破れるものなら破ってみろ 夏油が幼稚園に到着して最初に思ったのは、スリッパも可愛いんだなぁ、ということだ。足のこうについた猫のぬいぐるみは、歩くたびぴょこぴょこ跳ねた。サイズは小ぶりで、夏油のかかとは少しはみでて床につく。
となりに歩いていた園長が見上げて言った。
「それにしても夏油先生はほんとうに大きいですね。エプロン、ちょっと小さかったからしら?」
ひざ丈の園長とくらべて、夏油のエプロンは股下と短いが、これで男性サイズという。不自由は感じないし、備品ならこんなものだろうと覚悟もある。
「大丈夫ですよ」
「身長は180超えでしたっけ?」
「最後に測ったときは184でした。子供たちに怖がられないといいんですけど」
「そんな大きい先生はいないから、びっくりされちゃうかもね。でも夏油先生は小さい子に好かれやすそう」
「……あの、『先生』はちょっと。私はまだ免許も取れてない、学生の身なので」
夏油は謙遜して手をだした。単位のためとはいえ訪れたからには仕事に責任をもつが、先生と呼ばれる資格はない。
「でも来年卒業でしょう? いいじゃない。せっかく実地研修にきているんだから」
人好きの笑みを浮かべた園長は、昇降口で膝をつく。
夏油は幼稚園に、2週間の期限つきで研修に来た。大学が提示した候補地からてきとうに選んだが、施設はきれいだし、先生の人柄も悪くない。幸先の良さに笑みをうかべる。無事乗り切って最優評価の単位をもらうのが目下の目標であった。
「早い子はそろそろ登園すると思うから」
園長の言葉どおり、母親に手を引かれた子がぽつぽつ現れる。
「親御さんが送ってくれる子と、園バスで来る子がいるの。バスはあと30分くらいしたら着くわ」
向かってくる親子に笑みを向けたまま、最小限の口の動きで説明する。先頭を歩いていた男の子が、母親の手をふり払って走った。黄色い帽子が後ろに落ちるが気にせず、夏油まで一直線にきて指をさす。
「へんな前髪!」
夏油はかたまるが、園長はほがらかに挨拶した。
「おはよう、ゆうき君」
小走りで追いついた母親は、すみませんと夏油に会釈する。
「失礼でしょ。ちゃんと挨拶しなさい」
「お前だれ?」
「ゆうき!」
「私は夏油――」
ユウキ君とやらは聞かず、夏油のひざにのぼって、遠慮なく顔や体をさわる。そうするうち登園した子たちが次々と叫び、夏油に飛びついた。小さい体と侮ったが、手加減ない力は思ったより強い。倒れはしないが、どっしりした衝撃を胸で受け止める。
「はは、元気いっぱいだね」
夏油が笑うと、子供たちはぱあっと目を輝かせた。我先にと話し出す。
「新しいせんせー?」
「なんでいるの?」
「名前なに?」
「前髪へんなの」
「前髪は変じゃないだろ」
夏油のまじめな反論にも、きゃっきゃと喜んだ。子供相手に、むきになるだけ無駄である。夏油は改めて笑顔を作った。
「私は夏油傑。短いあいだだけど、よろしく頼むね」
「げとー、ちんこある?」
子供の話は脈絡がない。
「あるよ」
「俺の父ちゃんにもでっかいのある」
「そっかぁ」
「ゾウの鼻っていってたけど、ゾウのほうが大きい」
「ゾウが好きなのかい?」
「ふつう。恐竜が好き」
子供の話はほんとうに、脈略がない。夏油はひとりっ子で、もちろん子育ての経験もないが、こういった要領を得ないやりとりに既視感があった。奥歯に物がはさまった感覚に顔をあげると、異質な子が目にとまる。
やわらかく風になびいた白髪と、透きとおった白い肌。遠目にも際立つが、夏油の目を引いたのは容姿だけではない。ほかの園児は親と歩き、子供同士でじゃれあっているが、彼は1人だった。
1人で真っすぐ歩いてくる。
美人の真顔はこわいというが、こわいを通りすぎて作りものに見えた。
心臓が脈打ち、全身の血が熱くなる。ひざに乗せていたゆうきの、背中にまわした手を、無意識に抱きよせた。
