ミルクセェキクラウン 雨足が次第に強くなってくる中、敦はもう30分も其処から動けずにいた。
しゃがみ込んだままで足がしびれてきた。そして頭のてっぺんから足の先までずぶぬれだ。薄手の襟衣がぺったりと肌に張り付いて気持ち悪い。運動靴もぐずぐずに濡れている。
ちょっとそこまで買い物に行こうと寮を出たので、持っているのは財布と鍵と携帯電話だけだった。少ない荷物だということだけがせめてもの救いかもしれない。しかしこの状態では、もう店にはいることはできない。
何事かと、そんな敦を見かねて時折声をかけてくる人はいた。しかし敦の足元を見て、事情を察して首を振るばかりだ。
「ごめんね。こんな事ぐらいしかできなくて」
敦は段ボール箱の中に蹲っている、産まれて間もない小さな仔猫達に傘を掲げていた。2匹の仔猫のうち1匹は大分弱っているようでほとんど動かない。もう一匹はその仔猫を護るかのように覆い被さり、か細い声で懸命に敦を威嚇していた。
自分が連れ帰ってあげられたら。
そう思うけれど、敦は大学の寮に住んでいるので飼うことはできない。自宅から通う友人達に連絡をとってみたが引き取るのは難しいと言われた。他を当たってくれると言ってはくれたが、都合よくすぐに見つかるわけがない。その間に、更に酷くなってきた雨の中、仔猫たちを見過ごすことなどできず、敦は自分がずぶぬれになることもいとわずにその場にとどまり続けた。
「おねえさん、何してるの?」
敦の頭上から雨が遮られると同時に、少し高さを残した声が聞こえた。顔を上げると見知らぬ少年が傘を自分に翳している。
「あ、ありがとう。でも、君が濡れちゃう。僕は傘ちゃんと持ってるから」
「おねえさん、傘持ってるって言うけど、猫にしかさしてないじゃないか」
少年は敦の横にしゃがみ込むと、一緒に傘に入れるようにぴったりとくっついてきた。
「駄目だよ。僕はもうずぶ濡れだからそんなにくっついてきたら君まで濡れちゃう。それ、制服でしょ」
少年の襟衣の胸元には校章と学年を表す数字がついていた。
それは二つほど先の駅にある、超難関校と謳われる有名な中高一貫男子のものだった。。
「明日は日曜日だから平気だよ。それに月曜日までに乾かなくてもサボるから問題無いさ」
「サボるって……君、ダメだよ、そんな理由でさぼったら」
「おねえさん、真面目なんだね」
「真面目って……だって、学校は行かなきゃいけないもんだし」
淀みない口調でそう宣う賢そうな少年に、敦は唖然とする。
両親がおらず幼い頃から施設の中で規律に則って過ごしてきた敦には、そんな理由で学校をサボるなんて考えられないことだった。
「今時、色んな事情で学校に行かない子は大勢いるよ」
「そりゃあ……そういう色んな事情もあるだろうだけど、でも君の言う理由はちょっとどうか……と……」
そう言いかける敦の方を少年はじっと見上げた。そうして濡れて頬に張り付いた敦の白い髪を、指先でそっと掬い上げる。
「で、おねえさん、猫、どうするの?」
「どうするのって……」
「助けたいんじゃないの?」
ほんのついさっきまで、明るい子供の口調だった少年の声に敦は背筋を震わせた。
雨に濡れすぎてからだが冷えたのを錯覚したのかと思ったけれど、そうではないことを、少年の鳶色の瞳の奥に見えた底知れぬ昏さに気づかされる。
敦はぞわりと身体を震わせた。これ以上は、もう関わってはいけない。
けれどその警告はもう手遅れだった。
「助けてあげたいんでしょう」
「……そりゃあ、助けたいけど。でも僕は大学の寮だから連れて帰れないし、友達にも聞いてみたけど。引き取り先探してくれてるけれど、きっと難しいだろうから」
少年の指先が敦の鼻先へと動く。敦を濡らした雨の滴が少年の指先を伝って落ちた。
「ねえ、おねえさん」
