をくらった大型犬だ。
「できた」
五条がじれったく伸ばした手を、夏油は握りしめる。手のひらで文字を隠すように、カップを持たせた。
「恥ずかしいから外でみてくれないか?」
五条はうなずいた。ストローをくわえて、ずずっとすする。
「おいしい」
「でしょ。任務いってらっしゃい」
「うん」
七海のコーヒーも渡し、夏油は手をふって送り出す。店を出ても、五条はカップを握りしめていた。
「見ないんですか?」
「車に乗ってからね。引き返したくなったら厄介でしょ」
たしかに、まわれ右で速攻帰られても困る。七海は胸やけを感じて、コーヒーに口をつけた。火傷しない程度に熱く、苦味も申し分ない。これなら猫の手どころか、充分店の戦力になる。
「美味しいです。……夏油さんがいて、本当によかった」
バイトを代わってもらうではなく、もっと広義の意味で。
夏油と五条は、互いの負担を減らせる。余力は若い術師の育成に使われる。今回、五条が七海の任務へ同行するのも補助の一環だった。
五条や夏油の同行があって助かった呪術師は多い。なにより陰鬱な任務前に、こうしてバカバカしくも平穏な先輩方のやり取りをみていると、呪術界も捨てたもんじゃないと思える。
「言ってやると喜ぶよ。アイツ、七海には借りがあるってずっと言ってるから」
「借り、ですか?」
出会ってからの記憶が走馬灯のようによみがえるが、貸しつけた覚えはない。けげんな顔をみて、五条は苦笑する。
「集落で止めたことでしょ」
地図にものらない集落で、村ぐるみで虐待されていた少女たち。その子らを守るように立った夏油の顔に感情はなく、彼の指揮下にある呪霊がうごめいていた。夏油のさじ加減であっさり吹き飛ぶ命の軽さを実感した。忘れたくても忘れられない思い出が苦く広がる。
「私は無力だった。本当の意味で夏油さんを止めたのは、五条さんでしょう」
「七海は、高専に連れ帰ってくれたじゃん」
「双子の怪我をちらつかせましたから。私だけだったら、治療中に出て行かれた。あの人を止めたのはあなたですよ」
五条は静かで、いつもの覇気はない。どう声をかけるべきか。言いよどんでいると、五条はにやにやと意地の悪い笑みをうかべる。
「なに。もしかして僕に気使ってる? 七海のくせにナマイキィ」
「はぁ」
急な手のひら返しに戸惑い、呆れて息をはく。たまに真面目かと思ったら、これだ。軽薄さを絵にかいたような人だった。
「分かってるよ。ただ、傑がキレたとき、僕もそばにいれたらなって思っただけ」
五条の口調は軽い。でも言葉に嘘はないのだろう。
「後悔してるんですか?」
「後悔、とはちがう。終わったことを悔いても仕方ないし。自分への戒めかな」
戒め――戒めとは、二度と間違わないようにすること。
五条はなにか間違えたのか。問いかえす前に、補助監督の車が到着する。後部座席を開けて、五条はメッセージ付きカップをひざに置いた。七海は興味半分、怖いもの見たさ半分で横目にうかがう。
さすがに好きなところ10個は書いてないだろうが。……いや、夏油さんなやらやるか?
五条はそっと指をひらいて――ぷはっと吹きだした。
「あーー、傑ぅ」
座席に深くもたれて、唸るように名前をよんだ。手足をだらりと伸ばして、余韻にひたる。次第にくつくつと肩を震わせた。
「なんて書いてあったんです?」
「ほら」
カップを向けられる。
『サボるな』
「情緒もクソもないよね」
五条はやれやれと首を振るが、どこか楽しそうに見えた。
文字の横には、呪霊のようなものも描いてある。どこか見覚えがあった。夏油の手持ちの呪霊だろうか。七海が記憶を探っていると、五条が笑いながら教える。
「それ、傑の自画像」
「夏油さん!?」
七海は目を凝らして、カップに描かれた絵をみる。言われてみれば黒い丸はおだんごで、トレードマークの前髪らしきものもあるが、これは――
「ずいぶんと前衛的な絵ですね」
七海はだいぶ、言葉を選んだ。
「傑って絵がヘタなんだよ。かわいいでしょ」
はたして成人近い男性の絵が壊滅的なさまを、かわいいと表していいのか。否定しても肯定しても面倒になりそうで、七海は無言でぬるくなったコーヒーをすすった。