「あの子は」
ゆうきは、誰からつたえ聞いたか知れない言葉をつげる。
「さとるは『ぼっちゃん』だから、『お手伝い』が校門までおくってるんだって」
「さとる」
彼の名前は舌になじみよく転がった。
夏油の声が聞こえたわけではないだろうが、さとると視線がかちあう。背後から思いきり殴られたような衝撃が走った。甲高い耳鳴りに、脳が揺さぶられる。記憶が流れこみ、情報の多さに吐き気がした。
どうして忘れていたのか。
呪霊や、呪術の存在。高専と、三年間の青い春。離反と最期の瞬間。ヒトの一生が脳を侵略していく。
胃液がせりあがった。吐き気が呪霊の味を想起して、夏油は口元をおさえる。じわりとにじみ出た唾液を、何度かわけて飲みくだす。
次第に記憶はなじみ、汗ばんだひたいを押さえた。うっそりと顔をあげると、悟はこれ以上ないほど目を見開いて、夏油を凝視していた。――ああ、と。悲しみとも喜びともつかぬ感情におそわれる。
彼も思いだしたのだ。夏油が非術師を嫌悪し、親もふくめて虐殺したこと。五条自身の手で最期をむかえたこと。
黙って見つめあう二人は異様な雰囲気に包まれる。大人たちは戸惑い、夏油の胸元に抱かれたゆうきは不安に駆られた。
「げとー?」
「うん、すまない」
夏油は笑顔をつくる。自分たちは生まれ変わった。転生、もしくは来世というやつだろう。
この世界に呪霊はいない。いるかもしれないが、夏油にはみえない。憎んでいた非術師になった。ひざに乗った幼い子が非術師でも、恨みはわかない。前世の思想と今の倫理がまじわり、不思議な気分だった。
「大丈夫、大丈夫だよ」
自分に言い聞かせるように、ゆうきの背中を撫でる。
「すぐる」
記憶より多少たかくて、幼い。それでもたしかな悟の声に心が震えた。夏油のほほが緩むが、悟の顔はこわばっている。
(それもそうか)
彼の教え子に、ゆがんだ思想を説いた前科がある。五条にとって夏油は裏切りもので、幼稚園の教諭についた目的を邪推されても仕方ない。
悟は、地面を蹴って駆けだした。肩にかけたかばんがずり落ち、中から帽子がはみ出る。だめじゃないか、指定の装具品はちゃんとつけないと。そんなことを考えるすきに、一気に距離を詰められた。
「こんっの」
悟は大きく腕を振りかぶる。避けるのはたやすい。でも、受け入れるべきだろう。
ゆうきに被害が及ばぬよう、胸元にふかく抱えて身をよじる。悟の目が鋭くなった。
「うわきもの!」
うわき。――浮気!?
殴られると思ったら、弾丸のように胸元に飛びこまれる。動揺と、支えきれない衝撃に夏油は尻もちをついた。
「悟くんがここまで人に懐くなんて」
まるで野良の犬や猫でも相手どった口ぶりで園長は感心する。
五条悟の名をもった彼は、今世でも名家のご子息らしい。由緒正しいおぼっちゃまがどうして民間の幼稚園に通っているのか。悟本人の意思に他ならない。物心ついたころ、屋敷の外でふつうの暮らしがしたいと望んだ。それならばと幼稚園側は受け入れたが、教員生徒とは壁を作り、親に相談しようにも多忙で連絡はつかない。ようやく取り次げても「幼稚園のことはそちらでお願いします」の一点張りで、ほとほと参っていた。
幼稚園から悟にたいする印象は冷静で、頭のいい子。
どこか冷めた子ととられていただけに、夏油にしがみついてわめく様は異様にうつる。
「初対面なのよね?」
何度かの確認に、夏油は苦笑した。
「ええ、まぁ」
一般家庭で生まれ育った夏油に、五条家とのつながりはない。前世で親友でした、といえば精神が疑われかねない。
園長も「そうよねぇ」と不思議に首をかしげた。
「なにか、運命みたいなものを感じたのかしらね」
殺した親友が、来世で先生として現れる。悟には運命というより呪いだろう。顔をあわせないようにしようとも思ったが、相性が良さそうだからと、悟のクラスにあてがわれた。