指先はゆっくりと敦の唇へと動いてその形をなぞっていく。自分より年下の、幼いこどもの指だと言うのに、敦はその艶然とした力に抗えない。
「僕の恋人になってよ。そしたら手を貸してあげる」
「は?」
その仕草の妖艶さとは裏腹な、少年の屈託のない笑みを湛えた口から飛び出してきた思い掛けない言葉に、敦は今度こそ目を丸くして戸惑うしかなかった。
ーーー
「僕の家なら広いし猫が増えたって森先生は文句言わないよ。あ、森先生は藪だけど一応お医者さんだから猫も看てくれると思うよ」
少年は学校の関係で両親と離れて親戚の家に居るのだという。それはそれで迷惑になるのではと敦は少し眉をひそめたが『僕の家』だから大丈夫だと笑いながら、仔猫たちが入った段ボールを抱え上げた。
「おねえさんの方が背が高いから傘、持ってね。一本で歩く方が楽でしょ。恋人同士だから相合い傘でも何の問題もないし」
「え、ちょっと、君!」
そう言いながら少年は段ボールを持って歩き出したので敦は慌てて少年の傘を持ち、猫に翳していた傘を閉じて後に続いた。
「ちょっと待って。僕まだ恋人になるなんて言ってないし」
「でもお友達の伝手はあてに出来ないんでしょう」
「そう……だけど、でも。」
自分よりも随分年下の少年にいきなり告白されて恋人だと断定され、呆然としてるところに頼んでいた友人から電話が入った。予想はしていたことだったが、やはり猫の里親探しも難しいと言う話だった。
「ならばよいじゃないか。おねえさんは猫の心配をしなくてもよくなる。僕もおねえさんと恋人になれてお付き合いできる。万々歳だよ!」
「いや、いやいやいや……」
猫を助けてもらえるのは有り難いけれどその条件はどうなのか。
「何で、恋人……なの?」
「恋人がだめなら愛人でも?」
「いやいやいや……だから何でそうなるの?」
「ほら着いたよ、此処が今から僕達の家」
戸惑うばかり敦の言葉などお構いなしに、少年は一件の古ぼけた病院の裏へと回り関係者通用口と書かれた扉を開けた。
「ただいまぁ~!森さん居るのぉ~!」
変声前のよく通る声を張り上げながら、少年は灯りの点った部屋の扉を足で蹴り開けた。
部屋に大きな音が響きわたり、敦や小さな猫たちはびくりとからだを強ばらせる。
部屋で机に向かって書類の整理をしていた森と呼ばれた、よれた白衣を着ている男と、そのそばに立っていた金髪の少女も大きく肩を跳ね上げた。そうしてひとつ、大きな呼吸をして、落ち着いたところで森は少しばかり疲れた顔をあげて少年と敦の方を向いて、驚きに大きく目を見張った。
「お帰り……って太宰君ずぶ濡れじゃないか!どうしたんだい?まさかこの雨の中川に飛び込んだとか?そちらのお嬢さんも?もしかして太宰君の自殺癖に巻き込まれたのかい?!」
「え、あ……自殺癖って?」
「取り敢えずお嬢さんはからだ拭いて、って、ああ先にお風呂に入った方がいいかな、冷えて風邪引いたらいけないね、夏風邪は長引くと悪いから、って太宰君なんだいその抱えている箱は……!」
森は慌てふためきおろおろと困り果てた顔で、太宰と呼んだ少年と敦を見比べ、そして仔猫たちがいる箱をのぞき込んだ。
「ああこれは一大事だ、かなり弱ってるじゃないか!エリスちゃんバスタオルをいっぱい持ってきて!後お湯と、お風呂と、お嬢さんの着替えと!」
「もう、リンタロウ!慌てないで!取り敢えずタオルは其処の籠にあるから、先ずは二人ともそのずぶ濡れのからだをなんとかしなさい!」
敦はエリスと呼ばれた金髪の少女が指し示した籠からタオルを取り出すと、一瞬ためらったが真っ先に仔猫達を拭き始めた。
「ごめんなさい、これ、病院の患者さん用ですよね。後で洗って、じゃだめか。弁償します。ごめんなさい」
敦は弱々しい声ながらも未だ自分を威嚇してくる仔猫をタオルで丁寧に包み込む。そしてもう一枚タオルを取り出してほとんど動かないもう一匹の仔猫を抱き上げると丁寧に拭き始めた。
