『すぐる』「『すぐる』使った?」
テレビ局の廊下を闊歩していた五条は、曲がり角でとっさに身を隠す。
すぐる。
すぐるとは、五条の相方の名前である。祓ったれ本舗としてコンビを組んで5年。お笑いの金字塔番組で優勝して任された冠番組は安定した視聴率を保ち、知名度もあがってきた。しかし生き馬の目を抜く芸能界では後ろ盾も少なく、立ち位置は若手にとどまっている。
――いいかい、悟。支えてくれるスタッフは大切にしないと。彼らに嫌われたら、どれだけ視聴者に受けても未来はない。媚びろと言ってるんじゃない。てきとうに愛想よくすればいいんだから、簡単だろ? まぁ心配せずとも、君がちょっと微笑めば、たいていの奴はほだされるんだし。
ちょっとした微笑みであまたの人間を落としてきた夏油が言うと、説得力がちがう。さっすが~とからかい半分で言うと殴られた。
夏油は、五条に対して遠慮ない。
しかし実際に夏油は見栄えよく、天性の人たらしスキルも併せ持つためスタッフから好まれている。視聴者ファンは五条のほうが多いが、同職場のガチ勢は、圧倒的に夏油に軍配があがる。印象に残りやすい『夏油』ではなく、『傑』と下の名前でよぶ輩は、五条にとってガチ勢発見の踏み絵になっていた。
五条は廊下の壁によって、気配を殺す。廊下を歩くスタッフが、白壁と同化した五条に気づいて飛び跳ねた。声をかけられる前に、五条は唇に指をあてる。――黙ってろ。無言でにらむと、スタッフはこくこくとうなずいて、逃げるように去った。
五条は「すぐる」と呼んだ二人を盗み見る。
「俺、使ったことないんだよな。ああいうのって、ちゃんと家に来てくれんの?」
「もちろん。そういうサービスですし」
「マンションでも?」
「ええ。インターフォンならして、『お待たせしましたぁ』って。あの瞬間、テンションあがりますよ」
声真似だろうか。ずいぶん媚びて、甘い声だった。夏油が言う姿を想像して、オ“ッエと舌を出す。
得意げに話している若いほうは見覚えがある。以前、祓本がゲスト出演した番組のプロデューサーを務めていた男だ。収録ではずいぶんと夏油を気に入り、「傑くん、傑くん」としつこく話しかけては、スケジュールを聞いていた。相対する男は知らないが、口調と年齢から上位の役職だろう。
壮年の男はプロジューサーの話を、興味深く聞きこんだ。ゆったりと口を開き、黄ばんだ歯をのぞかせる。
「それで、具合はどうだったんだ?」
「具合、というと?」
「あるだろ、ほら。……うまかった、とか」
「ああ、そりゃあもう、バッチリ。プロの技ですよ」
プロデューサーは喜色をうかべて、指でまるを作る。
「でも初回じゃないと割引きかないんですよね。ふつうに頼むと高いからなぁ」
「じゃあ僕が頼もうか。家まで来てくれるなら、都合もいいし。せっかくだから君も来るか?」
「いいんですか? さっすが――」
以降は男たちの持ち上げ合戦が続く。
初回だと、安い。家に出向いて、具合は良いと褒められる行為。
それはナニか。
結論が出ると同時に五条は立ちあがって、2人に姿をさらした。サングラスをひたいにあげて、裸眼でまじまじと見下ろす。
取り立てて特徴のない男たちがだった。夏油の温情をうける価値もない。
彼らはとつぜん現れた190越えの長身に呆然とするが、しだいに肩の力を抜く。
「君は、五条の――」
しょせん、『祓ったれ本舗』ではなく、『五条』の枕詞がとっさに出る奴らだ。
五条といえば日本有数の名家で。やろうと思えば局の1つや2つ買収できる権力があって。悟はその次期当主で。芸人なんてやる必要ないだろと、雑音も多い。
「なぁ。『すぐる』って、うちの傑のこと?」
男たちは顔を見合わせる。
ひと呼吸おいて、プロデューサーが答えた。
「相方に、いい仕事ぶりだと伝えてくれ」
「はぁーい」
五条が端によると、男たちは頭を下げて退散する。夏油がいたら「立場が逆」とどつくだろうが、この場にはいない。夕方に入っていた会食はキャンセルして、五条は帰りの支度を整えた。
*