『年長組』と書かれた扉の前に夏油は立つ。
部屋の外まで子供のざわめきは届き、それを打ち消すように女教諭が声をはった。
「じゃあみんな、今日から新しい先生がきます。拍手で迎えてあげましょう」
夏油は扉をあけて、拍手の中心に入る。昇降口で会った子たちは、あーっと叫んで指さした。
「げとーだ!」
「すぐるだ!」
大勢の前には教祖をして慣れた。あのころは手を振ると拝まれたが、今は歓声が返ってくる。どこぞのアイドルになったようで悪くない。子供たちが猿にはみえなくて、よかったと安堵する。一方で、悟には鋭い視線を向けられた。
おー、こわ。
肩をすくませて、すこしだけショックを受ける。最後の最後に「親友だ」と告げられたが、夏油が危険人物である事実は揺るがない。
夏油はぱっと笑顔に切り替えて、床にすわる園児たちを見渡す。
「改めまして、私は夏油傑。2週間の短いあいだだけど、よろしく頼むよ。仲良くしてもらえると嬉しいな」
やだー! とか、いいよー! と言葉が飛びかう。収拾のつかない喧噪が広がるなか、悟の言葉が響いてきこえた。
「オマエ、2週間しかいないの?」
水面に石が落ちたように、静寂が広がる。
夏油は苦笑した。
「仮にも先生に向かって、『オマエ』はやめな」
周囲の、まだ言葉の善悪もわからない多感な子たちに悪影響だろう。
「答えてよ、傑」
悟は食ってかかった。名前呼び捨てもどうかと思うが、まぁ悟だしなぁと諦める。
「そうだよ。2週間限定」
「なんで」
「夏油先生はここに、お勉強に来てるんだよ」
みかねた担任教諭が助け舟をいれた。夏油が会釈すると、柔らかい笑みが返ってくる。
「お前にきいてねーし」
悟は夏油どころか、担任にまで険を向ける。
「悟、いいかげんに」
「イヤだ」
「イヤって」
「やだ。2週間だけとか、聞いてない」
「今言っただろ」
「ありえないでしょ。2週間で足りるわけないじゃん。傑と話したいこと、いっぱいあるのに」
語尾はふるえて、うつむいていく。悟は体育すわりした膝のうえで、小さな手をぎゅっと握りしめる。おいていかれた子供のような姿をみて、夏油の体は勝手に動いていた。しゃがんで、頭をなでる。
「まだ始まったばかりじゃないか。好きなだけ話せるよ」
まっしろな毛は、仔猫のようにやわらかい。ほほえみかけると、悟は顔をあげた。なにか言いたげに夏油のエプロンをつかむ。
「俺もすぐると話すー!!」
「うわっ」
俺も、私も、と飛んできたかたまりが背中や腕にひっつく。担当教諭は「すっかり人気者ですね」とのんきに見ていた。
「すぐる、べんきょーしに来たの?」
「すぐる、追いかけっこしようぜ」
「すぐる、2週間ってどれくらい?」
すぐる、すぐる、とまとわりつく子供たち。
立ちあがった悟のくちびるが戦慄いた。突如、夏油の脳内に記憶がよみがえる。――あれはそう、高専2年の春。初々しい後輩が入学したばかりのころ。夏油が「灰原はかっこいいね」と頭をなでてやったときに向けられた顔とよく似ている。あのとき五条は「俺のほうがかっこいいだろ!?」と叫び、あろうことか校舎に術式をぶっぱなした。
今の悟は。
「オマエらが傑って呼ぶな! 触るな! つーか視界にうつるな!」
――悟くんは冷静で、頭のいい子ですよ。そう悩ましげにいった園長が思い出される。
悟の牽制に、子供たちはふてくされた。
「えー、じゃあなんて呼べばいいんだよ」
「げとう先生でしょ」
「げとー?」
「先生をつけろよ」
「いや、君もな」
夏油は冷静につっこむ。偉そうにしているが悟も園児で、立場は変わらない。
担当教諭が後ろから、おずおずと聞いた。
「……悟くんと面識、ないんですよね?」
「ええ、まぁ」
夏油の返答を微妙そうに受けとめ、悟にもたずねる。
「悟くん、夏油先生と仲いいね。あったこと、あるの?」