「よかった、まだ、生きてる」
もぞもぞと、ほんの僅かながら動きを見せる仔猫に敦は思わず安堵の笑みを浮かべた。
「猫のことなら私の友人に無類の猫好きがいるから、彼に連絡を取って対処の方法を聞いてみよう。その間に君は風呂にいって来たまえ。エリスちゃん、お嬢さんをお風呂に案内して、そして着替えを」
「で、でも」
「なあに私は人間相手の医者だから猫は専門外。だから診療費は取らないよ」
「さあ、あなたはこっちよ!風邪引いたらそれこそタダじゃすまないわよ、診療費!」
「は、はいっ!」
気の強そうな金髪の美少女・エリスにすっぱりと言い切られ敦は有無をいわさず風呂へと連行された。
「ちょっと待ちたまえ、太宰君」
そして敦達と一緒に部屋を出ようとする太宰を森は怪訝な顔をして呼び止めた。
「どこへ行くのかね?」
「どこって、僕もお風呂に」
呼び止められた太宰もこてんと首を傾げ、なぜ自分を呼び止めるのかと怪訝な顔を森に向けながら答えた。
「……今、あのお嬢さんが行っただろう」
「だから一緒に入ろうかと」
「だから、何故?」
「そりゃだって僕とおねえさん、『恋人同士』ですもん」
太宰はそれはそれは花も綻ぶような、愛らしい満面の笑みを浮かべて『恋人』だと抜かし、だから当然でしょう、と続けられた言葉に森は一瞬頭が真っ白になった。
「そうか恋人同士かそれならば……は、いや、いやいやいや、ちょっと待ちたまえ太宰君!」
どう見てもあの少女と太宰は今日が初対面で、太宰は兎も角少女の方は初対面の少年にいきなりつきあってくださいと言われて即応じるような性格ではないだろう。この仔猫たちを口実に太宰が強引に此処につれてきたと考えるのに間違いはない。森はこの僅かばかりの時間でそう分析する。少女の方はただ仔猫を救いたい一心でしかないだろうが、さて太宰の方は。
「……って、太宰君?!」
思考の淵に嵌まりこんでいた一瞬のうちに太宰が部屋から出ていったことに森が気づくと同時に、風呂の方からエリスの罵声と少女の悲鳴とが響いてきた。
ーーー
「ん……」
白い敷布の上に伸ばした左腕が見えた。
胸のあたりがなんだかむずむずするのは着慣れない借り物の寝間着のせいだろうか。そして見慣れない壁にここはどこだろうかと考えながら敦は朧気に昨日の出来事を思い出す。
土砂降りの中買い物に出たら段ボール箱の中に置き去りにされていた二匹の仔猫を見つけた。それをそのままにしておけなくて傘を仔猫達に掲げて飼い主探しを友人達に頼むもなかなか上手く行かずに途方に暮れていたところを見知らぬ少年に声を掛けられた。そして『恋人』になったら手を貸すと言われる。それに対しての返事もせぬ間にそんな成り行きで仔猫達を彼の家だという病院に連れてきたのだ。
「それから……」
人間対象の病院の『藪医者』といって少年が敦に紹介してくれた森医師が、無類の猫好きという友人とやらに猫についての事を尋ねながら手際良く仔猫たちに処置を施してくれた。その間に彼と共にいた金髪の少女に、風邪を引いたら診療費をとるとどやされながら風呂に向かい、そうして、それから。
「ああ、そうだ、仔猫の様子が気になるなら泊まっていいって言われて、それで」
幸い命に別状はないものの、まだ安定しない仔猫達の容態と今後を気にする敦に、森は空き部屋なら沢山あるから気にしなくて良いと言って、泊まることを勧めてくれた。なので敦も明日は日曜日だしと言うことでその言葉に甘えたのだ。
「あのこ達、ちゃんと眠ったのかなぁ。後でミルクあげないと。お店が開いたら購ってこなきゃ」
敦は頭では朝だと認識しながら、それでも昨日は夜遅くまで仔猫達の様子を見ていたのでまだ眠り足りない。そう訴えかけてくる瞼に敦は逆らわず目を閉じようとした、が。