払ったれ本舗は今でこそ芸能界に浸透したが、元は高校の文化祭で組んだ即席コンビである。
デビュー当初は無名で、当たり前に売れてない。売れない芸人は、やりがい搾取の温床である。拘束は長く、不規則だが低賃金。バイトを合わせても生活費でせいいっぱい。どう考えても割りにあわない仕事を続けているのは、いつか見返してやるの意地にほかならない。夏油も例にもれず、楽屋で家賃の安さだけが誇れる物件を閲覧していた。横からのぞきこんだ五条は顔をしかめる。
「なにみてんの?」
「1人暮らしの物件。卒業したんだし、そろそろ親元を離れないとね」
「俺と住みゃいーじゃん」
親離れは立派だが、夏油の見ていた物件は五条家のクローゼット程度に狭い。築年数も加味したら、クローゼットのほうがマシに思える。
「一緒には……無理だろ。悟は生活費かかるし。どうせ最低条件が四階以上のオートロック付きマンションだろ? しかも素で中央区とか選びそう」
「通勤ストレスって、この世でいちばん無駄じゃね? オートロックは当たり前」
「コンロは2口以上で、敷地内にゴミ捨て場あり?」
「さいこーじゃん。寝室は1部屋でいいよな。でっかいベット置こうぜ」
「いやぁ悟はすごいな。まるで大御所芸能人だ。意識がちがうねぇ。ご立派、ご立派」
夏油はスマホのスクロールを止めないまま、はっはっと声だけで笑う。五条のテンションもあがって、笑い声をかぶせた。夢にみた同棲生活を思い浮かべる傍らで、夏油はすんと真顔になる。
「冗談は置いといて」
「冗談じゃねぇんだけど」
「私はいいよ。身の丈にあった暮らしをする」
「身の丈ってなに。質素で不便な生活をすること?」
「悟にはそう見えるかもね」
「一緒に住みゃいーじゃん」
五条は先ほどと同じセリフを言った。最初から、学生を終えたら同棲するつもりだった。夏油が単身、家を探しているほうが予想外である。
「金が問題なら、俺が出すし。なんなら全額でも」
「悟」
夏油はスマホから顔をあげて、五条に向きなおる。
「私にもプライドがある。君の世話にはならない」
きっぱりとした言い分は反論を許さなかった。
「っんだよ、それ」
五条の主張はむずかしくない。傑といると楽しい。だから、一緒に住みたい。そのために足りないものがあるなら、自分が払う。それの、なにが間違っているのか。
「俺はただ。傑は友だちで、相方だし」
「そうだね」
「他のやつだったらこんな提案しねぇよ。べつにさぁ、いいじゃん。傑に損はないだろ?」
「損得の問題じゃない」
「じゃあなんの問題?」
「悟は、私を友人と言ったね?」
食ってかかる五条に反して、夏油の声は穏やかだった。
「え、なに。そこから確認?」
「片方に寄りかかる関係を、友人とは呼ばないんだよ。私は君とは対等でありたい。悟から一方的な援助を受ける気はない。わかるね?」
わからない。余っている資産をどう使おうと五条の勝手だろう。夏油といる時間に払って、なにが悪い。
けど、そんな説得じゃ夏油が納得しないのは、わかった。
「一方的じゃないって言ったら?」
「え?」
「出世払いだよ、出世払い。全額まるっと貸しとく。俺たちが売れてから返してくれたらいい」
夏油はそれでも渋る。
「友人同士でお金の貸し借りはするなと教わらなかったか?」
「あーいえばこういう! 言っとくけど俺、1人じゃ暮らせねぇから。生活スキルのなさを舐めるなよ。実家出るときも、傑と暮らすつって許されたし」
「待て。本人の知らないところで話を進めるなよ」
夏油はひたいを指で抑えた。五条の話には嘘が混ざっている。生活スキルがないのは本当だが、許可は取ってない。「傑と暮らす」と告げて勝手に出てきた。
「傑は、俺が家んなかで野垂れ死んでもいいの? ゴミ屋敷の名所になって、周囲も巻きこんだ爆発おこすかも」
「余計住みたくなくなったんだけど」
夏油は苦笑するが、これは、折れた反応である。五条を一人放っておいたら、あり得る未来だと、恐れたのかもしれない。
「わかったよ、悟と住む」
「マジ!?」