「そりゃ、僕と傑は前せ――」
夏油はとっさに悟を背後から抱えて、口を押さえる。
こいつ、前世と言いかけやがった。夏油が止めなかったら確実に言っていた。悟のトンチキ発言で不審者扱いを被るのは夏油である。見下ろすと、悟はしてやったりの目をしていた。クソガキ……と言いそうになるのを、体裁だけでこえらえる。
「僕と傑は……?」
担当教諭は怪訝に首をかしげた。
余計なひと言の気配を察した夏油は、悟のお尻に手をそえて抱きあげる。
「悟! きみ、おもらししてないか!?」
悟は一瞬、なにを言われたかわからなかった。きょとんと丸い目が、驚愕と怒りに打ち震えていく。
「は、はぁ~!?」
「夏油先生、そういうのほかの生徒の前ではちょっと……」
担当教諭から小声でたしなめられて、夏油は「すみません」としおらしく謝る。
「では、責任をもって替えてきますね!」
「え、ちょ、……はやぁ」
呆然とした先生を置き去りに、夏油は後ろ手で扉をしめて廊下を突き進む。無難に優等生として乗り切る予定が、初日から大崩れだ。
「ああ、くそっ、最悪」
「最悪なのは僕だけど!? 何言ってくれてんだ。よりにもよって、お、おも…し、って」
悟は腕に抱えられたまま、傑の胸元をゆさぶった。『おもらし』と言うのも嫌そうに語尾が消える。それほど恥ずかしがることか。
「大丈夫だろ。今のきみは5歳児なんだし」
「中身はアダルトダンディなんですぅ~! あ、そこ空き部屋」
指さされた扉を開けて、電気をつける。空き教室でも清掃は行っているようで、埃っぽさはない。
部屋の前方には学生机といすが3つ置かれていて、既視感に目を細めた。柄にもなく感傷がよぎって、夏油は苦笑する。
「ここは?」
「昔、学童に使ってた部屋だって」
「ふぅん」
「懐かしいよね。高専みたい。あそこほど古くないけど」
――都会の喧騒から離れた静かな立地、耳をすませば木々のざわめきと、古い木造のにおい。大きな窓からさしこむ陽光と、3組の学生机。たった3年に満たない思い出は、嫌になるほど鮮明にこびりついている。
悟は椅子に足をかけて、机に座った。
「悟はいつから記憶が?」
「ちゃんと思い出したのは今朝、傑をみてから。なんとなーく予感はあったけど」
「予感?」
「なにか大切なものを忘れているような、ぽっかり空いた感覚。傑はすっかり忘れてたみたいだね」
その通り、すっかり忘れていた。非術師を猿とさげずみ、行ったことすべて。
責められて聞こえるのは、裏切りの自覚があるせいか。
唯一の親友は最悪の敵になった。前世の選択に悔いはないが、今なら別の道もあったと思える。
「さっき私たちの関係をきかれて、なんと答えるつもりだった?」
「そりゃあもちろん、俺と傑は前世からの親友だよって」
悟はピースをして、にかっと白い歯をみせた。毒気がぬけて、夏油はひたいを掻く。
悟は機嫌よく笑った。
「なに。不満?」
「あやしいだろ」
「恋人のがよかった?」
恋人とは、お付き合いしている人同士をさす。手をつないで出かけ、人目もはばからずイチャつく映像がよぎって、いやいやと首をふった。そんな過去はない。
「君、さっき昇降口でも浮気者、って言った? 聞き間違いかと思ったけど」
「そりゃ僕という恋人がいながらほかの子を抱きしめたら浮気でしょ」
恋人がいるくせにほかの子を抱きしめたら浮気。――ごもっともだが、夏油にも言い分はある。抱きしめていたというより、じゃれつかれていただけだし、相手は園児だ。なにより自分たちは恋人じゃない。
「私たちってそういう関係だっけ?」
「はぁ? セックスしたじゃん!」
「おい」
ほかに人はいないが周囲を見渡した。聞かれていたら一生をブタ箱で過ごすことになる。
夏油は一歩寄り、声を小さくした。
「したけど。付き合おうとは言ってないだろ? それに前世のそういう関係を持ち越すのは」
