手折り難き百合の花は:
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既に夜の帳が降りていた。遥か下に広がる街には無数の作り物の光が流れている。時折止まるのは信号のせいか。敦はぼんやりとそんな事を考えながら高層ビルの最上階から街を見下ろしていた。
「っ、だざ……っ!」
硝子窓に触れていた指先に、自分より一回り大きな手が重なった。もしかしたら、と、敦はあり得ない現実を一瞬だけ期待した。
けれど振り返ると目に入ったのは煌びやかな招宴会場と、金色に輝く髪をかきあげる男だった。
「そこまであからさまに落ち込まれると、流石の俺でも傷つくんだが」
仕立ての良い背広を着こなす男、フィッツジェラルドが少し困惑気味な笑顔で肩をすくめた。上質な装いに洗練された身のこなしは、どこか現実離れをしている。そんな風に敦の目には映った。それこそ、つい先刻、ほんの数時間前までは敦もフィッツジェラルドも、血生臭い惨状の中で生きるか死ぬかの瀬戸際にいたはずなのに。一転してこれはどういう事なのだろうと、敦はまだ現状に思考が追い付かない。
「しかしまあ、大急ぎで支度をさせたが、素晴らしいものだな。こんなちっぽけな島国の美容師達の腕もなかなか侮れない。何人かスカウトして連れて帰ろうか?ゼルダは屹度気に入ってくれるだろう」
そうしてフィッツジェラルドは窓に触れていた敦の右手を優雅な仕草で持ち上げると、背を屈め恭しくその手の甲にそっと唇をつけた。
「な……っ?」
そんな二人の様子を目にした周囲の人間から、小さなどよめきが起こる。
「さっきまでずぶ濡れの見窄らしい小虎(タイガー)だったのがこんな艶やかな白百合(リリィ)になるとは。俺もまだまだ女性を見る目がなってない」
フィッツジェラルドは現在、警備会社を軸とした複合企業体のトップとして、国内外の政財界の重鎮達が集うこの招宴に来ていた。
そして敦は何故かそれに同行させられている。本来ならパートナーである女性を伴って出席するものであるらしいが、諸事情故にフィッツジェラルドの妻は彼の隣にいない。
「僕はあくまでも、貴方の護衛だと聞いて了承したつもりなんですけど」
とは言ってもこの男に護衛など必要あるのだろうか。会場警備で所々に立っている屈強な警備員達が束になって掛かってきても負けやしないだろうに。
フィッツジェラルドに手を取られ、腕を組むように促されて敦は渋々手を回す。そしてそのまま、彼に請われるがままにその胸に凭れ掛かってしまえば、どう見ても近しい関係に取られかねない。
「しかしこれでは、動きづらくていざというときには役に立ちませんよ」
敦の格好は和装。それも振袖だ。
フィッツジェラルドが会社で懇意にしている百貨店の外商に掛け合い急ぎ取り寄せた物だと言うが、着物も帯も、髪飾りから小物一式まで最初から誂えたかのように敦にしっくりと馴染んで、選んだフィッツジェラルドや着付けを担当した美容師達は勿論のこと、傍で見ていた鏡花やオルコットも息をのむ。
解っていないのは当人のみだ。
「黒髪の少女は同じような格好で機敏に動いていたぞ」
「鏡花ちゃんは……あれが普段着だし」
しかし珍しく作業着で行動している鏡花も普段通りの身のこなしだ。彼女はきっと何を着ても問題ないだろう。そう思うと言い訳にしかならない自分の言葉に敦は落ち込んだ。下を向けば美しい花の意匠があしらわれた着物の裾が目に入った。
「まあ今回は、そういう護衛じゃない。美しい女性は嫌いではないが、俺には最愛の妻がいるのでね、そのためだ」
フィッツジェラルドの言葉に敦は目を眇めた。
彼の同伴者として、現状身近な女性と言えば参謀役のオルコットになるはずだ。しかし彼女は、敦が鏡花と共にフィッツジェラルドの持つ監視システム『神の目』を頼るためにその社屋を訪れた際、先に入り込んでいた侵入者の急襲を受けて負傷してしまった。