「家賃は払えるだけ払う。足りない分はすまない、必ず返すよ。そのためにも最速で売れるぞ」
「もっちろん! 俺たちなら余裕っしょ」
五条は感極まって両手を広げる。抱きつこうとした直前で、ひたいに指を突きつけて止められた。
「言っとくけど、悟も家事を覚えなよ。君のためにもなる」
「いやぁ、楽しみだな~!」
家事の分担とか新婚の会話みたい、とは口に出さずとどめておく。夏油といればすべてが輝いてみえた。選んだ物件は都内一等地にあるオートロック付きマンションの高層階。寝室は同じで、2人が寝返りを打っても余るほど大きなベッドを1つ置いた。まさに夢のような空間である。
それから間もなく祓ったれ本舗の露出は増えた。収入が安定すると夏油は一括、耳をそろえて返済する。祓ったれ本舗の給与だけでは帳尻があわないから、普段から節制に励んでいたのだろう。
正直、返済など忘れて好きなものでも買ってほしかったが、受け取らなければ角が立つ。しぶしぶ受領すると、傑は信じられないことを言った。
「さて、じゃあ私はそろそろ引っ越そうかな」
「なんでぇ!?」
家賃を払えるようになったら出ていけ、なんて取り決めたか。いいや、してない。
「なんで、って。いつまでも悟の世話になるのも悪いし」
「え。は?」
「私が安アパートばかり見ていたから、心配してくれたんだろ? 心配しなくてもセキュリティーの大切さは身に染みたよ。これほどとは言わずとも、それなりのところに住むから安心してくれ」
収入も安定したしね、と夏油はあっけらかんとする。
冗談じゃない。夏油が出ていく選択肢がうまれるなら、一生売れなくて良かった。――いや、俺と傑が組んで売れないはずがないけど。
五条は全力で抵抗した。
俺は同情で誘ったわけじゃねぇよ。傑の頭でっかち、わからずや、裏切り野郎。金さえたまれば用なしか? 最低、ヤリチン、エトセトラ。
夏油はもちろん、黙って聞く男ではない。言い返し、取っ組み合いの喧嘩が丸1日続いたのち、折れたのは夏油である。
「わかったよ」
五条は喜びにガッツポーズをして、同棲は継続された。そのころにはピンの仕事も増えて、人付き合いのコミュニティも変化してくる。互いの予定をすべて把握はできないが、同じ家に帰る安心感があった。信頼していた。
その放任が、アダになったのか。
五条が家のドアを開けると、廊下の電気がつく。コートを着た夏油が顔をみせた。
「あれ、早かったね。今日は会食じゃなかったの?」
「傑こそ、今日は家って言ってたじゃん。どこ行くの」
「食事に誘われてね。ほら、この前の番組でお世話になったプロデューサーいただろ?」
あがった名前は、先ほど夏油を「すぐる」と呼んでいた男だ。
「ちょうど私の話があがって、会いたくなったらしい。これも人脈づくりだ。行ってくるよ。悟は?」
能天気に首をかしげた夏油は、ようやく五条の表情が削げ落ちていると気づく。
「悟、どうした。体調でも悪い?」
夏油は手をのばした。頬にふれられる直前、五条は手首を掴み取る。
夏油は痛みに眉をひそめた。
「行くなよ」
夏油を壁に押しつける。驚いて抵抗を忘れている隙に、五条は、顔の横に手をついた。逃げられないよう囲いこむ。
「人脈づくり、……人脈づくりね」
くつくつと喉で笑った。なんて便利な言葉だろう。夏油を家に呼びだして、ご奉仕させて、同族に具合を自慢する。デリヘルまがいの行為を人脈というらしい。
テレビ局で盗み聞きしていなければ、『人脈づくりの食事』を言葉のまま信じ、送り出していた。
「くっだらねぇの」
五条が鼻で笑うと、夏油の片眉がぴくりと跳ねた。
「下らない?」
「そうやって誰にでもいい顔して、尻尾ふりまいちゃってさ。枕営業ってやつ? 時代錯誤はなはだしい。今どき似合わねぇだろ」
「発言には気をつけろ。気が立っている理由は知らないが、私に当たるのはやめてくれ」
すり抜けようとするが、五条が強く掴んで離さない。夏油は不機嫌に顔をゆがめた。
「あまりゆっくりしている時間はないんだ。文句があるなら要約して言ってくれないか?」