言いながら、なんだこの言い訳は、と冷静になる。
なんだこの、都会に出て面白おかしく過ごしていたら、遠距離で疎遠になった地元のセフレと再会した……みたいな状況は。脳内硝子が「クズじゃん」と煙草をふかして笑う。
「そりゃ言葉にして言ったことはなかったけど。でも、セックスは好きあってる人同士でやるもんでしょ。付き合ってるみたいなもんじゃん」
白いほっぺを淡く染めていわれて、夏油はくらりとめまいを感じる。そうだった。この坊ちゃんはすれているようで、純情なところがあった。
悟のセックスは丁寧だし、嫌がることはしない。体の相性は正直よかったと思う。
「あのね。べつに恋人でなくてもセックスは――」
恋人でなくてもセックスはできる。
そんなこと今どき中学生でも知っている。
でも目の前でぼうぜんとする悟のみためは5歳児で、天使のようにかわいらしい。
「傑は僕のこと、好きじゃなかったの?」
夏油は深呼吸をくり返した。惑わされるな。五条悟は天上天下唯我独尊を素でいく。しおらしさは演技だ。夏油がほだされたとたん、ぺろりと舌を出すに決まっている。
高専時代からそうだった。私もやりすぎたかな、と謝ると、「だよな、俺もそう思う」と真顔でうなずかれる。そのたび再戦が始まった。だから、騙されちゃいけない。騙されちゃいけないと思うのに――悟はたいそう顔がよかった。記憶より幼い顔でじっと見上げる。透きとおった青いひとみに水分があふれる。
夏油は深く、息を吐きだした。
「私が悪かったよ、好きだから、泣かないでくれ」
「泣いてないし。この体は子供だから制御がきかなくて、勝手に出てくんの」
それを泣いているというんじゃないか? と思うだけで、言わずにおく。夏油は精神と体の年齢が近いが、悟はつい先ほどまで園児で、記憶だけがよみがえった。精神と肉体のつり合いが取れない混乱は大きいのだろう。
「僕と付き合ってよ。今度こそ恋人になって」
悟は袖口で乱暴に目元をぬぐった。
夏油は、文句があるなら聞くし、殴りたいなら一発くらいは受けいれるつもりでいる。それが嫌な役回りを押しつけた親友へのけじめだと思った。けれど、告白となれば話は変わる。夏油は子供の言葉をうのみにするほど、愚かではない。
悟の感情は前世にひっぱられたものだ。輝かしくも濃厚だった青春と、その幕引き。思い出の熱量にたえきれなくて、やっきになっている。成長して『今』の思い出が増えたら目も覚める。
夏油はできるだけ優しい声を出した。
「気持ちはうれしいけど、今の悟とは付き合えないよ」
「なんで」
「まだ子供だから」
「じゃあ10年待ってあげる。出会ったころと同じ年齢になったらいいでしょ」
10年。それだけあれば悟の頭も冷えるだろう。お気に入りのおもちゃを取られたような執着にも、きっと飽きがくる。
「そうだね。10年後に同じことを言えたら、考えるよ」
「言ったな。約束だからね」
必死に夏油の腕をつかむ悟が、見た目相応にかわいくみえる。
「指切りでもする?」
夏油が小指を出すと、悟はかぶりを振った。
「いや、いい。10年後にはちゃんと考えるって、誓ってくれたらそれでいい。傑の言葉を信じる」
夏油を見据えて言った。腕をにぎる悟の指には力がこもる。痛みによって、見た目に騙されたお花畑フィルターが晴れる。
10年後。出会ったころと同じ年齢といっても16歳だ。未成年で、今の夏油より年下である。
ないとは思うが、もし万が一。悟の感情が色あせてなかったら。
「やっぱり20年後にしない? 25、6、7あたりだったら私が死んだ年齢と近いし、キリもよくない?」
後半は半分冗談だったが、悟が信じられないといった顔をしたので、あ、外したなと思う。
「オマエほんとふざけんな!」
怒声が教室に響き渡り、夏油はからからと笑った。