そんな中でフィッツジェラルドは取引ついでに『武装探偵社』の敦と鏡花にこの『警護』の依頼をしたのだ。しかし鏡花では見た目は極上だが少々幼すぎて同伴者としてはフィッツジェラルドに釣り合わない。そんな経緯もあって敦が受けることになる。
『勿論見合った報酬は払う。それにどっちにしろ逃走資金もいるのだろう』
そう言われてしまえば、敦は拒むことも出来ない。
「でもそれなら、尚更僕では役不足のような気が」
眉を顰める敦の様子にフィッツジェラルドは小さく吹き出した。
何故そこで笑い出すのか。訝しげに見上げてきた敦の、薄く紅を引かれた唇をフィッツジェラルドはそっと親指でなぞった。
「わけがわからないという顔だな。そういう君の無自覚さは愛らしくも有るが時として困りものだ」
フィッツジェラルドはくつくつと笑いながらも、此の唇を既に味わい尽くしている男がいるのだと思うと、何故かしら胸の裡に黒い靄が掛かる気がした。
ここにいるのは真っ白な、百合のように凛と佇む白皙の少女。正体を知らぬものからの視線は、それはそれは熱を持ったものが多い。こうやって親しげな男が隣に立っていても隙あらば、といった不貞不貞しい輩も見受けられる。
「……あの探偵屋も、さぞかし苦労しているのだろうな」
フィッツジェラルドは、自分とは目も合わそうとせず顔を背け俯いた敦の白い首筋を眺めた。そんな細い首などすぐにへし折ってしまえそうなのに、と思うがその身が怒れる白虎に変化するのをフィッツジェラルドは幾度となく見ている。甘く見ていたら白虎の強靭な爪が己の喉に食い込むだろう。
「さて、と」
フィッツジェラルドは窓の外を見下ろし乍、背中越しに敦をしっかり抱き寄せて耳許に唇を寄せた。
端から見れば女に愛を囁く男と言う素振りで自然に。
「君達が探偵社を助ける為に探している人物は、今、見ている大通りの……」
しかし、敦がフィッツジェラルドとのあり得ないほど近い距離に頬を染め、からだを強ばらせ乍聞いているのは、明日『襲撃』する銀行の『内部構造』だった。
抱き締められて頬を染めながら微動だにせず、何も言わず、一言一句聞き洩らすまいと男の睦言に耳を傾けるその様子は無垢な少女の男への従順さを周りに印象づけた。
誰も二人が物騒な計画を練っている最中だなんて思わない。
「街の治安を護るための警備会社の頭が、お尋ね者を援助するとはとんだ醜聞だな」
「そう思うなら、何故?」
「さあな……まあ、強いて言うなら」
フィッツジェラルドは招宴会場へと向き直り、こちらへと不躾な視線を向けている男共を一瞥した。そして未だに窓の下を眺める敦に目を移す。白百合で飾られたその項の白さ、其れに惑わされる男は今後も少なくはないだろう。
「彼奴はいけ好かない奴だが、無頓着過ぎる君に何かあったらこちらに来るとばっちりは計り知れないからな、一種の保険だ」
此の場にいないくせに己の手にあるべき華を隠そうとする男の影を、フィッツジェラルドは腹の底で嗤う。そんなに心配ならさっさと事を終わらせろと。
「まあ、彼奴に加勢するつもりは更々ないが……それに、この仔虎も決して弱いわけでは有るまい」
誰に向けたわけでもない言葉を、フィッツジェラルドは給仕の持ってきた冷えた白葡萄酒で、一気に流し込んだ。
あとがき:
正月なので敦君♀に着物で招宴に出てもらいたかったという私の煩悩ダダ漏れ。
何故フィッツさんなのかというと金の力です(笑)
個人的に敦君には白百合が似合うと思います。鈴蘭も可愛いけど。
念のために言いますが太さんと敦君はもう色々出来上がってる。
何故フィッツさんが知ってるのか……きっとどこかの安居酒屋でうっかり鉢合わせてその酒の席でお互いに盛大のろけあったんでしょう(周りは大迷惑)
三が日中に新たな煩悩出したいです(今年の抱負)