「行くな」
「あのねぇ」
ため息をついた夏油は、ふと、五条をみる。泣くのを我慢しているような、置いて行かれた子供のような表情をしていた。
「……じゃあ、悟も来る?」
「え」
「会食が中止になって、お腹でも空いたか? いいよ、おいで。相方を連れてくるなとは言われてないしね」
腹が減って機嫌が悪いんだろ、と夏油のまなざしは生温かい。デリヘル枕に友人を誘うには、いささか軽い口調である。五条は、なにかおかしいと気づきはじめた。
「俺、今日、そのプロデューサーと会って」
五条はせきを切ったように話しだす。
「傑を家に呼んだ、って言ってた」
「……私?」
夏油は怪訝に、自らに指をさす。心当たりがないらしい。隠し事はうまいが、嘘をつく男じゃない。
「間違いねぇよ。ちゃんと確認した。ソイツ、傑はうまかったとか、初回だから安かったとか言いやがって」
「なんだそれ」
夏油の顔が不快にゆがむ。自分の知らぬところで噂が出歩いて、そりゃあいい気はしない。
「安い、初回……傑……すぐる? あーーー」
ぶつぶつ呟いていた夏油は、ひらめいたように手を打った。ぷっと吹きだして、笑いをこらえる。
「なに。なんだよ。思い当たることあった?」
五条は話が読めない。詰めよると、夏油は涼しい顔で尻ポケットからスマホを出した。あろうことか真剣に話している最中、ポチポチいじりだす。覗きこむと、出前のサイトをみていた。五条は愕然とする。まさか本当に、腹がへったと思っているのか。
「傑、お前――」
「ああ、あった」
五条が文句を言うより早く、眼前にスマホを突きだされる。顎をひいて、目を細めると、エプロンをつけた夏油が大きくうつっていた。
「クーポン『すぐる』を使って、初回30パーセントオフで出前を取ろう? ……って、なんだこれ」
「出前のクーポン。新規登録者が『すぐる』と入力すれば格安で、おいし~い料理を届けてくれる」
「え」
「もちろん届けるのは専門の配達員。私じゃない。私はただの宣伝係だよ」
「あ。あー……。そういう」
出前なら、家まで届く。「うまかった」と感想も出る。夏油は外面の良さをいかして、しごく真っ当な仕事をしていた。
「悟、なにか言うことは?」
「メンゴ」
五条が手をたてると、すかさず頭に手刀がふってきた。
「イッテ!」
「ふざけるな。君のせいで遅刻だ。私まで時間にルーズだと思われたらどうする」
「細かいこと気にする男はモテねぇよ、って言ってやれよ」
「時間を守るのは人として当たり前」
「なぁ、そんなことより俺も行っていい? いいって言ってたよな?」
夏油が枕をしていないのは分かった。プロデューサーが好意を持たれて、食事に誘われた事実は変わらない。今まで何もされなかったのは、ただの幸運かもしれない。
「遅刻のこと一緒に謝ってやるから」
「一緒に謝るもなにも、全面的に悟に非があるんだけど」
「いいじゃん、傑だって俺がいたほうが楽しいだろ?」
「まぁ、それは間違いない」
あ、そうなんだ。
傑は、俺といると楽しんだ。
うつむいて、五条は頬をかく。好かれているなんてわかりきっていたが、改めて言葉にされるとぽっぽっと体温があがる。
「照れるなよ。私まで恥ずかしくなる」
夏油は平然と通りすぎて、扉をあけた。外の冷気がふきこみ、首を縮こめる。隣にならぶと、夏油の横顔はうっすら赤らんでいた。
「照れてんのは傑だろ」
「死ね」
「口わるっ!」
夏油は照れかくしのようなふくれっ面で、シリンダーにさした鍵をまわす。同じ家だから当たり前だけど、五条も同じ鍵を持っている。
「あーあ、おじいちゃんたちに振り回された。美味い飯食わしてくれないと、わりに合わないよな」
夏油は横目でみて、にやりと笑った。
「悟もだんだん所帯じみてきたね」
「相方に似るっていうしな」
「ええ……嫌だな、私は喧嘩っ早くならないようにしよ」
「どの口が言ってる……?」
五条はおもわず耳を疑う。夏油がさっさと歩いていくので、置いて行かれないように早足で追いかけた。