「え?」
左手がもう一本、敦の目に見えた。これは自分の腕か?いや違う!いったいどういうことか。
自分が着ている寝間着とは違う模様の寝間着に包まれた腕の存在を認識して敦は否が応でも覚醒する。
それと同時に背中にぎゅうっと、何かが押しつけられてくる感覚がした。そして首を少し湿った何かが擽って耳に熱い何かが吹きかかる。
「ひゃあ……っ!」
「駄目だよ逃げないで。折角二人で迎えた初めての朝なのに」
聞こえてきた声に驚いて跳び起きようとするけれど、後ろから延びてきた腕が、そして脚が敦のからだに絡みつき、そのまま羽交い締めにされた。
「君!何でここにいるのっ!」
敦がちらりと視線を後ろに向けると黒い蓬髪が揺れ、くるんと大きな鳶色の瞳が真っ直ぐに向けられていた。
「だってここ、僕の家だし」
そんな事は敦だって重々承知だ。抑彼が世話になってる親戚の家だと言って連れてきたのだから。今聞いているのはそんなことではない。
「それにおねえさん、うん、て、言ったじゃないか」
「は?何を」
「僕、ちゃあんと尋ねたよ。一緒の寝台で寝るよって」
そういって元凶の少年は敦のからだに回した腕にぎゅっと力を込めた。自分より小さなからだをした少年のはずなのに力強さは一人前の男だ。
「でもっておねえさんもちゃあんと『うん』って言ってくれたから。だから一緒に寝たの。恋人同士の最初の朝を迎えるのには些か雰囲気が物足りない気がしないでもないけれど、まあそれはしょうがないね。こんなおんぼろ病院だから」
敦は昨日は確かエリスに案内されてひとりでこの部屋に入って、この寝台に横になった筈だ。それは間違いない。
「でも、でも……やっぱり、僕、一緒に寝るだなんて、そんな事尋ねられたら覚えもいいよなんて返事した覚えもないし」
「もう、しょうがないなぁ。僕の部屋で一緒に寝ようって思ってたのに、僕がお風呂に入ってる間にエリスちゃんがさっさとこっちの部屋に案内しちゃっておねえさん眠っちゃってたから。だから僕もこっちの部屋に枕持ってきて。そして一緒に寝るよって言ったよ。そしたらおねえさんもちゃんと『うん』って言ってたよ」
それはただ単に己の眠りを邪魔されたところを唸ったのではないかと敦は思うのだが。
しかし何をいってもこの少年は屁理屈を捏ねて敦を言いくるめて仕舞おうという心積もりだ。
もう口では敵いそうもないと敦は諦観を込めて小さく溜息をついた。
そして、それでも少しからだを捩らせて敦は抗議の意を表す。そうすると腰の辺りに何か張り詰めて堅くなったものが当たった。
「え……」
そういう経験が無くともさすがにそれがなんなのか。敦も一般的な常識としてわかる。ましてや自分にぴったりくっついたままの少年は中学生。そういうお年頃だ。その正体を認識してかあっと体中が熱くなる。敦は思い切りからだを捩って少年の方を振り返った。
「あ」
そうすると敦の眼に自分を真っ直ぐに見つめる少年の顔が見えた。顔の左半分を包帯で隠している。
「そうだ、君っ!!」
昨日の風呂場での出来事が敦の脳裏に鮮明によみがえった。
敦が服を全て脱いだところ、少年がいきなり脱衣所に少年が入ってきたのだ。
そしてさも当然のように一緒に風呂に入ろうと言いながら、それはそれはもう一瞬呼吸を忘れるほどの絶世の美少年の微笑を向けてきた。
その笑顔に敦も一瞬絆されそうになった。が、着替えを持ってきてくれたエリスの、あの西洋人形のような可憐な容姿とは裏腹の地獄の底から響き渡るような罵声に我に返り悲鳴を上げて少年を脱衣所から叩き出した、のだ。
「……ごめん、それ、痛かった、よね」
状況が状況なので致し方ないとは思うが、男とはいっても自分より年下でからだも小さな子供だ。
そんなに彼が左目に包帯を巻いている。思わず叩き出した時に勢い余って当たりどころが悪く酷い痣でもできたのだろうかと敦は不安になる。
「うん、おねえさん結構力強いよね。でも大丈夫だよ。これ、ものもらいだから!」
「……はぁ?」
にこりと笑いあっけらかんと言い放つ少年は巻いていた包帯を解くと赤く腫れた左目を敦に見せてくれた。
「一昨日体育の授業が外でさぁ。運動場の砂埃が酷くて目に入ってむずむずするから擦ってたらこうなっちゃったの。森さんに手当て頼んだら怒られちゃったよ、汚い手で触るなって!」
「はぁ……」
「だから昨日おねえさんと会ったときにも包帯してたんだけど、気付かなかったの?」
そう言えば、と敦は思い出す。あの雨の中で見た瞳は……。
「まあ暗かったし土砂降りだったし。それにおねえさん仔猫のことが気になってしょうがないって感じだったから気付かなくても仕方ないか。でも折角だから初対面の僕の顔もきちんと覚えていて欲しかったなあ。ああでも右目だけでも初めて見たおねえさんの裸はばっちり記憶したから」
「はぁ?!」
「おっぱいはちょっと小振りだったけどふわふわで柔らかいよね!」
出来れば其処はいって欲しくなかった。敦とてささやかな大きさの胸を年頃の女子らしく気にしてはいるのだ。
「……え、ちょっとふわふわって?!」
そして聞き流せばよかった言葉に思わずつっこみを入れてしまった。そうしてはっきりと、出来れば気付かずにいたかった状況を敦はわざわざほじくり返してしまった。
「え、さっきから僕がずっと揉んでたんだけど。恋人におっぱい揉んで貰ったら大きくなるって言うじゃない。僕の手はまだ小さいから今のおねえさんの大きさにちょうどいいでしょ。これから僕も大きくなるし、おねえさんの胸の大きさもきっと一緒に大きくなるし!」
最早『恋人』という位置付けはこの少年の中では揺るぎないものらしい。もう何処からどうツッコめばいいのか。取り敢えずいろいろと心配して損した気分だ。そして敦に解ることは、この少年のエロ知識は自分より遙かに上だということだ。しかし胸のことについては余計なお世話でしかない。いくら恋人(自称)とかでも触れてはいけない繊細な事情がひとつやふたつある。
「ねえ君……」
「違う」
「え?」
「おさむ、太宰治だよ。僕は君の恋人なんだから名前を呼んでよ」
にっこりと浮かべた笑顔に敦は口許を引き攣らせる。何もかもこのこどもに流されたくない。そんななけなしのプライドが頭を擡げる。
「……太宰さん」
「……なんでそうなるの?」
「何となく、そんな感じ」
期待した答えとは違う。太宰は笑顔からそ不満げな表情へと変わる。
「せっかく恋人同士でこんなに近くにいるのになぁ」
しかしそれでも恋人だと太宰は強調する。だが敦はまだそれを了承したつもりはない。
いきなり何の気まぐれで、見た目よし、超有名進学校に通うほどの頭脳で親戚の医者のところで世話になっているという将来的な地位も超有望そうな彼がこんな何にもない自分に声をかけてきたのか敦には全く持って理解出来ない。
「まあいいや、おねえさんらしいし。でも僕はおねえさんのこと名前で呼びたいから名前、教えて!」
「え?」
そうして散々恋人だ何だといいながらまだ自分の名前も知らないなんて。行き当たりばったり過ぎる関係に敦はなんだか笑いがこみ上げてきた。
「え、何?今笑うとこなの、おねえさん?」
「ううん、そうじゃないけど。うん。そう、そうだ、名前。中島敦だよ」
「あつし……敦君?」
「うん、だいたいそう呼ばれる」
「敦君、かぁ……うん、敦君!」
友人達にも呼ばれる自分の名前が、太宰の嬉しそうな声と共に耳に響く。それがなんだか妙に胸にくすぐったく感じる。
それが寝間着の中に入り込んだままの太宰の手のせいだとは思わないでいたいと思いながら、敦はその年不相応に不埒な手の甲を思い切りつねった。